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儚虎伝(もうこでん) ー阪神タイガース選手伝ー  作者: 滝 城太郎


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第8話 不器用な酔虎  遠井 吾郎(1939-2005)

遠井吾郎は彼の引退時には球団最長記録となる20年もの在籍年数を誇る一方で、規定打席に到達したのは4年間に過ぎない。選手生活の前半は控え、晩年はずっと代打だったが、打つ方は代打の切り札的存在であったことから、セ・リーグにDH制があればもう少し華々しい活躍ができたと思われる。

 グラウンドの外では「飲む・打つ・買う」の三拍子揃っていながら、肝心の野球の方は「打つ」だけであった。それでいて現役選手としてタイガース一筋20年(球団記録)をまっとう出来たのは、お家騒動がお約束のチーム内でも野心や闘争心を表に出さない温厚で朴訥な人柄がチームメイトや監督に好かれたからであろう。人はそんな彼のことを「ホトケのゴロー」と呼んだ。


 昭和33年春の選抜で山口県代表柳井高校は準々決勝で王貞治擁する早実に敗れて涙を飲んだが、柳井の一塁手遠井のパワフルなバッティングは阪神の河西スカウトの目に焼きついた。「プロの選手として成功するためには、何でも平均点ではダメなんだよ。投手でも野手でも何かアクセントのある者が成功する。遠井も守備はまずかったし、足も遅かったけど、バッティングの巧さがあった」河西の後日談である。

 四人兄弟の末っ子で育った遠井は、野球好きでノンプロの大昭和製紙に入った兄の影響もあって子供の頃から野球に親しんでいたが、高校に入ってからはあまり野球が好きでなくなり、一度は退部届けまで出している。甲子園を目指すほどの強豪校であれば、夜遅くまでの練習や先輩からの暴力を伴ったしごきなど当たり前の時代、遠井にはそれが耐えがたかったのだ。

 彼の野球の原点は「楽しい野球」であって、栄光や賞賛と引き換えに苦しみを甘受することが理解できなかった。だからこそ彼はプロになってもチームメイトを罵倒したり非難したりすることは一切なく、ともにほどほどに野球を楽しもうというスタンスを取り続けた。動作が鈍いうえ、もともと凡庸な顔つきをしているせいか、遠井は真剣にプレーしていないと野次られることもあったが、無理をしないことも彼独自の美学であり、結果として20年の長きにわたって大きな怪我もせずに野球人生をまっとう出来たことを誇りにしていた。

 入団時の契約金300万円は、同期の大卒スーパールーキー長嶋が1800万円ということを考えればまずまずの金額である。大阪市内の一等地に家が一軒建つ契約金とサラリーマンの3倍以上の給料は、遠井にとって野球をやるうえでの新たなモチベーションになった。

 遠井自身、「楽しくはないが、打てば酒が飲めるから野球にも張り合いがあった」と語っているように、プロ入り後に覚えた酒と遊びは彼の活力源となり、その元手を稼ぐために野球に精進したのだ。

 かつての同僚田淵が最も凄いと思ったバッターとして遠井の名を挙げているが、その理由が「あれだけ毎晩飲んで、あれだけ打てたのが凄い」というのだから半端な飲みっぷりではない。最高で一晩にビール24本、ウィスキー、ブランデー、ワインを各一本ずつ空けたことがあるというから、まるで力士並みである。これほど飲んでも正体を無くすほど泥酔することはなく、朝帰りしても練習だけはサボらなかった。


 1年目のプロ入り初打席は魔球王杉下の前に三球三振。フォークの落差に唖然としたという。守れない走れないではレギュラーの座は遠く、もっぱら代打が中心だったが、遠井が入団した頃は藤村が引退し、打のチームから守のチームへと移り変わる過渡期で藤本以外は大砲がいなかったため、180cm80kg野手随一の巨漢である遠井のパンチ力は重宝がられた。

 豪快なアッパースイングと肥満体に似合わぬ腰の鋭い回転から放つ打球の飛距離は、本塁打王を獲得した藤本に匹敵するほど。球団記録の代打本塁打10本はその証である。

 代打と藤本の控え一塁手に甘んじていた遠井にとって、昭和36年途中から指揮官となった藤本定義の放任主義はその遊びぶりに拍車をかけると同時に打撃人としての成長をも促した。「選手は結果さえ出せばいい」という藤本は、麻雀などの賭け事にはうるさかったが、酒には寛容でむしろ「男が酒ぐらい飲めんでどうする」というタイプだった。おまけに朝帰りまで見て見ぬふりをしてくれるとあって、遠井は藤本の教えを忠実に?守り、毎月の給料が酒と女に消えるほど遊んだ。

 「飲んで、次の日は汗を流すために練習する。すると、身体の調子はいいし、その晩の酒が旨い」という遠井式の調整法は次第に効果を表し、リーグ優勝を果たした昭和39年には踵の怪我から出場機会の減った藤本に代わって一塁のレギュラーの座に就いた。

 守れない、走れない遠井がすんなりレギュラーになれたのは、阪神に一塁手の座を競うような強力なライバルがいなかったこともさることながら、一塁以外の野手が一流揃いだったことも大きいと思われる。 

 というのも、遠井は一塁ベース上での補球だけに専念出来るよう当時12球団随一の二塁手だった鎌田に頼んでセカンド寄りの打球をカバーしてもらっていたため、エラーが極めて少なかったからである。そのおかげで自他共に認める鈍重な一塁手でありながら、39年度の一塁守備率は名手と呼ばれる王を凌ぐリーグトップであった。

 まさに守備範囲の広い鎌田さまさまだが、それ以前に監督が藤本でなければ、彼のような大酒飲みで門限破りの常習をレギュラーで起用することはなかっただろう。

 藤本の期待に応えた遠井は41年には長嶋と首位打者を争う一方、初出場を果たしたオールスターでも本塁打を放つなど華々しい活躍を見せチーム最強の打者に成長した。首位打者を意識するあまり、身体を軽くしようとダイエットを試みたもののこれは失敗し、打撃成績は2位(3割2分6厘)で終わったが、左打者だけにもう少し内野安打が稼げればタイトルに手が届いたかもしれない。

 その後も、42年には打撃成績5位(3割9厘)、45年には打撃成績3位(2割8分4厘)と健棒ぶりを示したが、セ・リーグには王という怪物がいたため、ベストナインには縁がなかった。

 しかしこの鈍足の大男は派手な舞台には滅法強く、3度出場したオールスターでは12打数4安打7打点2本塁打と同時期のタイガースの選手の中ではナンバーワンの活躍を見せている。中でも印象深いのは昭和45年の第三戦に記録したオールスター史上2度目のランニング本塁打であろう。よりによって鈍足の遠井が過去に3人しか達成者がいない珍記録に名を留めているとは何とも痛快である。もちろん第三戦のMVPは遠井であった。

 昭和53年に引退すると、翌年は後藤監督に招かれ打撃コーチに就任したが、人を指導したり叱咤したりするのが苦手な遠井には不向きだった。球団史上最低勝率で初の最下位の屈辱を味わった遠井はこれを機にユニフォームを脱ぎ、大阪北新地にスナック「ゴロー」を開店する傍ら、地元の草野球チームに所属し、大好きな草野球を心ゆくまで楽しんだ。

 「本当に面白いのは金を離れた野球だよ。満員の甲子園でタイガースのユニフォームを着て野球するよりそういう野球の方が面白い。草野球が一番面白いですよ」

 遠井にはアマチュア野球の方が似合っていたのかもしれない。

 生涯成績 ’272 137本塁打 688打点 1436安打

私は代打時代の遠井しか記憶がなく、その頃はでっぷり太っていていかにも鈍重そうに見えたが、入団から間もない頃はもっとすらりとしていて、黒縁眼鏡姿も知的な雰囲気があった。守備はともかく打撃のセンスは正一塁手の藤本以上だったので、不摂生をせずにストイックな生活を送っていれば、遠井と田淵のTT砲でもっと巨人を脅かすことができたかもしれない。しかし、遠井と田淵は女性にモテ過ぎた。あれだけモテて自制心を無くさないでいられるとすれば、巨人のONくらいしかいなかっただろう。

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