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続きそうな短編集

死者の盗掘 ~地味な薬師のゾンビパニック~

作者: 曽我部穂岐
掲載日:2026/05/25

 ハリー・サージェントは、町の景色に紛れるのがうまい男だった。


 薄い栗色の髪は癖がなく、旅埃を払えばなおさら印象が薄くなる。灰色の外套も、擦れた革靴も、肩に掛けた往診鞄も、どれも丁寧に使われているのに、人目を引くところがない。


 若いと言えば若い。疲れていると言えば疲れている。善人そうではあるが、強そうではない。一度目を離せば、そこにいたことを忘れてしまいそうな薬師だった。


 けれど、ハリー自身は知っている。


 目立たないことと、何も抱えていないことは違う。


 その夜、彼は山裾の小村で、一人の老人を看取った。


 炉の火は細く、壁には乾いた薬草が吊るされている。家族は寝台を囲み、誰も大きな声を出さなかった。死が近い部屋では、物音まで遠慮する。


 ハリーは老人の手首から指を離した。


 脈は、もうなかった。


 娘らしい中年の女が、父の名を呼んだ。孫たちは部屋の隅で膝を抱え、何が起きたのか分からない顔をしている。


 ハリーは老人の瞼を閉じ、胸元まで布を引いた。


「よく、頑張られました」


 言えることは、それだけだった。


 往診鞄には、まだ薬が残っている。熱を下げる粉、痛みを和らげる煎じ薬、眠りを深くする香草。どれも薬だった。けれど、もう飲ませる相手はいない。


 枕元に立てかけていた古い杖から、淡い青い光が滲んだ。


 ハリーにだけ、それは見えた。


 空気が薄く震え、そこに一人の女が現れる。


 長身の女だった。腰まで流れる蒼い髪は、灯もないのに水底のような光を含んでいる。長い手足には、森を歩く狩人めいた革装束がよく似合っていた。


 だが、足元の敷物は沈まない。炉の煙も彼女を避けない。そこにいるようで、世界から一枚だけ浮いている。


 高位精神体ヒルデガード。


 ハリーの杖に宿る、相棒のような存在。


 そして、ハリーがこの世でかなり上位に置いている恐怖の対象である。


「蘇生しますか」


 湯を沸かすかどうか尋ねるくらいの声だった。


 家族には聞こえていない。見えてもいない。見えているのは、ハリーだけだ。


 ハリーは短く答えた。


「しません」


「心停止から二十七秒。肉体損傷は軽微。魂の剥離も浅いです。自然魔法、マギア・ナチュラリスによる再接続は容易です」


「しません」


「なぜです」


 ハリーは老人の冷え始めた手を、布の中へそっと戻した。


「薬師だからです」


 ヒルデガードは首を傾げた。


 その仕草が、ひどく美しい。


 美しいのがまた、ハリーには困った。彼女の姿は、ヒルデガードがハリーの思考を読み取り、「最も安心と好意を引き出しやすい外観」として組み上げたものだからだ。


 要するに、ハリーの好みそのものだった。


 本人に他意は一切ない。


 だから余計にたちが悪い。


「薬師であることと、蘇生拒否の因果関係が不明です」


「説明しても、たぶん分かってもらえません」


「説明を要求します」


「今は、看取りの場です」


「理解しました。死亡尊重儀礼を優先します」


「その言い方も、人前でしないでください。見えていませんけど」


 ハリーが杖に触れると、指先がわずかに冷えた。


 その冷たさに、遺跡の底を思い出す。


 石扉が開いた瞬間、封印の光がほどけた。雇い主だった探索者たちは、剣を抜く間も、呪文を唱える間もなく消えた。叫び声すら途中で切れた。


 荷物持ち同然の駆け出し薬師だけが、壁際に立ったまま残された。


 後でヒルデガードは言った。


 あなたは警戒対象に入りませんでした。あまりに地味だったためです。


 その日から、彼女はハリーの杖に宿った。


 生き残ったのか、拾われたのか、飼われているのか。ハリーはいまだに判断できていない。


「ハリー」


「何ですか」


「あなたは現在も恐怖反応を示しています」


「分析しなくていいです」


「羞恥反応もあります」


「もっとしなくていいです」


 ハリーは家族へ向き直った。


 泣く者には、眠れる薬を。震える者には、温かい湯を。死者には、布を。


 それが薬師の仕事だった。




 翌々日、ハリーはノヴァク商会の封蝋が押された依頼書を手に、宿場町アルベへ入った。


 依頼は熱病調査。


 ここ十日ほど、高熱と意識混濁を起こす病が広がっているという。町医者ひとりでは手が足りず、薬材流通を担うノヴァク商会を通じて、外部の薬師が求められた。


 ただ、依頼書には妙な追記があった。


『熱冷まし草の不足により、代替薬材の使用あり。あわせて、死者増加に伴い、防腐香「朽ち留め香」を追加納入済み。薬材の混同に注意されたし』


 ハリーはその一文を、二度読んだ。


「嫌な組み合わせですね」


 杖の先から、ヒルデガードが顔だけを出した。


「熱を下げる薬材と、腐敗を遅らせる香ですか」


「似た匂いの成分があります。疲れていると、間違えるかもしれません」


「間違えると?」


「普通は腹を壊します」


「普通ではない場合は?」


「できれば考えたくありません」


 町門は開いていたが、人の気配は薄かった。


 窓は閉ざされ、扉には薬草の束が逆さに吊るされている。疫病除けのまじないだろう。通りに落ちた桶はそのままで、犬の鳴き声すらしない。


 道端にいた少年が、ハリーの往診鞄を見て言った。


「薬師さん?」


「はい。町医者の先生はどちらに?」


「診療所。ミーナが倒れてから、先生、ほとんど出てこない」


「ミーナ?」


「先生の娘。ずっと熱が下がらないんだ。先生、みんなの薬も作ってくれるけど、目が怖い」


 少年はそれだけ言うと、家の中へ駆け込んだ。


 ハリーは診療所へ向かった。


 中央広場を抜ける途中で、葬儀の準備をしている人々が見えた。棺が一つ。黒い布。白い煙。朽ち留め香の甘い匂いが、風に薄く混じっている。


 胸の奥に、小さなざらつきが残った。




 町医者は、診療所の奥で薬鉢を握っていた。


 痩せた中年の男だった。頬はこけ、目の下は黒い。それでも、机に並べられた記録は細かく、患者ごとの熱、脈、薬の量が整然と書かれている。乱れているのは、最後の数頁だけだった。


 無能な医者ではない。


 むしろ、限界まで正しく戦っていた者の部屋だった。


「誰だ」


「薬師です。ノヴァク商会経由の依頼で来ました」


「遅い」


「すみません」


 町医者は笑った。乾いて、割れたような笑いだった。


「いや、遅いのは私だ。もっと早く代替薬を見つけていれば、もっと早く量を絞っていれば」


 奥の寝台で、少女が咳をした。


 十二、三歳ほどの少女だった。頬は赤く、唇は乾き、呼吸は浅い。枕元には水差しと、何度も使われた布。大事にされている患者だと一目で分かった。


 ミーナだろう。


 少女は薄く目を開け、ハリーを見た。


「……薬師さん?」


「はい」


「いつから、いたの?」


「今、来ました」


「よかった。わたしだけ、見えなかったのかと思った」


「よくあります」


 ミーナは少しだけ笑おうとして、咳き込んだ。


「薬、苦いの?」


「だいたい苦いです」


「じゃあ、嫌い」


「正しい感想です」


 町医者が娘の手を握った。


「ミーナ、しゃべるな」


「お父さんこそ、寝てないでしょ」


「私はいい」


「よくないよ」


 その短いやり取りだけで、この医者が町人を診ながら、娘の枕元にも縛られていたことが分かった。


 ハリーは机上の薬瓶を見た。


 熱冷ましの薬液に、白い膜が浮いている。


 ふたを開けると、ほんのわずかに甘い匂いがした。


「この薬は?」


「熱冷ましだ」


「朽ち留め香の匂いがします」


 町医者の指が止まった。


「冷性の樹脂を、ほんの少し入れた。熱冷まし草が尽きたんだ。ノヴァク商会の荷は遅れた。死者は増えた。葬儀も追いつかない。朽ち留め香には、熱を奪う成分がある」


「最初は効いたんですね」


「効いた」


 町医者は低く言った。


「熱は下がった。苦しみも引いた。眠れた患者もいた。私は、間違っていないと思った」


 その時、広場から鐘の音が響いた。


 葬儀の鐘だった。


 ハリーは顔を上げた。


 鐘の音が、途中で乱れた。


 一度。


 二度。


 三度。


 今度は悲鳴が混じった。




 広場へ出た時、黒布の棺が内側から揺れていた。


 町人たちが後ずさる。


 棺の蓋がずれ、粉屋の老人がむくりと起き上がった。


 白く濁った目。かくりと落ちた顎。喉から漏れる、息ではない音。


 広場が絶叫に包まれた。


 ハリーは反射的に老人へ近づいた。


 老人はハリーを見なかった。


 代わりに、隣で腰を抜かしていた太った男へ手を伸ばす。


「私には反応しませんね」


「死後認識野にも残りにくいようです」


 ヒルデガードが、ハリーの隣で淡々と言った。


 彼女はハリーにしか見えない。


「少し傷つく分析です」


 老人は棺から出ようとして、棺の縁に足を引っかけた。顔面から落ちかけ、花束の中へ突っ込む。死者にあるまじき間の悪さだった。


 悲鳴の中に、わずかな困惑が混じる。


「死亡後活動体です」


「何ですか、それは」


「死体の誤作動です」


「言い方を選んでください」


 直後、広場の外で別の悲鳴が上がった。


 次は井戸端。さらに診療所の裏手。納屋。家畜小屋。葬儀のために遺体を安置していた集会所。


 死者が、次々と起き上がっていた。


 誰かが町門へ走った。だが、門番の家から出てきた死人が、門の前でふらふらと立ち塞がる。馬車が逃げようとして車輪を溝に落とし、荷台が横転した。積まれていた穀物袋が破れ、白い粉が通りに散った。


 鐘が鳴った。


 一度。


 二度。


 三度。


 葬儀の鐘ではない。


 非常の鐘だった。


 町の空気が、一気に破れた。




 死者たちは、生者の呼気と体温に反応していた。


 逃げる人間へ、ゆっくりと群がる。足は速くない。だが、痛みを感じず、疲れもせず、止まらない。噛まれた者は高熱を出し、皮膚に白い斑が浮き、短い時間で意識が濁った。


 死者は死者を増やすのではない。


 死にかけている者を、死にきれない体へ引きずり込む。


 それがハリーの見立てだった。


 しかも、日が傾き始めている。


 夕闇が降りれば、顔色も体温も見分けにくくなる。呻き声と泣き声が混ざれば、誰が生者で誰が死者かも分からなくなる。


 日没までに止めなければならない。


 ハリーは、走った。


 元パン屋の女は、生者を追いかける途中で自分の店の前に来ると、粉袋を抱えようとした。


 元門番の男は、閉じた町門の前まで来ると、襲う相手を忘れたように左右を見回した。


 元酒場の主人は、客を噛もうとするより先に、カウンターの内側へ戻ろうとして椅子に引っかかっていた。


 怖い。


 怖いのだが、どこか間抜けでもあった。


 逃げ遅れていた少年が、震える声で言った。


「おじさん、なんでそんなに冷静なの」


「仕事なので」


「なんで死んだ人に無視されてるの」


「生きている人にも、よく無視されます」


「かわいそう」


「子どもに真顔で言われると効きますね」


 ハリーは少年を倉庫へ押し込み、扉を閉めた。


 中の町人が閂を下ろそうとする。


「すみません、私もいます」


 内側から悲鳴が上がった。


「いつから!」


「最初からです」


「入っていいぞ!」


「ありがとうございます。傷つきました」


 その時、倉庫の奥から低い呻き声がした。


 ハリーが振り向くと、荷物の陰に老婆が一人立っていた。昨日死んだ針子だ、と誰かが叫ぶ。避難所に紛れ込んでいたのだ。


 町人たちが一斉に壁際へ退く。


 老婆は温かい息を探すように、首をゆっくり回す。


 ハリーには、反応しない。


「ハリー」


 ヒルデガードが、彼にだけ聞こえる声で言った。


「町全域の死亡個体を停止できます」


「しません」


「なぜです」


「それは治療ではなく処分です」


「精度は高いです」


「高すぎるんです」


 ハリーは老婆を見た。


 その奥で、噛まれた男が震えている。まだ生きている。まだ熱い。まだ、境目にいる。


「あなたが止めれば、死者だけでなく、瀕死の人までまとめて“終わり”に固定するでしょう」


「可能性があります」


「なら、しません」


「非効率です」


「人間は、効率で看取るわけじゃありません」


 ハリーは懐から匂い消しの薬包を取り出し、床へ撒いた。薄荷に似た刺激臭が広がる。老婆の顔がそちらへ向いた。


 ハリーはその隙に、老婆を倉庫の空き部屋へ誘導し、外から閂をかけた。


 町人たちは、しばらく何も言えなかった。


 やがて誰かが呟く。


「あの薬師、いたのか」


「いました」


 ハリーは鞄を抱え直した。


「ずっと」




 診療所へ戻ると、町医者はミーナの枕元にいた。


 机の上の薬瓶は倒れ、白い膜の浮いた薬液が床へこぼれている。


「朽ち留め香を混ぜましたね」


 ハリーは言った。


 町医者は、もう否定しなかった。


「熱冷まし草が尽きた。ノヴァク商会の荷は遅れた。私は、患者に何も出せなくなるのが怖かった」


「分かります」


「分かるな!」


 町医者が叫んだ。


「分かるなどと言うな。私は、看取ったはずの患者を、もう一度歩かせた。もう一度、人に恐れられるものにした。私は、私の患者を二度殺したのか」


 その言葉で、部屋が静まった。


 ハリーは、すぐには答えられなかった。


 ヒルデガードが、ハリーにだけ聞こえる声で言った。


「古代種族も、似た技術を使っていました」


「今、その話ですか」


「関連性が高いです。死後の肉体に残る反射、習慣、記憶の残滓を保存し、外部刺激で動かす技術です」


 ハリーは、広場で粉袋を抱えようとしていたパン屋の女を思い出した。


 門の前で立ち尽くしていた門番を。


 カウンターへ戻ろうとしていた酒場の主人を。


「蘇生ではなく?」


「はい。魂を戻すのではありません。死体に残ったものを掘り返して使う技術です。古代種族はそれを、死者の盗掘、リザレクションと呼びました」


「リザレクションなのに、蘇生ではないんですか」


「名は似ていますが、実態は逆です」


 ハリーは眉をひそめた。


「あれは、生き返ったんじゃない」


「はい」


「生活の残り香を、死体に無理やり歩かせているだけだ」


「表現は詩的ですが、概ね正確です」


「悪趣味ですね」


「古代種族の分類では、実用技術です」


「悪趣味です」


「訂正。あなたの倫理体系では、悪趣味です」


 町医者が、ハリーを睨んだ。


「何をぶつぶつ言っている」


「昔の話を思い出しました」


「今、昔話をしている場合か!」


「今だからです」


 ハリーは町医者を見た。


「先生。これは蘇生ではありません」


 町医者の顔が、ゆっくりと歪んだ。


「では私は……死んだ患者たちを、眠らせてやることもできず、掘り返したのか」


 その問いに、ハリーは答えなかった。


 答えられなかった。


 町医者は薬瓶を握りしめる。


「それでも、ミーナはまだ生きている。なら救え。薬師なら救え。死んだ者に効く薬がないなら、作れ。お前の杖は何なんだ。さっき、水が澄んだ。お前は何かを隠している」


 ハリーは杖を握った。


 ヒルデガードの姿は、町医者には見えない。


 町医者から見れば、ハリーは虚空を見ているだけだろう。


「死んだ人に飲ませる薬は、ありません」


 町医者の目が見開かれる。


 ハリーは続けた。


「死者を動かす方法なら、あるのかもしれません。戻したように見せる方法も、あるのかもしれません。でも、それを私は薬とは呼びません」


「ならば薬師など、何のためにいる!」


 町医者の声が、診療所の壁にぶつかって落ちた。


 ハリーは震える息を吸った。


「生きている人を、死なせないためです」


 その時、ミーナの呼吸が止まった。




 町医者が凍りついた。


 ハリーは寝台に駆け寄った。脈が触れない。唇の色が変わる。胸の上下が止まっている。


 ヒルデガードが、ハリーの隣に立った。


「死亡判定」


「まだです」


「法則上、生命活動は停止しました」


「まだです」


「蘇生可能です」


 町医者が床に膝をついた。


「頼む」


 先ほどまでの怒鳴り声ではなかった。


 ただの父親の声だった。


「頼む、戻してくれ。私が間違っていたなら認める。薬でなかったなら、それでもいい。だから、娘を戻してくれ」


 ハリーの手が止まった。


 ヒルデガードならできる。


 簡単に。


 世界法則を使役する創造主の法。自然魔法、マギア・ナチュラリス。人間が一生かけて祈る奇跡を、彼女は処理として行える。


 ここで命じれば、ミーナは息を吹き返すのだろう。


 町医者には、ヒルデガードの姿は見えない。


 ただ、ハリーが何もない場所を見て、杖を握っているようにしか見えないはずだった。


「何をしている」


 町医者が叫ぶ。


「誰と話している!」


「杖です」


「杖と話す薬師を信用しろと!」


「私も時々そう思います」


 ハリーは往診鞄を開いた。


 熱を下げる薬では足りない。


 朽ち留め香をほどくには白灰がいる。


 だが、白灰だけでは血が冷える。


 血を巡らせるには赤葉の滴。


 赤葉は心臓に強すぎる。先に呼吸を呼び戻さなければならない。


 針葉樹の樹液。


 苦い根の粉。


 消毒液。


 そして、清めた水。


 奇跡と呼ぶには、あまりにも地味なものばかりだった。


「ハリー」


 ヒルデガードが言った。


「これは蘇生領域です」


「違います」


「差異は?」


「薬師の前では、まだ患者です」


 ハリーはミーナの顎を上げ、気道を開いた。針葉樹の樹液を舌下へ落とし、赤葉の滴を歯茎に塗る。胸に手を当て、心臓の位置を探り、何度も押した。


 町医者が呆然と見る。


「そんなことで」


「手伝ってください」


「何を」


「あなたも薬師でしょう」


 町医者の顔が歪んだ。


 それでも、彼は動いた。布を取る。水を持つ。薬草を砕く。震える手で、白灰を量る。


 ハリーは杖を見た。


「水を清めてください」


「蘇生ではなく?」


「はい」


「私の法を、その程度に使うのですか」


「その程度が必要です」


「非効率です」


「お願いします」


 ヒルデガードは黙った。


 そして杖の先から、淡い青い雫を落とした。


 町医者には、おそらく水が急に澄んだように見えただけだろう。彼は目を見開いたが、何も言わなかった。


 薬液に混ざっていた濁りが消え、白灰が朽ち留め香の白い膜を吸った。ハリーはそれをミーナの口へ少しずつ流し込み、胸を押し続けた。


 一度。


 二度。


 三度。


 ミーナの喉が、ひゅ、と鳴った。


 次に、咳。


 細い呼吸。


 町医者が息を呑んだ。


「ミーナ」


 少女の胸が、かすかに上下した。


 ハリーはその場に座り込みそうになりながら、なお手を止めなかった。脈が戻る。弱い。だが、ある。


「生きています」


 町医者は顔を覆った。


 泣き声は出なかった。ただ肩だけが震えていた。


 ヒルデガードはミーナを見下ろし、次にハリーを見た。


「結果は蘇生と極めて近似しています」


「違います」


「差異は?」


 ハリーは、震える手で往診鞄を閉じた。


「死者を戻したんじゃありません。死なせなかったんです」


 ヒルデガードは長く黙った。


「境界の主張ですね」


「はい」


「人間的です」


「たぶん、そうです」


「理解は未完了です」


「それでいいです」


「ですが、あなたがその境界を必要としていることは記録しました」


「記録だけでお願いします」


「観察も継続します」


「そこはやめてください」




 日没が近かった。


 解毒薬は、まだ足りない。


 目的は、死者を戻すことではない。


 朽ち留め香の暴走をほどき、生きている者の熱と血の巡りを正常に戻すこと。死にかけた体を、死にきれない方ではなく、生きている方へ押し戻すこと。


 町医者は薬鉢を握り、低く言った。


「何をすればいい」


「先生の町でしょう」


 町医者は、しばらく黙った。


 それから頷いた。


「ああ。私の患者たちだ」


 二人は診療所の裏手にある薬材庫へ向かった。


 そこには朽ち留め香の木箱と、遅れて届いた熱冷まし草の束があった。だが、薬材庫の前には死者が群がっている。生者が近づけば襲われる。町医者では無理だった。


 ハリーだけが、通れる。


「本当に行くのか」


「地味なので」


「理由になっているのか」


「今日は、なっています」


 ハリーは死者の間へ入った。


 白い斑の浮いた手が、彼の肩の横を通り過ぎる。濁った目が、彼の顔を探し損ねる。呻き声が耳のすぐそばを掠める。


 怖くないわけではない。


 だが、誰にも気づかれない人生が、初めて町を救う道になっていた。


 ハリーは薬材庫から熱冷まし草を抱え、戻った。


 それから井戸へ向かった。


 薬を薄め、町中へ配るには水がいる。井戸の周りにも死者がいた。ハリーは桶を下ろし、水を汲み上げた。


「清めてください」


「今度は大量です」


「できますか」


「可能です」


「お願いします」


「観察対象の依頼を受諾します」


「その言い方はやめてください」


 井戸水が、淡く澄んだ。


 ハリーと町医者は、薬を作った。熱冷まし草を煎じ、苦い根を砕き、白灰を加え、赤葉の滴で巡りを戻す。町医者の手つきは震えていたが、薬師の手だった。


 避難所を回る。


 ハリーは死者に気づかれにくく、薬を持って群れの間を抜けられた。町医者は避難所の中で患者を診た。誰がまだ間に合うか。誰に薬を飲ませるべきか。誰を眠らせてやるべきか。


 その判断は、残酷だった。


 だが、薬師の仕事だった。


 太陽が屋根の端にかかるころ、生きている者たちの熱は下がり始めた。


 歩いていた死者たちは、ひとり、またひとりと動きを止めた。




 元パン屋の女は、粉袋を抱えたまま倒れていた。


 その粉で、今朝も誰かの朝食が焼かれるはずだった。


 元門番の男は、町門の前で膝をついていた。


 最後まで、門を守る姿勢のままだった。


 元酒場の主人は、カウンターに片手を置いて眠っていた。


 そこは、彼が何十年も立っていた場所だった。


 最初は間抜けに見えた仕草が、終わりには生活の跡に見えた。


 死んでもなお残っていた、その人らしさの欠片。


 ハリーはそれを笑えなかった。




 翌朝、町長は広場でハリーに礼を述べようとした。


「我らの町を救った薬師殿に、心より感謝を」


 そこで町長は言葉を止め、壇上を見回した。


「薬師殿は?」


「ここです」


 ハリーは、町長のすぐ隣に立っていた。最初から。


「あ、ああ。失礼した」


 町の何人かが、小さく笑った。


 その笑いは、昨日までの悲鳴とは違っていた。


 寝台から起き上がれるようになったミーナが、町医者に支えられて広場の端にいた。


 彼女は細い手を上げる。


「薬師さん、そこにいるよ」


 ハリーは少し驚いた。


「見えますか」


「見えるよ。地味だけど」


「後半がなければ、とても嬉しかったです」


 町医者は、疲れ切った顔で笑った。


 それから、深く頭を下げた。


「私は、死者に薬を飲ませようとした」


 ハリーは何も言わなかった。


「君は、生きている者に薬を飲ませた」


「それしかできません」


「それが、薬師だったんだな」


 ハリーは、返事に迷った。


 代わりに、小さく頭を下げた。


 杖からヒルデガードが現れる。


 もちろん、彼女はハリーにしか見えない。


「ハリー」


「何ですか」


「今後も死者蘇生を拒否しますか」


 ハリーはすぐには答えなかった。


 広場の隅では、死者を葬るための布が運ばれている。泣いている者がいる。助かった者がいる。どちらにも、薬師の手が必要だった。


「分かりません」


 ハリーは正直に言った。


「でも、簡単にはしません」


「簡単に可能でも?」


「はい」


「なぜです」


「死が軽くなると、生きていることまで軽くなる気がするからです」


 ヒルデガードは首を傾げた。


 その姿が、やはり困るほど美しかった。


「理解は未完了です」


「それでいいです」


「では、観察を続行します」


「できれば距離を取ってください」


「この外観が不都合ですか。あなたの精神深層における好みを反映した」


「やめてください」


 町医者が横からこちらを見た。


「また杖か」


「はい」


「疲れているんだな」


「否定しにくいです」


 ヒルデガードは真顔で言った。


「羞恥反応を確認」


「今は見逃してください」


 ヒルデガードは、ほんの少しだけ黙った。


「保留します」


「ありがとうございます。保留でお願いします」


 町長が感謝状を差し出した。


 ハリーはそれを受け取り、往診鞄を肩にかけ直す。


 死者に効くものは、あるのかもしれない。


 けれど、それを薬とは呼びたくない。


 薬師の鞄に入っているのは、地味で、苦くて、匂いも悪く、奇跡ほど美しくはないものばかりだ。


 それでも、生きている者に差し出せる薬なら、まだ作れる。


 ハリー・サージェントは、今日もそれを鞄に詰めて歩いていく。


 死者には気づかれず、生者にもたまに忘れられながら。




お読みいただきありがとうございました。

創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いします。


今回は「ゾンビパニック」に初挑戦したくて、地味な薬師ハリーに走ってもらいました。


死者を戻せる力がそばにあるのに、それでも薬師として何をするのか。派手な奇跡ではなく、苦くて地味な薬で生きている人を引き戻す話です。


ゾンビパニックなのに、主人公が死者にすら気づかれにくいという不憫さも含めて楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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