第3話 霧のかなたに ー帰らざる名捕手ー 小川 年安(1911-1944)
小川年安は草創期のタイガースに一年だけ在籍した後、応召され戦火に消えた悲劇の名捕手である。変化球といってもカーブ、シュート、チェンジアップくらいしかバリエーションがなかった時代に、外角低めに鋭く落ちるカーブをウイニングショットに持つ投手はどのチームでもエース級を張れたが、小川は低めのカーブを上手く拾ってライト前に運ぶ技術に長けており、穴が少ないアベレージヒッターだった。
タイガース草創期の名捕手である。広陵中時代から強打の捕手として鳴らし、甲子園にも5度出場しているが、昭和2年の春・夏、4年の夏と3度も決勝に進出しながらいずれも涙を呑み、準優勝3度という珍しい記録を残している。
慶大に入学した当時(昭和5年)は宮武三郎、山下実といった当代きってのスーパースターが君臨していたこともあってさほど目立つ存在ではなかったものの、彼らが卒業した6年春に正捕手となってからは、水原茂とのバッテリーで大いに売り出した。
六大学ファンに小川の名を印象付けたのは、昭和6年5月18日の対明大2回戦のことである。2年生ながら四番に座った小川は、その重責をものともせず1回に広陵中時代にバッテリーを組んでいた田部武雄(後に巨人)から前年冬に増築されたばかりの新装神宮球場(6万5千人収容の大球場に改装)第一号となる3ランホーマーを左翼席に叩き込むと、9回にもこれまた広陵でバッテリーを組んでいた八十川からとどめの右中間三塁打を放ち、ニューヒーローとして一躍注目を浴びる存在となった。
慶大は、宮武、山下の両雄が卒業して以来、やや小粒なチームになったと噂されていたが、小川、水原の活躍で春のリーグ戦を制し、杞憂は一掃された。
大学二年にして早くも「六大学随一の捕手」と絶賛された小川だが、まだ捕手としては荒削りで、その際立った強肩のほかは、鈍足のせいか動作が緩慢で捕球技術にも難があった。その代わり6年春のシーズンに3割8厘(ベストテン四位)、リーグトップの7打点を記録した打撃センスは六大学の名だたる強打者連中からも一目置かれており、「強肩・強打の捕手」という長所のみがやたらにクローズアップされる要因となった。
翌7年春も優勝した慶大は、渡米中で不在だった3年春を除けば、大正15年から春のリーグ戦六連覇を果たし、まさに黄金期にあった。それだけに中心選手であった小川・水原の人気ぶりは凄まじく、宮武・山下にさえ引けを取らぬものがあったが、その人気の質は二人の偉大な先輩とは大きく異なっていた。
それは、小川・水原見たさに球場に殺到する女性ファンが急増したことからも伺えるように、とにかく女性にモテまくったのである。剛球投手の宮武と豪打者の山下が、共に「豪傑」というイメージが先行するのと比べると、好打者小川と技巧派投手にして三塁守備の達人水原のコンビにはやはり「華麗」という表現がふさわしい。
粋でダンディな水原が銀幕のスター達と浮名を流す一方、野球選手らしからぬ美男子でインテリジェンスな魅力溢れる小川の方は、大学時代から飛ぶようにブロマイドが売れたという逸話を持つだけあって、プロ入り後も合宿所に押しかける女性ファンが後を絶たなかったらしい。
当時は、現在からは想像がつかないほど六大学野球は人気があり、まだ学生の身分でありながらレギュラー級の選手ならほぼ例外なくブロマイドが発売されていた。中でも早大のエース伊達正男と慶大の小川は人気の双璧で、私服姿からユニフォーム姿まで実に20種類ものバリエーションが用意されていたのだからまるで映画スター並みの扱いである。
オールドファンによると、プロ野球史上最も女性にモテたのがこの小川だそうだが、いくら野球カードブームの今日でも、アマチュア選手でこれだけの種類が発行されることなど有り得ないだろう。
昭和10年の職業野球発足と同時にタイガースに入団した小川は、初の公式戦である11年4月29日の金鯱戦に7番スタメン捕手としてプロデビューを飾っている。この日は藤村富美男の1安打完封勝利を演出する見事なリードを披露する一方で、打っては8回にダメ押しとなる左中間タイムリー三塁打を放ち、記念すべきチーム初勝利に貢献した。捕球直後に座ったまま三塁に牽制球を送る強肩ぶりと好リードはもちろんのこと、小川の魅力は何と言ってもそのバッティングの良さにある。
六大学通算2割7分9厘(58安打)は、当時の捕手としては一級品の成績であるが、プロ入りしてからは一段と強打に磨きがかかった感が強い。タイプ的には長距離打者ではなく、大根切りのようなスイングでセンター返し中心のミート打法に徹したため、チームメイトの松木や景浦のような凄みこそ感じられなかったものの、球団初のサヨナラヒット(5月17日)をはじめ随所で勝負強さを発揮し、固め打ちも得意とした。
帰朝した巨人軍が公式戦に初参加した東京・大阪・名古屋でのトーナメント大会(7月1日~19日)では出場4試合で17打数12安打、7割6厘と凄まじい猛打を見せ、以後は三番が指定席となった。
バットコントロールが巧みで狙い球を絞って打つことにかけてはチーム随一だった。タイガースが最も苦手とした沢村栄治の武器は、外角への剛速球と落差の鋭いカーブで、猛虎打線はこれに翻弄されていたが、どちらのボールにも自信があるせいか、ピッチングが単調でツーストライクまで追い込んだ後はカーブの確率が高いことから、小川はツーストライクまでは手を出さず、カーブを右方向に追っつけるバッティングで沢村攻略の急先鋒となった。
その後、ナインにもツーストライク後に一塁の頭上を狙ったカーブ打ちを指示したことが、翌12年秋の打倒沢村につながったといっても過言ではない。
昭和11年は、個人タイトルの対象となる秋季に限れば2割8分7厘でベストテン8位、年間トータルでは3割4分2厘(4位に相当)でタイガース全選手中トップの打率を残しており、シーズン中盤から任された三番の重責を全うした。
この年にタイガースが消化した公式戦は46試合しかなく、フルシーズンの記録と公平な比較はしづらいところだが、小川の打率は、一般的に捕手の最高打率と見なされている平成24年の阿部慎之介(巨人)の3割4分0厘をも上回る隠れたプロ野球記録なのである。
また選球眼も良かったので、出塁率はリーグトップの4割5分1厘にまで達している。「強打の捕手」というイメージを定着させたことで、これまであまり陽の当たらなかった捕手というポジションの存在感を高めた小川こそ、最初のスター捕手と言っていいだろう。
小川の残した強打の捕手の伝統は、その後もカイザー田中、門前、土井垣、田淵、矢野とタイガースの中で脈々と受け継がれている。
これだけの逸材でありながら、11年の暮れには早々と兵役に服しており、わずか1年で縦縞のユニフォームを脱ぐことになったのは惜しまれる。一旦は軍務を解かれたものの、再び応召され、今度は帰らぬ人となってしまったのである。
小川の戦死は、その死を看取った者がいないため、いつ頃亡くなったのか全く不明で、戦後間もない頃まではその戦死すら知られておらず、シベリアに抑留されていたかつての相棒水原らと同様に、未復員のプロ野球選手の欄に小川の名が載っていたほどだ。
長らく昭和12年が没年とされてきたが、応召された沢村が戦地で小川と再会した写真が昭和十四年十一月刊行の『野球界』に掲載されていることから察するに、14年の夏頃までは健在だったようだ(その頃は結婚して、夫人の吉田姓になっていた)。
墓碑には昭和十九年七月十一日没と記されているが、正確なところはいまだにわからない。
生涯成績 ’342 0本塁打 30打点 52安打
戦前の広い甲子園で最も多く本塁打を打った景浦と捕手の最高打率記録を持つ小川の戦死がなければ、伝統の一戦も様変わりしていたかもしれない。




