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飯島の飯三昧日より。

掲載日:2026/04/13

 朝五時三十分。

 目覚まし時計よりも先に、男は目を覚ます。

 飯島という。

 年齢は四十六。独身。

「会社員」としか言いようがないが、彼の人生の本質はそこにはない。

 彼の本質――それは、

 食に対する異常なまでの執着と誇りであった。

「……今日は、最高の目玉焼きが焼ける気がする」

 誰に言うでもなく呟き、飯島は静かに台所へ立つ。

 

 コンロの前に前に立つと、空気が変わる。

 戦場だ。

 フライパンを取り出す手つきに無駄はない。

 油は使わない。使うのは、ほんの一欠けのバター。

「油ではダメだ。香りが足りない」

 ジュウ、と小さく音が鳴る。

 バターが溶ける、その瞬間を見逃さない。

 そして卵。

 冷蔵庫から取り出してすぐではない。

 常温に戻したものを使う――これが飯島流。

 殻を破る。

 パキン、と乾いた音。

 黄身は崩れない。白身も暴れない。

「いい卵だ」

 満足げに頷く。


 ここからが勝負だ。

 火加減は「弱中火」。

 決して強くしない。焦げは敗北を意味する。

 白身の端がゆっくり固まり、中心はまだ透明を保っている。

 その絶妙なタイミングで、飯島は水を数滴落とす。

 ジュッ、と蒸気。

 すかさず蓋。

「蒸らし三十秒……いや、今日は二十五秒だな」

 長年の勘が告げる。


 蓋を開ける。

 そこには――

 白は艶やかに固まり、

 黄身は黄金色にふるえ、

 完璧な半熟のドームが完成していた。

「……極上だ」

 飯島は小さく息を吐く。


 皿に移す。

 味付けはシンプルに、塩のみ。

 胡椒は使わない。

「卵の甘みを殺す」

 それが彼の信念だ。


 一口。

 箸で黄身を割ると、とろりと流れ出す黄金。

 白身と絡み合い、口の中で完成する。

「……勝ったな」

 誰に対してかは分からない。

 だが確かに、彼は何かに勝利していた。


 テレビもつけない。

 音楽も流さない。

 ただ、静かに食べる。

 それが飯島の流儀だ。


 食後、コーヒーを淹れる。

 インスタントではない。

 豆から挽く。

「料理は一皿で終わらない。余韻までが料理だ」

 そう言って、ゆっくりとカップを傾ける。


 会社では、彼は目立たない。

 同僚は彼を「無口なおじさん」としか認識していない。

 昼食も一人で済ませることが多い。

 だが、誰も知らない。

 彼が毎朝、

 人生を賭けた一皿を作っていることを。


 ――夜。

 帰宅後、彼は再び台所に立つ。

「さて……今日は何で勝負するか」

 冷蔵庫を開ける。

 そこにあるのは、ありふれた食材たち。

 だが、飯島にとっては――

 それは無限の可能性だった。


 孤高の料理おっさん、飯島。

 彼の戦いは、誰にも知られず。

 今日も静かに続いていく。

 次なる一皿のために。

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