第10話 閃光の豪腕 西村 一孔(1935-1999)
西村はタイガースの歴代新人投手の中では村山実と並ぶ輝きを見せた豪腕である。ただし、活躍期間が短い分、巨人阪神戦の立役者の一人としての印象は薄いかもしれないが、21試合に登板し、5勝4敗、防御率1.93という通算成績の中でも投球回数88回3分の2で奪三振73、被本塁打1本という打たれにくさは際立っている。またロングリリーフも得意で、新人の年にはロングリリーフでの二桁奪三振を二度も記録しているが、中一日や二日でこんなピッチングができる投手など今日では考えられない。
昭和30年にタイガースの新人王第一号に輝いた西村は、実質的にはわずか一年と数ヶ月で燃え尽きて散った閃光のような野球選手であった。
山梨県都留高校時代には矢頭高雄(立大-毎日)とバッテリーを組んで27年夏の甲子園に出場しているが、この時は後年外野手として大毎ミサイル打線の一翼を担った矢頭(三年)がエースで、西村(二年)は捕手であった。そのため、プロ入り後も西村は捕手から転向した急造の投手と思い込まれていたようだが、本来は投手であり、強肩であるがゆえに捕手を兼任していたに過ぎない。
甲子園では一回戦で超高校級スラッガー豊田泰光を擁する水戸商業と当たり、二安打完封負け。五番捕手として出場した西村は三打数一安打の成績だった。
翌28年夏は西村がマウンドを任され山梨県大会では優勝したものの、当時は山梨県と静岡県が一くくりにされており、山静大会を勝ち抜かなければ甲子園に駒を進めることができなかったため、都留高校の二年連続夏の大会出場はならなかった。
まだ全国的な知名度こそ低かったが、プロ志望だった西村は捕手として東映の入団テストを受け、見事合格している。ところが東映とは契約せずに藤倉電線に就職しているところを見ると、テスト生の契約条件が低すぎたのだろう。
当時の東映のテスト生の月料は五千円で、寮の一ヶ月食費が六千円だったため、プロとは名ばかりで二軍の間は仕送り生活を余儀なくされた。これでは西村が二の足を踏むのもやむをえない。逆に東映は数百人ものテスト受験生の中から西村の強肩を買って採用を決めながら、条件面で過小評価してしまったことで、掘り出し物を手に入れ損ねてしまった。
藤倉電線のノンプロチーム、オール藤倉には捕手として採用されながら、途中から投手に戻った西村は、吉田正男ピッチングコーチ(甲子園最多勝のレジェンド)の指導の下、初出場した29年の都市対抗でいきなりどえらいことをやってのけた。
一回戦の富士本州製紙戦で被安打3、奪三振9の完封勝利、しかも打者27人で終わらせるという快投を見せた18歳の少年投手は、二回戦の函館大洋戦、三回戦の大鉄吹田戦も連続完封。ここに都市対抗史上初の三試合連続完封勝利という大偉業を達成した西村は大会の話題を独占した。さすがに連投の疲れもあって決勝の八幡製鉄戦では打ち込まれて黒獅子旗にはあと一歩及ばなかったが、この実績がモノを言って早速タイガースから声がかかり、同期入団選手の中では最高条件での入団と相成った。
同世代にすでに実績を残している渡辺省三、小山正明といったエース候補がいるにもかかわらず新人開幕投手の栄誉を担った西村は、初登板初白星という好スタートを切るとあれよあれよという間に勝ち星を重ねてゆき、新人ながらファン投票第一位でオールスター出場を果たしている。
史上二人目となる新人で先発を担ったオールスターでは2試合で3回3分の1を投げて6奪三振を記録。パ・リーグの強打者連中を力でねじ伏せたハイティーンエース西村の魅力は何と言っても威力抜群のストレートにある。
19歳で177cm72kgと、当時の投手としては立派な体格の西村は、腰周りが太く軸足の回転がスムーズなため、腕の力だけに頼らず全身のウエイトが乗った球質の重いボールを投げることが出来た。
元巨人監督の三宅大輔が、「全身を上手く使っているため、力投しても疲労が分散される点において、西村の投球フォームは優秀である」と評しているように、疲労回復が早い西村は、小細工を弄することなく一球一球全て全力投球で打者との真っ向勝負を挑むタイプの投手である。そのため、当たっている打者を迎えて無理に勝負をする必要がないような場面ですら、力で抑え込もうとして痛打を喫することもあったが、終始アグレッシブなピッチングで打者との一騎打ちを演じる西村の姿は、ケレン味が無く実に颯爽としていて、ファンの好感度もピカ一であった。
オールスター戦の好投でさらに自信を深めた西村は、9月3日の中日戦では延長13回で16奪三振をマークするなど、その豪腕ぶりは留まるところを知らず、シーズン終了時にはプロ野球新人記録となる302奪三振という金字塔を打ち立てた。年間奪三振数こそ西村の活躍に刺激されたか生涯最高の350奪三振をマークした金田には及ばなかったものの、一試合平均の三振奪取率となると、金田の7・88を上回り、昭和11年に内藤(金鯱)が記録したプロ野球記録の8・86を20年ぶりに更新する9・21にまで達している。
球団史上新人で20勝したのは22年の梶岡以来の快挙だが、さらに注目すべきは‘187という被安打率の低さである。それまでタイガースでシーズンの規定投球回数に達した投手で被安打率が1割台というのは、景浦(11年秋、12年春)と若林(18年)の二人しかいないが、短期シーズンの景浦はともかく、若林が被安打率’199を記録した18年は全球団の平均打率が2割に満たない投高打低の時代(首位打者の呉波が‘286)であった。それを考えれば平均打率が2割3分台の昭和30年に被安打率を1割台に抑えた西村がいかにヒットを打たれにくい投手であったかがわかる。
この記録は奇しくもタイガースでは西村以来の新人王を獲得した村山が塗り替え、現在も球団記録となっているが(’165)、20勝200奪三振以上を記録した投手に限れば、30年の西村を凌ぐのは43年の江夏(‘177)だけである。なにしろ、年末に親善試合で来日したヤンキースの選手が、低めのストレートの威力に目を見張っていたくらいだから、球威だけならまさしくメジャー級と言ってよかった。
大舞台に強い西村は新人ながら巨人戦四勝四敗、防御率一・九四(登板十三試合)と健闘しているが、60回1/3も投げて本塁打を一本も打たれていない。翌年、八月十九日に伏兵の広岡から初めて一発を浴びるが、その後も巨人打線は西村から一本も本塁打を打つことができなかった。
ところが一見順風満帆そうに見えた西村にも大きな欠点があった。それは投球時の腕の振りである。投球フォーム自体は前述の三宅が賞賛していたとおり理に適ったものだが、バックスイングの際、一般的なオーバースローの投手だと腕は腰の下あたりから上に上がってくるところを、西村は右肩の後方からキャッチャーの二塁へのスローイングのように腕を振り出すのだ。この時、打者からはボールのグリップが丸見えになってしまううえ、肩口から出てくる右腕を避けるかのように首を左にかしげた状態でリリースしてしまうためホームプレートから目線が離れてしまいコントロールも定まりにくい。
球種がストレートとカーブの二種類しかないにもかかわらず第一線で通用したのは、打者がストレートに狙い球を絞っていたとしても十分抑え込めるだけの球威があったことと、打者の方向を向かずに投げる変則モーションのためかえってタイミングを合わせづらかったことによるものだ。
また“担ぎ投げ”と言われる捕手のスローイングのような特異な腕の振り方は、肩や背筋を痛めやすく、シーズン途中から西村はいずれ肩を壊すのではないかと危惧されていた。なにしろ先発、リリーフの大車輪の活躍で六十試合も登板しているのだから無理もない。
31年度の開幕を控えたオープン戦でその不安は現実となった。脊椎のずれに起因する肩と腰の痛みがなかなか引かず、二年連続開幕投手の栄誉を逃してしまったのである。
それでも短いイニングならいけそうだということで、開幕の広島戦は六回一死からリリーフに立ち、2回2/3で被安打2、奪三振4という無難な投球を見せたが、リリーフだけとはいえ、だましだましの登板にも限界が来て、四月二十二日の巨人戦を最後に約三ヶ月ものブランクを作ってしまう。
幸いこの時の肩痛は致命傷にはならなかったようで、万全の状態で復帰してからはルーキーイヤーを彷彿とさせる快投を見せた。
シーズン初先発となった七月十一日の大洋戦で久々にマウンドに戻ってきた西村は、5回を被安打1、奪三振7で三勝目を挙げると、この月だけで三勝し、開幕以来無傷の五勝〇敗と完全復活を感じさせた。
五勝目となった七月二十八日の国鉄戦は、八回被安打4奪三振10と久々の二桁奪三振で甲子園の西村ファンを歓喜させたが、八月に入ると虫垂炎を発症し、快進撃にもブレーキがかかる。それでも巨人と優勝争いの真っ只中とあって、責任感の強い西村は手術をせずに薬で散らしながら九月以降は先発、リリーフとフル回転で投げ続けた。
ブランクが長かったせいで先発は六試合に過ぎなかったが、いずれの試合も五回まで投げ、全試合クオリティスタートという安定感を見せている。投球回数自体は大幅に減ったとはいえ、七勝三敗、防御率一・三七という成績は内容的には前年を上回るものだった。
ところが終盤の無理がたたって虫垂炎をこじらせてしまい、手術から退院まで二ヶ月もかかったため、三年目はわずか五試合しか登板できす、その後もなかなか体調が元に戻らないまま、35年限りで引退を選んでいる(一軍登板は34年まで)。
36年は金田正泰監督の下でピッチングコーチを務めたが、十一年ぶりにBクラスに陥落した責任を取って退団し、再び球界に戻ってくることはなかった。
生涯成績31勝20敗 防御率1.95
西村は人が良く、後輩の面倒見もいいことから、若い選手のよき相談役を期待され、引退後はそのままスライドして一軍コーチとなったが、ベテラン選手からするとまだ20代の若造がコーチというのは耐えがたかったのかもしれない。西村退団の翌年、西鉄も20代の青年内閣を発足させるも、一年で崩壊している。




