第4話 未完の天才児 並木 輝男(1938-1988)
並木輝男は18歳の高卒ルーキーにして巨人戦で一試合二ホーマーの活躍を見せるなど、抜群の打撃センス
を持つ早熟の天才児だった。といっても、人並外れたパワーや優れた体幹の恩恵で打つ天性の強打者とは異なり、卓越した理論に基づいた打撃人だったため、さらなる伸長が期待されていたが、深く考えすぎるタイプなのか一度スランプに陥ると復帰までに時間がかかり、日本シリーズのような短期決戦では実力が発揮できなかった。
日大三高の四番・エースとして2度の甲子園出場経験を持つ並木は、別所(滝川)や池永(下関商)の片腕だけの熱投、板東(徳島商)対村椿(魚津)、斎藤(早実)対田中(駒大苫小牧)の延長18回の激闘に勝るとも劣らない感動的なピッチングを披露しながら当時はおろか現在でもほとんど取り上げられることのない知られざる甲子園秘話となっている。
昭和30年の7月上旬、夏の甲子園地区予選を目前に控えた並木は雨天での練習がたたって風邪を引いてしまった。しかしチームの大黒柱が風邪で欠場というわけにはいかない。無理をおして予選5試合を投げぬいた並木が東京代表として甲子園の土を踏んだ時は、病状はさらに悪化していた。それでもすでにプロからも注目されていたほどの本格派左腕である。なんとこのコンディションでも神戸商業との一回戦は完封勝ちを収めているのだ。
いかに並木がずば抜けた体力の持ち主であったとしても、所詮はまだ16歳の高校生である。本来なら投げられないほどの体調のまま炎天下の甲子園で完投とくれば、その後どうなるかは自明の理であろう。その夜39度8分の高熱を出した並木は風邪と疲労による急性肺炎と診断された。
現在ならここまで投げさせた時点で監督・学校ともに大きな非難を浴び、高校野球そのものの在り方が問われかねない大問題に発展してもおかしくないところである。しかし、この時代の高校野球を取り巻く環境は異常だった。並木を急遽入院させるどころか、理事長から届けられた酸素吸入器をベンチに入れ、並木がダグアウトに戻ってくるたびに酸素吸入器で呼吸させながら体力の回復をはかろうとしたのである。二回戦の桐生高戦の時、甲子園の気温は34度、並木の体温は39度だったが、味方打線の援護もあって10対4で勝利、続く三回戦も連投した並木は坂出商打線から滅多打ちに遭いついに力尽きた。
これほどの残酷物語がかつて甲子園であっただろうか。医師から肺炎と診断された半病人をマウンドに送るなど、まともな人間の考えることではない。この時並木がマウンドで倒れてそのまま死亡していたらどうであろう。大会は中止あるいは廃止に追い込まれ、刑事事件に発展していたかもしれない。斎藤(早実)対田中(駒大苫小牧)の投げ合いも、日本でこそ美談だが、健康管理第一のアメリカなら即大問題である。しかし並木のケースはいくら日本でも美談などとは程遠い野球の名を借りた「特攻」でしかなかった。
当初、並木はタイガースに入団する予定ではなかった。家業である運送業の経営が苦しくなったため、契約金を運転資金に回すつもりで早大進学を諦めて中日入りすることが決定していたのである。ところが入団発表の矢先に並木獲りを指示していた中村三五郎代表が病で倒れて退陣すると、中村の懐刀で並木を担当していた佐川直行スカウトまでが更迭され、入団は白紙撤回されてしまった。
しかし幸いと言うべきか、折しも藤村監督排斥事件のあおりでチーフスカウトの青木一三が退団しスカウト陣が手薄になったタイガースが敏腕で知られる佐川を招聘したことで、佐川は当時手がけていた並木と鎌田まで行動を共にしたというわけである。特に並木は中日の中村三五郎代表のお気に入りだっただけに、間もなく今際の床に就いた中村は「並木は活躍しているだろうな」とうわ言のようにつぶやいていたという。
高卒新人としては傑出した打撃センスを持っていた並木は、高卒新人野手としてはセ・リーグ初となる開幕スタメンを経験した後、ゴールデンウィークを過ぎた頃から七番右翼手としてレギュラーに定着した。
この年の新人王争いは本命の藤田(巨人)がオールスターにこそ選ばれたものの思ったほど勝ち星が伸びなかったため、夏場に入って調子を上げた並木が猛追し、前半戦の区切りとなる第15節終了時(7月8日)までの成績は、藤田が8勝10敗、防御率2・47、並木が2割9分9厘、4本塁打、17打点と両者は拮抗していた。並木はまだ規定打席には到達していなかったが、4月21日からの巨人三連戦で別所と藤田からタイガースの連勝に貢献する二戦連続代打タイムリーヒットを放った他、7月3日にはライバル藤田から決勝2ランを放つなど2ホーマー3打点と新人ながら巨人キラーぶりを発揮し、スポーツ各誌の記者予想では並木を新人王に推す声の方が圧倒的だった。
ところが、夏も半ばを過ぎた頃から両者の立場は逆転する。9月4日の首位攻防戦ではタイガースが一打同点のチャンスを迎えたところで並木対藤田の一騎打ちとなったが、並木は藤田の前に三球三振に退いている。その時のお互いの印象はこうである。
並木「早かった。バットを構える暇がなかった。ストライクとわかっていても手が出なかった」
藤田「いつでも球に食らいついてくる彼があっさり諦めたので、初めて自分の球の速さがわかった」
この対決に勝ったことで藤田は自信を取り戻し、逆に並木は自信を喪失したといえるかもしれない。
最終的には勝負どころの後半でエース別所を凌ぐ活躍を見せた藤田が17勝13敗で昭和31年度の新人王を獲得し、並木は2割5分、8本塁打、32打点という一見平凡な成績に終わったが、世界の王ですらプロ1年目は1割6分1厘、7本塁打、25打点に過ぎない。実は高卒新人の8本塁打というのは平成4年にゴジラこと松井秀喜が11本塁打(2割2分3厘、27打点)で更新するまでセ・リーグ高卒新人の最多本塁打記録だったのである。
並木の魅力は何といっても左右に打ち分ける器用なバットコントロールと対戦投手の投球を読む技術である。身体には恵まれなかったが野球センスは抜群で、メジャーリーグ最後の4割打者テッド・ウィリアムズの打撃理論と一部通ずるものを持っていた。驚異的な記憶力の持ち主であったウィリアムズは、現役時代の全ての打席について詳細な記録を残していたが、その中で彼はストライクゾーンを縦11×横7の計77に区分し、打席ごとの全て投球コースを分類している。そのデータをもとにコースごとのヒット確率を算出し、打席に立った時には常に77個に区分されたストライクゾーンを頭に描きながら確率の低いコースは見逃すかファウルで逃れ、より確率の高いコースを打つというのがウィリアムズ式である。
一方の並木はウィリアムズのような長身ではなかったこともあってストライクゾーンは縦7×横5の計35区分に過ぎないが、コースごとに把握したデータをバッティングに生かしていたところは全く同じである。まだID野球などなかった時代にこういう発想を持っていたというのは一種の天才と言っていいのかもしれない。とはいえ理論的に正しくてもそれを実践に移せるかどうかは別問題である。ウィリアムズは徹底した自己管理によって野球を最優先したクリーンライフを送ることが出来たが、粋でお洒落なシティボーイだった並木は、試合が終わればバリっとしたスーツに身を包みバーやダンスホールで札びらを切るタイガースの若手遊び人のリーダー的存在だった。
誘惑が多い環境で野球に集中じづらかったせいか、さすがの並木もクリーンナップが打てるようになるまでにはさらに3年を要している。
昭和35年は未完の大器がようやく大物の片鱗を見せた年である。オールスターファン投票で外野手部門の4位となり、初の球宴出場を果たすと、終盤までコンスタントにヒットを打ち続け、ついに念願だった打率3割に到達している(3割6厘・リーグ第4位)。とりわけ印象深かったのが伝統の一戦での活躍で、対巨人戦の打率4割4厘はリーグダントツのトップだった。
プロ野球選手にしては小柄で一見すると非力な印象の並木だが、長打数は巨人のONを抜き、広島の大和田と並ぶリーグトップとタイガースの三番にふさわしい長打力も持ち合わせていた。その他、盗塁もチームトップの23個、外野守備でも2年連続無失策と攻・走・守の三拍子が揃った素晴らしい活躍で外野手のベストナインにも選出された。この時まだ21歳の並木がスーパースターになるのは時間の問題と思われたが、身体がついてゆかなかったのか、タイガースが久々のリーグ優勝を果たした昭和37年に打率2割9分0厘(第3位)10本塁打で2度目のべストナインに選ばれたのをピークに、成績は下降線を辿っていった。
昭和41年には東京オリオンズに移籍し、心機一転を図ったがアキレス腱の断裂でシーズンを棒に振り、結局2年間で1本のヒットも打てないまま29歳の若さでユニフォームを脱いでいる。
不本意な引退からしばらくは解説者のかたわらバーの経営に携わっていたが、昭和60年、第二次吉田内閣のヘッドコーチとして招かれ、久々に縦縞のユニフォームに袖を通した。卓越した打撃理論を持つ並木は指導者としても優れておりタイガースを初の日本一に導いたが、62年の最下位の責任を取って吉田とともに退陣した。
並木の訃報が知らされたのはその翌年のことだった。まだ49歳の若さだった。これからも球界に貢献しうる逸材だった並木は選手時代と同様に未完のまま人生も終えたのである。
生涯成績 ’255 81本塁打 380打点 882安打
江戸っ子でお洒落な並木は同時期のナインの中ではハイカラな雰囲気をまとっていたが、姉が日劇ダンシングチームの一員だったため、ファッションセンスの良さや運動神経も姉譲りだったのかもしれない。




