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white minds  作者: 藍間真珠
第二部 ―疑念機密―
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第五章「遠回りな求愛」第十四話

「はい、怪我もなし。大丈夫」

 シンが治療室に入るなり、そんな声が耳に飛び込んできた。生成色のカーテンの向こう側をのぞくと、小さなベッドに座り込んだサツバの姿が見える。気落ちした様子の彼の肩を、リンがぽんと軽く叩いた。

 さらに向こう側のベッドでは、北斗とローラインが何やら話をしていた。その様子を見る限りでは北斗も平気そうだ。少なくとも動けないような怪我は負っていない。

「あ、シンさん」

 振り返ったローラインがぱっと顔を輝かせて立ち上がる。それにつられて、北斗もぎこちなく半身をこちらへと向けた。その顔色は予想したよりも蒼い。土気色とまでは行かないが、明らかに不調とわかる程度には病的だった。

「二人とも大丈夫なのか? 顔色はあまりよくなさそうだが」

 仲間たちの方へと近づきながら、シンは首を傾げる。負傷していないとなると精神系の技でも食らったのだろうか? それとも破壊系か? どちらでもなければ、単に精神の消耗が大きかったのか。

 大股でベッドの隙間を縫っていけば、薄灰色の床にかつんと靴音が響く。するとサツバは、ふいと何か言いたげな顔で視線を逸らした。わずかに尖った唇がもごもごと動く。

「別に」

「もしかしたらミスカーテの毒をかすかに被ったかもしれないのよ。だから大人しく飲みなさいって言ってるんだけど」

 黙り込んだサツバの代わりに、答えたのはリンだった。左右の拳を腰に当てて、大きくため息を吐いている。同時にローラインが何かを掲げたのが見えた。小さな革袋だ。

「それは……」

「レーナがくれた薬」

 見覚えがある。そう思って尋ねると、リンは単刀直入に告げた。そこでようやくシンもこの治療室に漂うなんとも言えない空気の正体を突き止める。おそらく、この薬について既に一悶着あったのだろう。

「せっかくいただいたものですからね。北斗さんは飲みましたよ。美しい」

 両手を広げたローラインはふんわりと微笑んだ。その言葉に北斗が微苦笑したところからすると、ローラインのすすめを断れなかっただけなのだろう。本当はサツバ同様にあまり飲みたくなかったに違いない。

 レーナからの借りが増えることを二人がよしとしていないのは、手に取るようにわかった。自分たちの命、生活を守るためだと、割り切れないからだろう。そういう者は他にもいるのかもしれない。

 では自分はどうだろうかとシンはふと振り返る。防寒具を頼むまではわだかまりがあったような気がしていたが、このところは彼女たちと話すことにも抵抗を覚えなくなっていた。

 物をもらうというのは、何か一つ大きな契機となるのだろうか。だからサツバは薬を飲むのを躊躇っているのか?

「ま、庇われちゃったことになるのが気にかかるのは、わかるんだけどね。どうやらレーナは寝てるっていうし」

 あえて明るい声を出したリンは、大袈裟に肩をすくめながら傍にある戸棚へ寄っていった。その横顔を眺めながらシンは眼を見開く。

 庇われた? レーナが寝ている? 初耳な話ばかりだ。サツバたちが危ういところへレーナが駆けつけてくれたのは気からわかっていたが。そこで何が起こったのかシンは知らない。 

「どうしてここまでしてもらえるのかわからないと、不安になるわよねぇ」

「不安とかじゃねぇよ。ただ、納得できないだけで」

 続くリンの言葉に、弾かれたように顔を上げたサツバはさらに唇を尖らせた。これはリンの誘導だ。咄嗟にシンはそう感じ取る。

 サツバに何か喋らせたい時に彼女がよく使う方法の一つだった。何かあると黙り込もうとする癖への対抗手段だ。勝手に気持ちを決めつけられるのを、サツバは特に嫌がる。

「助けて、もらったことは、悪いと思ってるけど。でもよくわかんないけど守ってくれるから信用するなんて、そんなのおかしいだろ」

 苛立ちを滲ませたサツバの声が、静かな治療室に染み入った。その言い分もわからないわけではない。

 けれども現実として、レーナの力なしにこの局面を乗り越えられないのは間違いなかった。今日の戦闘とてそうだ。信用しなくとも利用していかなければ、神技隊は生き残れない。

「……理由もなく巨大な贈り物をもらったようなものだからな」

 そこでぽつりと、北斗が呟いた。ずしりと胃の底に響くような、重たい指摘だった。シンにもなんとはなしに、その居心地の悪さが理解できたような気がする。

 ――レーナには目的があり、そのためなのだとわかってはいるのだが。それにしても彼女が犠牲にしているものも、提供してくるものも大きすぎる。だから余計に怖くなるし、怪しんでしまう。

「彼女の意志は本物ですよ。美しい」

 沈黙が生まれかけたところで、ローラインが口を挟んだ。いつもの口調で当然のように断言されると、どう反応すべきかシンは逡巡する。これは無視してよい独り言として扱ってよいものか。

 思わずリンと目と目を見交わせれば、サツバが不機嫌に足を組む気配がした。

「そこには打算などありません」

「ローライン、なんだよそれ。根拠は?」

 うっそり瞳を細めるローラインへ、サツバの刺々しい声が刺さった。ますます室内の空気が重くなる。するとぱっと瞳を輝かせたローラインは、鷹揚と振り返った。そしてサツバの方へとずいと一歩近づき、両手を組む。

「もちろん、美しいからです」

「はぁ? お前、ふざけてるのか?」

「ふざけているなど失礼ですね。真面目に言っています。あれだけ美しい気を持っている方の心を疑う方が信じられません」

 身を乗り出したローラインを、サツバは嫌そうに横目に見る。こういう時のローラインは強い。理屈が通じない。これ以上反論しても無駄だと悟ったのか、結局はサツバも口をつぐんだ。

 もうここまで来ると最後は感情の問題なのだろう。頭で理解することと心が納得することは別問題だ。――ではどうやったら心にすとんと何かがはまるのだろうか。それは誰にもわからない。

「ちょっとローラインは言い過ぎ。まあ、違和感を持つのは自由だと思うけど。でもある程度は割り切らないとね」

 緊張感が高まったところで、苦笑交じりにリンが口を挟んだ。戸棚の扉を開けつつ言葉を選ぶよう、彼女はちらと天井を見上げる。

「私たち、これからもあんな化け物みたいなのと戦わなきゃいけないってことじゃない。自滅している場合じゃないと思うのよねー。だから心の底から信用しなさいとは言わないけど、薬くらいは飲んでもいいんじゃない? 体を張っておいて毒を盛るなんてことはしないでしょう。効果なら、滝先輩たちが実証してくれたんだし」

 軽い調子でリンは説得を始めた。こんな時でも彼女は正論を口にするようだ。

 シンはちらとサツバの横顔を盗み見た。やはり不満を押し殺しきれぬ眼差しで、じっと床を睨み付けていた。それでもすぐに異を唱えないのは、頭のどこかではそうする必要性を理解しているからだろう。

「リンは、どうやって割り切ってるんだ?」

 黙ったサツバに代わり、尋ねたのは北斗だった。その気には、本当は納得したいのだという色が滲んでいるように思えた。

 誰だって居心地の悪い空気の中で生活したくはないだろう。もしかしたら本当は、誰もが自分を納得させる理由が欲しいだけなのかもしれない。そのための情報を欲しているだけなのかもしれない。

「私は自分の精神を安定させることを優先しているだけよ。疑心暗鬼になって日々を鬱々と過ごすより、楽しくやりたいのよ。これからはもっと精神を消耗することが増えるんだろうし。どんなに理由を並べてみたところでどんな可能性だって無にはならないんだから、最後は飛び込むしかないのよ」

 戸棚からコップを取り出したリンはにこりと微笑んだ。「飛び込む」と表現するのが実に彼女らしい。

 たとえ誰かに別の目的があって利用されているのだとしても。今自分たちに許された中で最良を選び取ろうとする姿勢は、なかなか真似できないところだ。

 シンは割り切ったつもりでも、割り切れていないことも多い。最後の最後で躊躇してしまう。もっと最善の道があったのではないかと、自分が間違えたのではないかと不安がよぎるせいだ。

「それに私たち、もう無力じゃないのよ。――ミスカーテにだって、私の風が効いた」

 ふいと、リンの声音が変化した。おもむろに視線を転じれば、彼女はコップを両手で包み込みながら瞳を伏せていた。ミリカの町でミスカーテと対峙した時のことを思い出しているのだろうか。

 あの時感じたのは絶望だった。自分たちには何もできない、どうにもできないという圧倒的な差と、歯がゆさだけが残された。シリウスの助けがなければ、自分たちは死んでいた。それは紛れもない事実だ。

「だから以前とは違う。私たち一人一人が全力で戦えることが、誰かの命を救うことになるかもしれないの。だからサツバにも早く元気になって欲しいし、もちろんレーナにだって早く回復して欲しいのよ。誰かがいなくなるのは、もう嫌だから」

 しみじみとした声が、室内の空気を変えた。そう言われると誰も何も言えなくなるのは、誰しもの記憶にあの奇病の件が色濃く残っているからに違いなかった。

 たくさんの人が亡くなったあの日。奇病の少なかった地域の人間でも、知り合いや親戚を含めれば誰かを失ったと言われている。あの日、世界が一変した。

 いつかまた同じことが起こるのではないかという、漠然とした不安は誰の胸にもある。当たり前だったものがある日突然失われた恐怖から、立ち直れていない。

「……そんなことわかってる」

 だから強ばった声でサツバが答えるのも、致し方のないことだった。うまく言葉にできないシンは、そっとそんなサツバの肩を叩くしかなかった。




 白い寝台に腰掛けていたミケルダは、静かに顔を上げた。煌びやかな扉の向こうから近づいてくるこの気は、アルティードのものだ。そのことを申し訳なく思うと同時に、ほっとしていることも自覚する。

 胸に巣くったこのもやもやとした思いは、治療中のカルマラにも、検査中のラウジングにも言えない。かといってずっと抱えていられる自信もなかった。今のうちに乗り越えておかなければ後を引く。そんな予感がする。

「三人とも無事なようでよかった」

 扉が開くなり、穏やかな瑠璃色の双眸がミケルダを捉えた。流れるような銀の髪を揺らして、アルティードは近づいてくる。

 その様子を、ミケルダは座ったまま見上げた。本来なら立ち上がるべきところだが、それだけの気力が残っていなかった。許されるなら今すぐ眠ってしまいたい心境だ。体も心も重い。

「ラウジングたちはまだ検査中か?」

「はい。カルマラは治療中です」

「そうか、よかった。五腹心相手にこの程度ですんで……といったらおかしな話だが。それでも本当によかった」

 アルティードは頬を緩めた。治癒室の横にあるこの休憩所には、今のところミケルダたちしかいない。故に本音がこぼれたといったところだろうか。

 ミケルダは曖昧に頷く。誰も死ななかったことは喜ぶべきだ。しかしもう一度戦わなければならなくなった時、自分がまともに動けるかどうか自信はなかった。

「アルティード様は――」

 別の話題を探していたはずなのに、自然とそう切り出していた。はっとしたミケルダはわずかに目を逸らす。

 アルティードの気遣わしげな眼差しに見据えられると、さらにいたたまれなさが胸中に広がった。じくじくと背中を焼かれたようなこの感覚は、兄弟を亡くした時のものと似ている。

「どうかしたのか?」

 柔らかな問いかけに、ミケルダはすぐに返答できなかった。代わりとなる適当な言葉も見当たらない。吐き出したくて仕方がない薄暗い気持ちが、あらゆる考えをすぐに包み込んでしまう。観念したミケルダは、訥々と口を開いた。

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