第5話 アンチエイジングスラッガー 藤井 勇(1916-1986)
藤井勇といえばキャリアハイの打撃成績を残し、最も在籍が長かったことから“大洋の藤井”という印象を持たれがちだが、タイガース時代の藤井とプレーしたことのある選手たちによると、若き日のファイト剥き出しのスラッガー時代の方が打撃に凄みがあったそうで、40歳まで主軸を打っていたにもかかわらず、打者としての全盛時代は20歳前後だったという声も少なくない。
昭和11年4月29日、日本プロ野球最初の公式戦である第1回日本職業野球リーグ戦が甲子園で開幕した。大会6日目の5月4日のセネタース対タイガース戦においてタイガースの二番右翼手藤井勇が右中間に放ったランニングホームランが歴史的なプロ野球第1号となった。
この大会で5割5分6厘の最高打率を記録した19歳の左打者藤井はその後も波に乗って打ちまくり、年間トータルでは3割3分5厘と大健闘。個人記録の対象となる秋のシーズンに限っても3割2分0厘で打撃ベストテンの5位を占める一方、塁打数、得点ともにリーグ1位であった。
ところがこの藤井、月給は80円でタイガースのレギュラーオーダー中最低賃金の選手だったのだ。
プロ野球選手でありながら公務員か銀行員の初任給程度の俸給というと、今日の育成選手よりもかなり低い待遇だが、藤井は無名選手どころか、中等野球界では“沢村キラー”の異名を取る人気選手だった。
昭和10年夏の甲子園一回戦で藤井擁する鳥取一中が優勝候補の一角と目される京都商業と激突した時のこと。
京都商業のエース沢村栄治は前年に全米オールスター相手に好投を見せた全国区の剛球投手である。この試合も職業野球や東京六大学関係者が見守る中、被安打4、奪三振14という素晴らしい内容のピッチングを披露したが、藤井だけは抑えきれずに三安打を献上したうえ、とどめのタイムリーまで浴びる番狂わせで沢村は一回戦で甲子園を後にすることになった。
藤井は選球眼が良く、左右に打ち分けるシュアーなバッティングが特徴だったが、中学時代からプロ入り後までずっと“沢村キラー”と言われてきたにしては、通算対戦成績はそれほど芳しいものではない。実際、対沢村通算打率は66打数13安打で打率は1割9分7厘に過ぎないのだ。数字の上ではむしろ沢村のお得意さんであったにもかかわらず、ファンから見た二人の印象が異なるのは、甲子園での一打にしかり、藤井は試合の行方を左右するような重要な場面で沢村に煮え湯を飲ませていることによる。
昭和12年8月29日、秋季リーグの開幕戦では、一回裏に藤井が沢村から二点タイムリーを放つと、勢いに乗ったタイガース打線が爆発し、五回途中で沢村をマウンドから引きずり降ろした。この試合、とどめのタイムリーを浴びせたのも藤井だった。
9月11日の試合でも七回の藤井の逆転タイムリーで降板した沢村は、9月25日にも藤井から反撃の口火を切るタイムリーを打たれるなど、スターティングポジションにランナーを背負うたびに痛打されており、ファンもこうたびたび沢村が打たれるところを目の当たりにすれば、藤井は沢村の天敵であると思い込んでも不思議ではない。
沢村は春に比べて秋のシーズンはやや不調だったにしても、9勝6敗、防御率2・38(6位)、140イニングで129奪三振と相変わらずリーグ屈指の剛球投手であることには変わりない。その沢村がこれだけ打たれれば、チームの士気が下がるのもやむをえない。
秋のリーグ戦、巨人戦26打数16安打8打点(打率6割1分5厘)の藤井の活躍でタイガースは巨人に七戦全勝と圧倒して秋季優勝を果たしている。春季は打率2割5分6厘(18位)とやや伸び悩んだ藤井も、秋季は2割9分9厘(7位)と盛り返し、好調を維持したまま12月1日から後楽園で春季優勝の巨人と日本選手権を争うことになった。
第1戦の巨人先発沢村は秋季の汚名を返上すべく自慢の剛速球とドロップにモノを言わせ、タイガース打線を七回まで被安打2、奪三振8に封じていた。ところが1-0の巨人リードで迎えた八回表二死から景浦の当たり損ねの打球がライト前に落ちると、ラッキーなポテンヒットと四球で出塁していたランナー二人が逆転のホームイン。度重なる不運に気落ちしたか、沢村は続く天敵藤井からレフトスタンドに流し打ちのダメ押し2ランを叩き込まれ、万事休した。
緒戦にエース沢村がKOされた巨人は完全に弱気になってしまった。秋季に最多勝利を挙げ成長著しいとはいえまだ線の細いスタルヒンでは完全に役不足で、秋の勢いそのままにタイガースは四勝二敗で見事初の日本選手権を勝ち取った。
沢村からしてみれば、トータルの対戦成績では明らかに勝っていながら肝心な時にはなぜか打たれる藤井の顔を見るのも嫌かと思いきや、中学時代から練習試合でも顔を合わせていたこともあって結構仲が良く、巨人が試合で関西に来た時などは一緒につるんで遊んでいたという。
藤井は13年春までは不動の二番打者だったが、主戦投手の一人でもあった景浦が外野を守ることが多くなったうえ、藤村も投げない時は打力を生かすため外野に入ったため、俊足巧打の山口政信も加えた外野陣に藤井の居場所はなくなり、秋からは完全に控えに回されてしまった。
14年1月に景浦や藤村らとともに応召され、17年4月に満期除隊となって一時的にタイガースに復帰を果たすも、18年3月に再度応召され、北支で終戦を迎えた。
20年12月末に本土に帰還してきたときには腸チフスに罹っており、2ヶ月間もの入院を強いられるが、ちょうど退院した頃にプロ野球の再開に合わせて各チームが選手集めに奔走しており、おりしも自宅を訪ねてきた藤本定義に勧誘され、太平パシフィックの選手として球界に復帰することになった。
なぜ元巨人の監督がタイガースの藤井に声をかけてきたかというと、沢村と懇意だった関係で、藤井と藤本もチームを超えた付き合いがあったからだ。21年からプロ野球が再開されることになったのはいいが、まだ外地から帰還していない者や生没不明の者も多く、選手の確保は熾烈を極めていた。新球団太平パシフィックの監督となった藤本は、個人的にも付き合いがあった藤井が出征中にタイガースから給料を貰っていなかったことで、契約は無効と判断し、新球団に招聘したのである。
藤本監督の下で3年間レギュラー外野手として職責を全うした藤井は、2リーグ分裂に際して藤本が監督に就任した大映スターズからも勧誘されたが、契約金として現ナマで百万円ポンと出してくれた新球団大洋ホエールズと契約し、かつてタイガースで同じ釜の飯を食った門前真佐人(捕手)とともにクリーンナップを担うことになった。
契約金で念願のマイホームを購入できたことでモチベーションが高揚したのかどうかわからないが、25年度の藤井は世のホームランブームに便乗する形で従来のレベルヒッティングからパワーヒッティングへと切り替えた結果、3割2分7厘(4位)、34本塁打、122打点という過去最高の成績を残すことができた。
翌26年にはかつての同僚安居玉一も合流し、打の主軸はタイガース同窓会のような趣きを見せたが、投手力が弱くチームは下位に低迷した。27年から山口県下関市にフランチャイズを移したのを機に、心機一転藤井秀郎と改名すると、28年には2割9分9厘(7位)、15本塁打、57打点と打撃三部門ともにチーム最高の成績を残している。
長らく助監督待遇だったが、30年度はプレーイングマネージャーに昇格。ただし期待通りの成績が残せず、31年には平選手に戻って主に一塁手として101試合に出場している。すでに40歳になる藤井は規定打席不足ながら2割6分4厘、13本塁打、時には四番を打っていたのだから驚く。
33年に現役を引退した後は、打撃コーチとして球団に残り、三原監督ともに大洋の日本一を支えた。
在籍年数と打撃成績を見る限り「大洋の藤井」だが、後年に古巣タイガースの打撃コーチを務めたことも含めて、戦前の強力打線の一翼を担い、伝説的な投手沢村の好敵手だった藤井のタイガースでの存在感を無視するわけにはゆかないだろう。
生涯成績 ‘275 146本塁打 764打点 1482安打
藤井が25年に残した122打点は彼が亡くなるまで球団記録のままだった。ホエールズがなくなりベイスターズになってからロバート・ローズが44年ぶりに記録を更新した。その他にも本塁打数は39年のクレスが、打率も53年に松原が更新するまで藤井が球団記録保持者だった。




