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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

死神弥平Ⅱ-闇の告白

作者: 浅生 弘

 須藤琢己(すどうたくみ)は残り一本となったマルボロに火をつけると大きく息を吸い込んだ。アイボリー色の灰皿の上にはこの二時間で吸い殻の山が出来あがっている。琢己は既に飲み干して空になったコーヒーカップに再び口をつけようとした。正面の鏡に映るこの姿を見るのはこれでもう四度目だ。もう何も残っていない事はわかっているが全く間が持たない。目の前に座っている近藤優子(こんどうゆうこ)はこの喫茶店に入ってからずっとスマホに夢中だった。そして口を開ければ先程の人身事故の話ばかり。今日は二人でブラピの映画を見に行くはずだった。途中の駅であんな事故に出遭わなければ、今頃はポップコーンを頬張(ほおば)ってワールドなんとかという映画を満喫していたに違いない。バイトで追われる毎日のつかの間の休息日のはずだったが、とんだ一日になってしまった。琢己はため息交じりにタバコの煙を大きく吐いた。

 それに気付いた優子は顔を上げて琢己と目を合わした。お決まりの笑み浮べて、訊いてもいない言い訳をし始めた。

「ごめんね、琢ちゃん。さっきの事故の話でLINEが盛り上がっちゃって。場所は何処だとか、その瞬間を目撃したのかとかうるさいのよ。本当にこういう話が好きなのよね、みんな」

 そもそも君が事故の後に喫茶店に行こうと言い始めたんだよね、このことをみんなに伝えたくて。俺との映画を後回しにしてまでスマホでみんなと繫がっていたい。結局のところ君が一番好きなんだよ、こういう話。琢己は喉まで出かけた言葉をグッと堪えた。

「い、いいよ、別に。どうせやることないし、暇だし・・・」

自分のこういう性格が昔から大嫌いだった。自分がちょっと我慢すれば、この場は揉めることなく次回はきっと楽しい二人の時間を過ごせるはず。もしここで揉めれば彼女はどこか手の届かないところに行ってしまうかもしれない。要は自分は傷つきたくないだけの単なる臆病者なのだ。

「琢ちゃん、私ね。実はあの瞬間に目を(つぶ)っちゃったのよ。あの人が天を仰ぐように手を伸ばした瞬間は見たんだけど・・・でも前に列車に飛び込むような感じじゃなかったわ。琢ちゃんはあの瞬間見た?」

「俺は見てないよ。電車の急ブレーキの音で初めて気づいたから」

「そうなんだぁ、残念ね」

残念・・・琢己の表情に影が落ちた。何が残念なんだ?君はそんなに人が死ぬ瞬間に興味があったのかい?

居たたまれなくなった琢己はいきなり席を立ち、優子は不思議そうに琢己を見上げた。

「ごめん、さっきから頭痛がするんだ。今日はこの辺で帰るよ」

「そう・・・大丈夫?また夜にでも電話するね」

琢己は優子とは視線を合わせず口元に笑みを浮べ、テーブルの上の伝票を取ってその場を後にした。


 アパートに戻った琢己はベッドに横になり古い木目調の天井を見つめていた。あの光景が今も目に焼きついている。優子には見ていないといったが、実は目を反らすことが出来なかった。目の錯覚かもしれないが、あの男が落ちる瞬間(とき)、その背後に棒のようなものを持った老人の姿が一瞬見えた気がした。優子にそんなことを言えば、丸一日この話に付き合わされることになる。それだけは御免だ。小さい頃からお化けや幽霊といったものは苦手だった。だから、人の「死」というものについても極力関わりたくはなかった。事故の後に優子に調子を合わせてはしゃいでしまった事が悔やまれてならない。額に浮き出た汗がこめかみから首筋へと伝う。蒸し暑さの中、扇風機が首を振る一定のリズムが心地よく琢己は知らぬ間に目を閉じてそのまま眠りについた。

 辺りは闇に包まれていた。かろうじて隣に優子の横顔が薄っすらと見える。正面が急に明るくなり「World War Z」と字幕が現れた。優子と見に行くはずの映画だった。優子はポップコーンを抱えて琢己とは反対の席を向いて何かを話し始めた。内容は聞き取れない。「優子」と呼んでもこちらに振り向く素振りすらない。前に(かが)んで優子の顔を見上げた時、楽しそうな優子の横顔と隣に座る見ず知らずの男の笑い顔が見えた。その瞬間、再び闇が琢己を覆い、琢己は強烈な力で地面の下へと引きずり込まれた。必死で|もがく琢己だったが、終いには力尽き、夜の海に放たれたアンカーのようにゆっくりとそして深く沈んでいった。地面に足が着いた時、正面にはタバコをふかして退屈そうにしている自分の姿があった。手前には見覚えのある女の後姿が見えた。その手はスマホの画面を(せわ)しく叩いている。琢己は自分が今日行った喫茶店の鏡の中にいることを直感した。正面に見えるもう一人の自分がコーヒーカップを手に取りこちらを見た。目と目が合った。現実は直ぐに場都合(ばつ)が悪そうにカップを口元から離したはずだが、鏡の向こうのその目はそのままずっと鏡の中の自分を見つめたままでいる。ふと目を下に向けると優子のスマホが目に入った。その画面に記された内容がしっかりと読み取れる。優子はLINEと言っていたが、それは明らかに誰かへのメールだった。


 「さっき、駅で人身事故が起きたんだけど反対側のホームに立っていた男の人が列車に飛び込んだの。その瞬間をバッチリ見ちゃった。飛び込むときにその人、天を仰いんだけどその様子がちょっと滑稽(こっけい)だったわ。今ね、それを理由に琢ちゃんと喫茶店にいるの。こんなことが起きたら普通は映画って気分じゃないわよね?これであのブラピの映画をもう一度見なくて済みそうよ」


 琢己は信じられないといった表情を浮かべて視線を鏡の外の自分に移した。もう一人の自分はこちらを指差して腹を抱えて笑っている。そして言い放った「この臆病者が!」

その言葉と同時に琢己は飛び起きた。全身が汗でぐっしょり濡れていた。頭が朦朧(もうろう)として現実か夢かの判断ができない。視線の先にある壁時計は午後四時を差していた。ゆっくりと今日これまでの自分の一日を思い返す。そう、アパートに帰って小一時間は寝ていたのだろうか・・・。それにしてもイヤな夢だった。昼間の一件がかなり尾を引きずっているようだ。琢己はゆっくりと立ち上がり、ベタついた汗を洗い流そうと浴室に向かった。洗顔台の鏡に映る自分の顔を見たときに夢の中に出てきたもう一人の自分が言い放った言葉を思い出し、琢己は(かぶり)を振った。その時髪から何か白く小さいモノが床に落ちた。琢己は何気なくそれを摘んで顔を近づけた。良く見るとそれはポップコーンの切れ端のようだった。琢己は急に背中に冷たいものを感じ、慌ててそれを洗面台の中に()()けて水と一緒に流した。


 時計の針が八時を回った頃、琢己の携帯に着信音が流れた。お気に入りの「いきものがかり」の曲。この曲が流れるのは優子の着信だけだ。しかし、今日ばかりはどうしても取る気にはなれない。頭が痛いと言って帰ったのだから、薬で寝ていたという言い訳もできる。色々あったから明日もう一度整理して・・・と思った刹那(せつな)、あの声が頭の中で木霊し始めた。

「この臆病者が!」「この臆病者が!」「この臆病者が!」

その声は次第に大きくなり耳を(ふさ)いでも直接琢己の脳に響き渡る。琢己は頭を抑えながら、鳴り続ける携帯電話の通話ボタンを押した。

 「あっ、琢ちゃん?大丈夫?もしかして起こしちゃった?」

 「・・・・・・・・・・」

 「琢ちゃん?大丈夫?琢ちゃん?」

 「・・・・・あぁ・・・何とか・・・大丈夫」

電話口で優子の声が聞こえた瞬間に今まで鳴り響いていたあの言葉がピタリと止んだ。

 「ゴメン、ちょっと今まで寝ていたもんで・・・ボーッとしちゃって」

 「そうなの?イヤだぁ~本当に心配しちゃったよ」

優子のその言葉に琢己は我に返った。何であんな夢のことを引きずっているんだ。所詮夢は夢。優子は俺を心配して電話をかけてくれたのに、俺って男は一体何を考えているんだ。琢己が気を取り直して優子に改めて謝罪しようとした時、受話器の向こうで男の声が聞こえた。何と言ったか聞こえなかったが確かに男の声だった。

 「あれっ、優子、そばに誰かいるの?」琢己は不安そうに優子に問うた。

 「ううん、誰も。何で?」

 「いや。今そばで声が聞こえたみたいだから」琢己は男の声とは言わなかった。

 「え~っ、でも誰もいないよ。テレビだって消しているし」

琢己は全神経を優子の受話器の向こうに集中させた。

 「琢ちゃん?」

優子は不安そうに琢己の名を呼んだが、琢己は息を潜めている。

 「ここに()るよ。確かにここに()る。」

それは年老いた男のしわがれ声だった。それ程遠くはない。優子の数メートル以内から発せられたようだった。

 「優子、今の聞こえた?」

 「えっ、何? 何も・・・」

 「いや今、確かにしわがれた男の声がしたよ。ここにいるってちゃんと・・・」

 「な、何よ、何なのよ、琢ちゃん。それって何かの嫌がらせ?」

 「そんなんじゃないよ。確かに男の声で・・・」

 「酷いわ。私だって今日あんな事故を目撃して嫌な思いしてるのに」

琢己が動揺して優子にかける言葉を探そうとした時、再び男の声が電話の向こうから聞こえた。 

 「ここに()るのはこの女と関係のある男だ。ここに()るよ、間違いなく・・・」

今度の声ははっきりと聞こえた。スマホで優子が話す声と同じくらい、それは優子に代わって男が優子のスマホを使って話しているようにさえ思えた。

 「さっきから黙ってないで、何とか言ったらどうなの?」

優子にはあの声が聞こえていないのか、優子は何も語らない琢己を感情的になって責め続けた。琢己はそんな優子の言葉を受け流し、男の次の言葉を待ったが男は沈黙を守ったままだ。優子はしばらく琢己の反応を待ったが終いには呆れかえり、無言で通話を切った。電話の向こうからは通話が終了した不通音だけが虚しく繰返されている。琢己が携帯電話を耳から離そうとしたその時、再び男の声が聞こえた。

 「御主、あの女狐に騙されとるよ・・・真偽を(ただ)したくは、ここへ参られよ・・・」


 琢己はテーブルの上の財布をジーンズの後ポケットに入れると玄関を出て急いで最寄の駅へと向かった。財布の中には優子から渡されたマンションの合鍵が入っている。もし途中でタクシーを見つけることができれば飛び乗る覚悟だった。ここから優子が住むマンションまで電車で三十分、運良くタクシーを捕まえれば十分程度で着くはずだ。駅への道を走り始めて間もなく、大粒の雨が降り出した。路面はみるみるうちに水溜りができ上がり、視界も十メートル先は見えなくなっていた。ひたすら走り続けた琢己だったが途中泥濘(ぬかるみ)に足を取られ、そのまま地面に平伏(ひれふ)した。起き上がろうとしたちょうどそのときに対向車線にタクシーが見えた。琢己は立ち上がり大きく手を振って呼び留めた。タクシーは一度ハザードをつけてスローダウンしかけたが、傘も持たずTシャツもズボンも泥だらけの琢己の姿を見るなり加速してそのまま去って行った。

 琢己は息を切らせながら何とか駅に辿り着いて、ちょうどホームに入ってきた電車に飛び乗った。乗車口に寄りかかり肩で息をし続けるこの若い男に周囲の目は釘付けになっていた。頭からバケツの水を被ったように滴る雨の雫、そして泥だらけとなった衣服、乗客達は冷たい視線を浴びせながら一歩、そしてまた一歩と後ずさりを始めた。


 優子のマンションに着いた時には既に雨は止み、先程までに路面を叩きつけていた豪雨が嘘のようだった。琢己はエレベーターで八階に昇り、財布から鍵を取り出して躊躇(ためら)いもせず鍵穴に差し込んで扉を開けた。玄関の扉が開いた音に気付いた優子が居間から出てきた。そして異様な琢己の容貌を見るなり短い悲鳴を発した。

 「来るんなら連絡くらい入れて・・・・」優子が言い終わる前に琢己はずぶ濡れとなったスニーカーを脱いで玄関に上がりこんだ。

 「ちょっと待ってよ!上がっていいなんて誰が言ったの?」

琢己は優子の言葉を無視して居間へ続く扉を開けた。そして辺りをぐるりと見渡すと白いローテーブルの上にある小冊子に視線が止った。琢己はそれを手に取りパラパラとページを捲り始めた。それは今日琢己と優子が行くはずだったブラピの映画のパンフレットだった。優子の顔がみるみる青ざめていった。琢己は何も言わずパンフレットをローテーブルの上に放り投げた。その横には優子のスマホが無造作に置いてある。優子がそのパンフレットについて説明しかけたとき、琢己はスマホを手を伸ばしメールのアプリを開き始めた。

 「止めてよ!何なの一体、さっきから・・・事情も話さず勝手に人の部屋に入って物色するなんて。今すぐ鍵を置いて出て行って!」

 琢己が操作する指が止まった。メールの宛先は「進一」と書かれていた。文面は夢で見たものと全く一致している。琢己はメールを出した状態で黙ってスマホを優子に返した。その目はどこか遠くを見つめて何かを探している、目の前の優子の存在などどうでもよいかのように。その瞬間(とき)、再び玄関のドアが開いた。

 「ただいま~っ」若い男の声がした。廊下のフローリングが軋み、足音がこっちに向かってくるのがわかる。琢己はゆっくりとキッチンに向かい、包丁を手に取った。それを目にした優子が悲鳴を上げた。

 「拓ちゃん、何やってるの!違うの、誤解よ」

琢己は優子の言葉に耳をかさなかった。扉が開いた時に真偽は正される。優子の悲鳴を聞いた若い男が慌てて扉き中に入ってきた。琢己と目が合った。その手には包丁がしっかりと握り締められている。琢己は男の顔を見て確信した。あの夢で映画館で隣に座っていた男だった。男は短い悲鳴を上げて玄関に向かって逃げようと後ろを向いた。琢己もその行動を予測して勢い良く走り出し、天高く包丁を振り上げて背中に突き立てた。骨が砕かれる音が聞こえ、それと共に|血しぶきが天井まで立ち昇った。

 優子は悲鳴を上げることもできずその場に崩れ落ちた。琢己はゆっくりと振り返り優子を見た。その顔には返り血で紅く染まり、その目は怒りで満ちていた。

 「誤解よ、誤解なのよ」泣きながら優子は琢己に訴えた。

 「進ちゃんは私の・・・義弟(おとうと)よ・・・小さい頃両親が離婚して母方にできた私の弟なのよ。大学生で来年からこっちで就職が決まって、それもあってこっちに遊びに来ていたのに・・・映画だって拓ちゃんには悪いと思ったけど、進ちゃんがあの映画見たいけど一人じゃ格好悪いっていうから・・・何でこんなことになっちゃったの・・・なんで」

 「義弟おとうと・・・」琢己は呟いた。

 そばには包丁を背中に突き立てられピクリとも動かなくなった男の死体が横たわっている。琢己は呆然として今この手で(あや)めた男を見つめた。

 「俺は真偽を(ただ)そうとしただけ・・・臆病者だから・・・傷つきたくなかったから・・・」

 琢己は優子がへたり込んでいる方に向かって歩き始めた。優子は目を見開き恐怖で(おのの)いている。その場から逃げ出したくても体が金縛りにあったように震えて動かない。琢己はそんな優子を見つめながら何も言わず通り過ぎ、窓を開けてバルコニーで出た。雨上がりの生温(なまぬる)い外気が肌に(まと)わりついく。夜空は澄み渡り、いくつもの星が散りばめられて輝きを放っていた。先程の雷雨がまるで嘘のようだった。琢己は手摺(てすり)に足をかけて、再び振り返り優子を見た。その眼差(まなざ)しはいつもの琢己が優子にむけるように優しく温かかった。そしてそれは琢己が飛び降りることで永遠のものとなるはずだった。


 優子の姿はあの喫茶店にあった。その手には相変わらずスマホが握られていた。優子の正面には大きな鏡があり、さっきから優子はそれを見ては髪型を整えている。優子が今座っている席はニヶ月程前に琢己が座っていた席だった。異なるところは正面には誰もいないこと、そして吸い殻で一杯の灰皿が置いていないことだけだった。不意にスマホに着信があり音楽が流れた。ディスプレイには新しい男の名前が表示されていた。

 「もしもし?今どこ?何分待たせてるのよ?あんまりこの喫茶店好きじゃないんだけど・・・」

何の応答もなく沈黙が流れた。すると電話のむこうからシャン・・・シャン・・・と錫杖を鳴らす音が聞こえ、その音は次第に大きくなっていった。

 「御主の方が上手(うわて)だったようだ」しわがれた男の声が聞こえた。

優子はびっくりしてそのまま動くことができなくなった。

 「あの場でよく義弟(おとうと)等という言葉が出たもんだ。確かにそう言えば筋は通るしのぅ。あいつは根が優しいが故、(しま)いにはお前のその言葉を信じてしまい、真偽を(ただ)すことなく命を落としたようじゃ。さぞかし無念なことだろう」

優子は顔面蒼白となりながらもやっとのことで親指を動かして通話を切った。しかし男の声はそれでもなおスマホを通じて流れてくる。

 「ほれ、正面を見てみると良い」

優子は恐る恐る正面にある鏡に視線を移しその姿を見て目を見開いた。そこには映し出されるはずの自分の姿ではなく、血しぶきを浴びたあの時の琢己の姿が映っていた。鏡の中から黙って優子を見つめている。優子はすぐに目を反らし手に持っているスマホを鏡に向かって投げつけた。鏡は大きな音をたて中央に十字の亀裂が走った。他の客が一斉に振り返り優子を見た。優子は今目にした出来事を信じまいと(かぶり)を振って外へ飛び出した。背後から店員の怒号の声が聞こえたが、形振(なりふ)り構わず優子は走り続けた。一体何処へ向かっているのか優子自身もわからなかった。ただその場からできるだけ遠くに・・・そして一歩でも遠くに行きたかった。優子は髪を振り乱して肩で息をしながら(ようや)く足を止め、辺りを見回した。そこは見覚えがある場所だった。駅のプラットホーム、あの人身事故で男が飛び込んだ丁度その場所に立っていた。優子はそこから離れよう試みたが足がガクガクと震えて一歩も動くことができない。駅を通過する特急列車がホームに入ってくるので注意するよう駅のアナウンスが流れた。ホームに立っている客は自分一人だった。他の客は暑い日差しを避けようとホームの待合室で涼んでいる。反対側のホームにも電車が発車したばかりらしく全く人影が見当たらない。ただ一人、駅員の後姿が十数メートル先に見えた。優子は泣きながら大声でその駅員に助けを求めた。警告音を流しながら特急電車がホームに入ってくる。それと同時に駅員が振り向いて優子と目が合った。その駅員の顔を見て、優子は絶望感に打ちひしがれた。見覚えのある顔・・・さっき喫茶店の鏡に映った琢己の顔がそこにあった。

 「お客さん、忘れ物ですよ」

琢己は優子に一歩、一歩近づいてくる。手には優子が喫茶店で鏡に投げつけたスマホが握られていた。優子はそれに(あらが)おうと逆方向へ逃げようとした。ちょうどその時、背後で錫杖を鳴らす音が聞こえ、体は金縛りにあったように動かなくなった。琢己は優子の目の前に立つとスマホを優子の手に置いた。

 「とても大切なものなんだよね?」

琢己は優しく微笑み、反対の手でスマホが置かれた優子の手首を握った。スマホの上に置かれた手に力が入った。優子は泣きながら小刻みに首を横に振った。恐怖で言葉にならない。

 「さぁ、行こうか。これでもう傷つかずにすむよ」

琢己は自分の体を仰向けにしながらにホームに落ちていった。優子の手を固く握り締めて・・・。


 容赦なく強い陽射しが縦横無尽に走るアスファルトを照らし続ける。路肩の隅には無数の乾ききった小虫の死骸が転がっていた。その中に一匹だけ弱りながらも(はね)をバタつかして必死で生き延びようとしている小虫がいた。その様子をじっと見ていた男はそれを(つま)み上げ、大木の木陰へと移した。虫はじっとして動かなくなったが、(しばら)くして再び(はね)を動かしながら新たな場所を求めて動き出した。その瞬間(とき)を待っていたかのように小枝にとまっていた椋鳥(むくどり)が急降下し、くちばしでそれを摘み上げるとそのまま別の大木へと移っていった。

 その様子を見ていた男は満足げに微笑み、手に持っていた陣笠(じんがさ)を被ると木立が溢れる静かな森の中へと消えていった。







 

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