第9話 浪速の鉄仮面 藤井 栄治(1940-)
藤井は新人時代から八年間クリーンナップを打ちレギュラー外野手として活躍した。主力選手として二度のリーグ優勝を経験し、二年目からは三年連続オールスターに出場しているわりには影が薄いのは、必要以上のパフォーマンスを抑え、自分を見失わないようにマイペースで選手生活を送ったからだろう。タイガースでの輝きは長くはなかったが、大卒で十七年もの選手生活を送り、引退後もコーチとして球界に残れたことを考えれば、”勝ち組”野球人生だったといえよう。
とにかく無表情で喜怒哀楽をほとんど見せないことから「鉄仮面」のニックネームで呼ばれていた。関大では四番を打ち36年春のリーグ戦では首位打者(3割8分2厘)に輝いたほどの強打者であったにもかかわらず、地味で口数が少なかったせいか、いつの間にか後輩たちからそう呼ばれるようになり、プロ入り後もこの何ともぶっそうなニックネームが定着してしまったのだ。
「鉄仮面」というと冷徹で近づきがたいイメージが浮かぶが、実際の藤井は飾りっ気のないナイスガイである。一日11時間睡眠を取っているにもかかわらず、まだ寝足りず、いつも眠そうにしているため、一見不機嫌そうに見えることも事実だが、試合でのここ一番という時の集中力と勝負強さは素晴らしく、このニックネームは緊張する場面にも動じない強心臓ぶりに対する尊称と言った方がぴったりくるかもしれない。
バッティングは同じ左打者の田宮謙次郎を手本にしているというだけあってレベルスイングが中心で、中でも三塁線への流し打ちは芸術品とさえ言われた。これは寝屋川高校時代、グラウンドがライトフェンスまで近くセカンドのすぐ後ろが民家の屋根という変形だったため、意識的に左方向狙いのバッティングを心掛けてことによるものだ。そのせいか大学時代の本塁打がゼロという数字が示すとおり一発が期待できるタイプではない。それにもかかわらずスタメンで五番に抜擢されたのはその勝負強さに他ならない。
一方、外野守備の方は堅実にして強肩。外野フライを片手で無造作に捕球することから、危なっかしいと非難を浴びたこともあるが、これが藤井流。寡黙な彼が「走者が出たら僕のところへ打たせてくださいよ」と投手に声をかけていたほどだから、余程自信があったのだろう。タイガース在籍12年のうち後半の6年間はノーエラーで通している。
藤井の活躍した昭和30年代後半から40年代のタイガースといえば、毎年のように巨人と優勝争いを繰り広げているAクラスの常連であり、個性的な人気選手がズラリと揃っていた。そんな中でどちらかといえば目立たないタイプの藤井が実働17年もの長きにわたって選手生活を送ることが出来たのは、関大の先輩であるエースの村山や櫟コーチをはじめとする首脳陣から質実剛健な選手として絶大な信頼を寄せられていたこともさることながら、勝負の世界に必要なツキに恵まれていたおかげである。
藤井の選手生活は最初からツイていた。同期である東京六大学のスター安藤統夫が球界一を誇る阪神内野陣に割り込むことが出来ず、長らく不遇をかこったのに対し、知名度で遥かに劣る藤井の方はいきなりレギュラーである。それも主砲藤本に続く五番が指定席とくれば、さぞかし凄い新人だったのかと思いきや、初年度の成績は2割4分0厘(打撃23位)、2本塁打、38打点という平凡なもの。さほど目立った活躍もしていないのにレギュラーとして起用され続けたのは、年度のチーム打率が2リーグ分裂後の優勝チームのワースト記録である2割2分3厘という超貧打線のおかげである。
レギュラーで2割5分を超えたのは吉田、藤本、並木の3名しかおらず、藤井はそれに次ぐ成績で守備も安定しているとくればおのずと出番も増えてこようというもの。そういう意味では外野手が人材不足の阪神に入団したことは藤井にとってラッキーだったと言えよう。
そればかりか、熾烈な優勝争いの中で極度に緊張する場面での場数を多く踏むことができたことも、藤井の勝負強さを養ったという点において非常に有意義であった。日本シリーズでも5番に抜擢された藤井は、この大舞台で3割2分4厘(11安打)5打点という新人らしからぬ活躍ぶりで、首脳陣の期待に応えたのである。
初年度の経験が糧となったか、五番の座がすっかり板に付いてきた2年目の藤井は、初出場のオールスターでも本塁打を放つなどチームの主軸打者として著しい成長を遂げた。生涯唯一の3割は公式戦最終打席でレフト線ぎりぎり落とす得意の流し打ちで決めたものだ(3割0分0厘・第7位)。また外野手としてリーグトップの13捕殺を記録するなど攻守にわたる活躍が評価され、ベストナインにも選出されている。
打者としての藤井のピークは昭和44年頃までであった。その間、V奪回を果たした39年にはリーグ最多二塁打(30本)をマークする一方、日本シリーズで2本塁打を放つなど長打力にも磨きがかかってきたが、43年に23試合連続ヒットを記録して以降は、「打の藤井」としては次第に下降線を辿っていった。
反面、元々定評のあった守備の方はその頃からさらに安定度が増し、43年から48年にかけて八一七守備機会無失策というプロ野球記録まで樹立しているのには驚かされる(今日ではセ・リーグ記録)。上手いことは上手いがOBである山口や呉のような職人という域にまで達しているとは言えない藤井がこれだけの記録を残せたのは、いかに雑なプレーをせずに試合に集中していたかの表れといえよう。
昭和49年、太平洋クラブライオンズにトレードされた藤井は、勝負強さを買われてここでもクリーンナップを任されるが、年齢的な衰えは隠せず、3年目からは控えに回されてしまう。51年のシーズン終了後は37歳になる藤井だけに引退も秒読みかと思われたが、何と年度の日本一に輝いた阪急上田監督からオファーが舞い込んできた。その理由は、藤井が阪急キラーとして鳴らした日本ハムの高橋直樹を良く打っていたからである。かくして上田監督の思惑はズバリ的中し、藤井は代打中心ながら3割2分1厘と復活を遂げ、阪急のV2に貢献することが出来た。ちなみに代打成績に限れば36打数10安打7打点2四球で、代打打率はリーグトップであった。
全盛期にあった阪急に入団したことで、藤井はさらに2度の日本シリーズに出場できたばかりか、阪神時代には届かなかった日本一まで経験したのだから、やはりツキがあったというべきであろう。52、53年の日本シリーズはいずれも代打として計4度打席に立ち、1安打3四球と全て出塁。最後の最後まで勝負強い男であった。
生涯成績 '260 75本塁打 545打点 1344安打
藤井がタイガースに入団した当初は大学の先輩村山実がエースとして君臨しており、万事が派手な村山と地味な藤井は対照的な関大OBコンビだった。そこに中井悦雄が加わった38年度は関大トリオと謳われ、活躍を期待された。中井は登板数こそ少なかったものの、先発として四勝一敗、防御率一・二二、しかも完投した三試合はオール完封勝ちという輝きを見せたが、この一年で燃え尽きた。逆に藤井は選手としては地味でも無失策の日本記録を作ったり、メジャーでは当たり前だった外野手のワンハンドキャッチを日本に浸透させたりとマニアックな虎ファンには忘れられない存在となった。




