第7話 キーストーンの曲芸師 鎌田 実(1934-2019)
アクロバティックな守備でファンの度肝を抜いたタイガース史上最高の二塁手である。
兵庫県洲本高校時代から超高校級遊撃手の誉れも高かった鎌田は、シーズン後半に肩を痛めた吉田の代役を無難にこなし、早くも“吉田2世”の声が聞かれるほどその守備センスは高い評価を得た。
鎌田自身も吉田や広岡に負けないだけの自負があったため、吉田の復帰後も遊撃手を続けたいのはやまやまだったが、攻・走・守の三拍子が揃った日本一の名手が相手ではさすがに分が悪く、本人曰く「アピール度に欠ける物足りないポジション」である二塁手が定位置となった。
鎌田のグラブさばきは広岡より吉田に近い。通常、野手は捕球と同時に一旦グラブを閉じてボールの回転を抑えてから送球動作に移るが、吉田と鎌田は捕球と同時に右手でグラブに蓋をするようにボールをつかんでいるため、捕球から送球までの動作に無駄がない。しかもゴロを待って捕るのではなく、常に身体の正面で捕るために自分から打球に向かってゆくのだ。そうすることで待って捕るより0コンマ何秒か分早く、なおかつその後の送球動作もスムーズに行えるため、並の野手なら内野安打というような当りでもアウトにしてしまう。
動作の流れ自体は広岡も似たようなものだが、鉄砲肩の広岡は捕球したグラブの真上から右手で蓋をするのに対し、肩の強さで劣る吉田と鎌田は捕球したグラブの横から右手を入れながら後方に引き込むところに特徴がある。こうすればボールをつかんだ時点ですでに右肩が後方に引かれているため、そのままの体勢から送球することが出来るのである。
ただし、吉田は突き指というリスクを負いながらもグラブにボールが収まるか収まらないかというタイミングでボールを握るため、イレギュラーに瞬間的に反応できるようグラブと右手を並行して差し出す鎌田よりも送球のタイミングがわずかながら速かった。捕球の巧さは互角でも、そのわずかな差こそが吉田が遊撃のポジションを死守出来た要因だったのかもしれない。
以上のように吉田は内野で最も深い位置の打球を処理しなくてはならない遊撃手の特性に従って、捕球から送球までの動作をいかに短くするかということに重点を置いていたが、鎌田はキーストーンを守る二塁手ならではの臨機応変なグラブさばきに工夫を凝らしていた。つまり場面によってグラブでの捕球位置を使い分けたのである。
ライナー性の当りの場合はこぼれないように一番引っかかりやすい網の部分に入るようにする。ただし併殺プレーだとボールを取り出しにくいのでグラブの真ん中で捕る。またタッチプレーの場合は走者と交錯しても落球しないようボールはグラブの網に入れてからタッチに入る。前述の写真のプレーはまさにそれで、猛スライディングを敢行した柴田のヘルメットが飛ぶほどのボディコンタクトがあったにもかかわらず、鎌田のグラブの中のボールは網部分にしっかり固定されている。
また常にグラブの中のボールの感覚が手のひらに伝わりやすくするためにペラペラの肉薄のグラブを常用したのも鎌田のアイデアである。これならば土手で弾いたり、グラブトスのコントロールをミスしたりするリスクも防げるというわけだ。ただし捕球面が浅いのでグラブの中心で捕らなくてはならず、慣れ親しんだ鎌田以外の選手に扱えるようなシロモノではなかったが、アンコが薄いので捕球した瞬間パチーンと小気味良い音が響くのが特長で、これが実に格好良かった。吉田ばりの広い守備範囲もさることながら、瞬時にプレー状況を判断し、グラブの捕球位置を使い分ける技術こそ、鎌田がグラブの魔術師と称された所以である。
三塁三宅、遊撃吉田、二塁鎌田と当時の球界屈指の名手が揃った昭和30年代の阪神の内野陣は、三塁から蔭山、木塚、山本、飯田と並んだ昭和20年代の南海の「百万ドル内野」とよく比較されたが、一塁手だけはお世辞にも名手とは言い難い藤本と遠井だった分、全体的な評価ではやや見劣りがした。
その代わり、鎌田は一塁寄りの打球処理に関しては、1960年代最高の二塁手と言われた高木守道(中日)すら及ばない絶対的な強さがあったので、動作の遅い藤本や遠井の守備範囲も十分カバー出来ていた。特に鎌田ならではの名人芸は、ランナーが一塁にいる場面で一塁寄りのゴロをさばくや素早く身体を回転させて二塁に送球するスピードが抜群に速く、正確であったことだ。並みの二塁手だと回転に勢いがつきすぎれば送球が逸れ、せっかく捕球できてもかえってエラーを誘発してしまう可能性も高く、見ている方はひやひやものだが、鎌田の場合はルーティーンワークに過ぎず、安心して見ていられた。
守備は一級品だが、足が速いわりにベースランニングとスライディングに難点があり、打撃も今ひとつの鎌田がレギュラーになったのはプロ入り3年目、昭和34年のことである。
翌35年にはリーグ最多捕殺を記録するなど、21歳の若さでセ・リーグ屈指の二塁手と言われるようになった鎌田だが、あまりにも打率が低いせいでベストナインやオールスターには一度も選ばれることがなかった。それでいて二番を任されたのは、貧打なりに鎌田の打席では工夫がこらされていたからだ。
ど真ん中のストレートを空振りするかと思えば、高めのつり球を逆方向に強打する。悪球打ちと呼ばれたが、それはセオリーを無視したバッティングをすることで相手バッテリーの組み立てを混乱させようと鎌田が故意にやったことである。数字には表れていないが、鎌田の頭脳的な打撃が味方打線に何らかの効果をもたらしたことは想像に難くない。
鎌田はすでに阪神時代に守備に関しては球団史上最高の二塁手としての名声を築き上げていたが、42年に近鉄にトレードされてからは、ニュー鎌田として新たな名人芸を披露し、球史に名を残す存在へとさらなる進歩を遂げていた。それがあまりにも有名な鎌田のバックトスである。
話は昭和38年春のキャンプに遡る。デトロイト・タイガースとの合同キャンプに参加した鎌田は練習試合でデトロイトのマイアット守備コーチをうならせるプレーを見せた。六回裏一死一塁の場面、右打席に立ったパットンのヒットエンドランを見抜いた鎌田は、あらかじめ一塁寄りに守備位置を移動し、本来なら一・二塁間を抜けている当りを深い位置で好捕すると振り向きざまに三塁に送球し、一塁走者を封殺したのである。
このプレーは一塁走者が三塁に向かっていることを確認してからでは間に合わない。走者が打球の方向から判断して三塁まで行けると確信していることまで想定したうえで、鎌田は三塁に送球していたのである。常に場面の先の展開を読みながらプレーする鎌田のセンスに惚れ込んだマイアットは、試合終了後鎌田を呼んでこう言った。「バックトスを本気でやってみないか。やる気があるのなら伝授しよう」と。
探究心旺盛な鎌田のこと、頭を下げて教えを買うたことはいうまでもない。
まず、マイアットコーチが手本を見せた。右手のひらを上にして身体の内から外に払うように後方に送球したボールは地上と水平に20メートル先まで飛んだ。初めて見るバックトスは鎌田にとって大きな衝撃だった。
これまでの鎌田は、走者と逆方向に来たボールを捕球した際、走者を封殺するために一旦振り返ってから送球するのが常であった。したがってより迅速な送球のためには、振り返る動作と投げる動作をほぼ同時に行う必要があるが、体勢が崩れた状態から送球しようとすれば悪送球になるリスクも高くなる。ところがバックトスは身体を無理な体勢で回転させる必要がないため、送球までの時間は飛躍的に短縮できるうえ、球筋も逸れにくい。
「これさえマスターすれば、併殺が倍増するに違いない」そう考えた鎌田はその日からバックトスの練習に取り組んだ。まず外野フェンスにチョークで直径50cmほどの円を描き、そこに命中するようにバックトスをするのである。マイアットコーチからは肘を痛める危険性を考慮し、練習は一日30球と限定されていたこともあって、最初3メートルの距離から始めて20メートルの距離で70%の確率で的を捕えられるようになるまでには3年も要したという。
あえて人を立たせなかったのは、少々逸れたボールでも人は動いて捕球してしまうからである。後方を見ずに送球するバックトスは、もし逸れたら最後、ボールは外野を転々としてしまう危険性の高いプレーである。だからこそ鎌田はほぼ百発百中になるまでバックトスを封印し続けた。
この歴史的なバックトスの初披露は昭和41年の巨人戦であった。一塁走者柴田の時、高田の打球を投手が一塁寄りに弾くと、通常の守備位置よりかなり右方向で捕球した鎌田はこのまま振り返って送球しては間に合わないと判断したか、身体は一塁方向を向いたまま咄嗟にバックハンドでトス。鎌田の送球はすでに二塁に入っていた吉田のグラブに吸い込まれるように収まり、柴田は二封された。
この瞬間、鎌田は心の中で「やった」と喝采をあげたが、絶対に二塁送球が間に合わないタイミングからの封殺に、観客はいったい何が起こったのかわからずスタンドは静まり返っていた。要は鎌田のプレーが高度すぎて、観客がついてゆけなかったのである。観客の無反応ぶりに失望したのか、鎌田はこの後1~2度しかバックトスを披露せず、やがて近鉄に移籍することになった。
阪神時代にはその凄さが認識されないままだったバックトスも、近鉄移籍後の鎌田がひんぱんに見せるようになったことで、ようやくそのプレーの先進性が注目を浴びるようになった。
現在でこそ距離の短いバックトスはプロなら常識的なレベルだが、名手の鎌田ですら完全習得に4年を要しただけあって、他チームの野手がおいそれと真似できる代物ではなかった。まさにバックトスといえば鎌田の独壇場であった。入団当初、アピール度に欠けるからと渋々受け入れた二塁手というポジションを自らの創意と工夫で「魅せるポジション」にした鎌田の功績は大きい。
しかし鎌田の輝かしい日々は唐突に終わりを告げる。ある接戦のゲームで、ベースに入るのが遅れたショートが鎌田のバックトスをセンターに逸らしてしまい、それが勝敗を左右するエラーとなった。すると三原監督は鎌田を呼び、「あれは危ないから、もうやるな」と厳命した。
確実性を重視する三原らしい判断ではあるが、これほどの名人芸を禁じたのは球界にとって明らかなマイナスであった。頑固な鎌田はこれを機に、反射的に身体が動いた一回を除いてバックトスを封印してしまったのだ。
もし、近鉄移籍前にバックトスが完成していたとしたら、遊撃が吉田だけによもや捕球をミスするようなことはなかったであろう。しかし、並みの遊撃手にとって日本一の内野陣の中で鍛えられた鎌田のスピードはあまりにも速すぎた。このレベルの違いが三原監督の目にはスタンドプレーに映ってしまったのは残念である。
生涯成績 ’234 24本塁打 264打点 1041安打




