飯島の飯三昧日より。
朝五時三十分。
目覚まし時計よりも先に、男は目を覚ます。
飯島という。
年齢は四十六。独身。
「会社員」としか言いようがないが、彼の人生の本質はそこにはない。
彼の本質――それは、
食に対する異常なまでの執着と誇りであった。
「……今日は、最高の目玉焼きが焼ける気がする」
誰に言うでもなく呟き、飯島は静かに台所へ立つ。
コンロの前に前に立つと、空気が変わる。
戦場だ。
フライパンを取り出す手つきに無駄はない。
油は使わない。使うのは、ほんの一欠けのバター。
「油ではダメだ。香りが足りない」
ジュウ、と小さく音が鳴る。
バターが溶ける、その瞬間を見逃さない。
そして卵。
冷蔵庫から取り出してすぐではない。
常温に戻したものを使う――これが飯島流。
殻を破る。
パキン、と乾いた音。
黄身は崩れない。白身も暴れない。
「いい卵だ」
満足げに頷く。
ここからが勝負だ。
火加減は「弱中火」。
決して強くしない。焦げは敗北を意味する。
白身の端がゆっくり固まり、中心はまだ透明を保っている。
その絶妙なタイミングで、飯島は水を数滴落とす。
ジュッ、と蒸気。
すかさず蓋。
「蒸らし三十秒……いや、今日は二十五秒だな」
長年の勘が告げる。
蓋を開ける。
そこには――
白は艶やかに固まり、
黄身は黄金色にふるえ、
完璧な半熟のドームが完成していた。
「……極上だ」
飯島は小さく息を吐く。
皿に移す。
味付けはシンプルに、塩のみ。
胡椒は使わない。
「卵の甘みを殺す」
それが彼の信念だ。
一口。
箸で黄身を割ると、とろりと流れ出す黄金。
白身と絡み合い、口の中で完成する。
「……勝ったな」
誰に対してかは分からない。
だが確かに、彼は何かに勝利していた。
テレビもつけない。
音楽も流さない。
ただ、静かに食べる。
それが飯島の流儀だ。
食後、コーヒーを淹れる。
インスタントではない。
豆から挽く。
「料理は一皿で終わらない。余韻までが料理だ」
そう言って、ゆっくりとカップを傾ける。
会社では、彼は目立たない。
同僚は彼を「無口なおじさん」としか認識していない。
昼食も一人で済ませることが多い。
だが、誰も知らない。
彼が毎朝、
人生を賭けた一皿を作っていることを。
――夜。
帰宅後、彼は再び台所に立つ。
「さて……今日は何で勝負するか」
冷蔵庫を開ける。
そこにあるのは、ありふれた食材たち。
だが、飯島にとっては――
それは無限の可能性だった。
孤高の料理おっさん、飯島。
彼の戦いは、誰にも知られず。
今日も静かに続いていく。
次なる一皿のために。




