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儚虎伝(もうこでん) ー阪神タイガース選手伝ー  作者: 滝 城太郎


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第1話 縦縞のプリンス  別当  薫(1920-1999) 

別当薫がタイガースの球団史上最も輝いた新人野手であったことを知っている方は生来のタイガースファンの中でも今となってはごく一部に限られるだろう。途中怪我によるブランクさえなければ、あの長嶋茂雄に匹敵するルーキーイヤーを過ごしたことは間違いないほど、攻・走・守揃ったスター性溢れる選手であった。

 タイガース出身の野手の新人王というと、老舗の名門チームにしては案外少なく、新人王の表彰が始まって75年間でたったの5人に過ぎない。人気チームであるがゆえに鳴り物入りで入団した大物新人も多いはずだが、何故か期待外れが大半で、前評判どおり順当に新人王を獲得した田淵幸一や岡田彰布にしても東京六大学時代の華々しさに比べれば地味なルーキーイヤーであった。

 このように新人野手の派手な活躍には縁遠いタイガースではあるが、新人王が制度化される以前の昭和23年、あの長嶋茂雄の新人時代に優るとも劣らぬ華々しいデビューを果たした男がいる。それが球団史上最高のスーパールーキー別当薫である。

 とにかく華のある選手だった。貸家を80件も持つ神戸の裕福な材木商の家に生まれ、甲陽中-慶大と進んだ毛並みの良さもあって、別当のスマートな容姿と気品ある物腰からは、努力や根性、ハングリー精神といった当時の野球選手にありがちなある種の泥臭さは微塵も伺えない。むしろ金持ちの御曹司か、やり手の青年実業家といった風情である。

 そんな一見優男風の別当がひとたびバッターボックスに立つと、滑らかで美しいフォームから弾き出された打球の多くは快音とともに流星のごとくスタンドに消えていった。また、長身の彼が大きなストライドでグラウンドを疾走する姿は、まるでサラブレッドのように実に優雅で、本当に何をやっても絵になった。

 別当の華やかな球歴がスタートしたのは甲陽中時代にさかのぼる。当時の別当は名うての剛球投手として有名で、昭和12年春と13年夏にはエースとして甲子園のマウンドも踏んでいる。

 特にベスト4まで進出した13年夏の大会は1回戦から2試合連続完封、準決勝で敗れた強豪岐阜商業(13年春優勝・夏準優勝)からも11三振を奪う好投ぶりを披露している。しかし、ピッチング以上に評価されたのが、甲子園通算16打数9安打(5割6分3厘)という卓越した打撃センスであった。

 実家が甲子園の近くだけあって中学時代から熱心なタイガースファン。左足を高く上げ、ほぼ垂直に立てたバットを後方に引いてから鋭く振りぬく豪快なスイングはアイドル視していた景浦を手本にしたもので、打ってよし、投げてよしというところまで本家そっくりであった。慶大に進学してからは、投手としてはもっぱら控えに回って、外野手が定位置となっていたが、看板の打撃にはさらに磨きがかかり、六大学リーグ出場5シーズン中、打撃ベストテン入りは4回(首位打者1回)、通算打率3割4分6厘を記録。監督を兼任した昭和21年秋のシーズンには自らも3割3分3厘(3位)を打って慶大をリーグ優勝に導いている。

 大学卒業後は、戦争で破綻した家業の立て直しに奮闘する傍ら、オール大阪の四番エースとして22年の都市対抗に出場。大学時代からのライバルだった笠原和夫(早大)とクリーンナップを組んで優勝候補の一角と目されたが、準決勝でエース別当を温存したのがたたって鐘紡高砂に不覚をとった。それでも、かつての早慶戦のヒーローにしてこの大会でも屈指の強打者と騒がれた二人の去就は都市対抗以後も世間の注目を一身に集め、笠原が21年度優勝の南海、別当が22年度優勝の阪神というともに人気チームへの入団が決定したことで、ジャーナリズムの報道合戦はさらにヒートアップした。

 別当の支度金40万円は、契約金というものが慣習化していなかった当時としては破格の待遇であったが、そのほとんどが債務の穴埋めに消えてしまったという。かつての御曹司も戦争で全財産を失い、家計は火の車だったのだ。

 23年2月末から始まった新人対抗戦や南海との帯同遠征試合こそプロのレベルに戸惑い、なかなか結果を出せなかった別当だったが、阪神・南海・阪急の三電鉄トーナメントを皮切りに本格的なオープン戦が始まるや、“超大物新人”の看板に偽りなく桁外れの猛打を披露した。

 阪急の天保から西京極球場のバックスクリーンに待望のプロ第一号ホームランを叩き込んだ別当は、続く毎日・読売・中日の三新聞主催の優勝大会でも、一回戦に中日のエース服部、二回戦ではこれまた大物新人として騒がれている南海の柚木、決勝では阪急のエース野口から三試合連続のアーチをかけ、大会優勝と最優秀選手賞まで勝ち取っている。

 脅威の新人別当の活躍はさらに続く。鳴海球場で行われた中日大会に乗り込んだ別当はここでも一回戦に巨人の緒方、決勝で太陽の真田からホームランを放ち、タイガースを優勝に導いた。別当は大会首位打者と最優秀選手の二冠である。

 大下の登場以来、プロ野球は戦前とは打って変わって各打者がホームランを狙い始めたが、オープン戦とはいえ四試合連続は史上初の出来事であった。それもただの興行的な調整試合ではなく準公式戦とでもいうべき権威のある大会だけに、各チームともにエース級をつぎ込んでおり別当の猛打は歴戦のプロをも震撼させた。

 別当が東京のファンの前にその勇姿をあらわしたのは続く後楽園の読売大会であった。この頃になると別当人気はうなぎのぼりで、オープン戦にもかかわらず一回戦の急映戦から後楽園球場は満員の観客でごった返していたが、その期待に応えるべく別当も長打を怖れて外角一辺倒に攻めてくる吉江の球を右翼席中段に見事な流し打ちで叩き込み、満場の喝采を独り占めにした。

 最終的にはこの大会もタイガースが制し、三大会連続優勝を果たしたが、それにも増して大きな話題となったのは大会通算45打数21安打(‘467)6本塁打、23打点の新人別当の活躍ぶりである。22年度の本塁打王大下ですら年間17本に過ぎず、空前のホームランブームのさきがけとなったラビットボールも使用も23年のシーズン終盤からということを考えれば、いくらオープン戦といえども別当の長打力はまさしく人間離れしたものがあった。

 惜しかったのは連続試合本塁打記録が途絶えた中日大会の2回戦で、長打を警戒してあらかじめ深く守っていた中堅手がフェンスの上まで手を伸ばしてようやく掴み取った大飛球が一本あり、打球に追いついていなければ当然スタンドに入っていた当たりである。仮にこれが入っていれば7試合連続というとんでもない記録が生まれるところであった。公式戦前から、本命の大下、川上を差し置いて新人の別当が本塁打王の最右翼と目されたのも当然であろう。

 新人にして首位打者、本塁打王を期待された別当は待遇も破格であった。自らタイガースを希望したという経緯もあって契約金こそ常識的な枠内であったが、俸給はすでに打点王2回と実績十分の四番藤村とほぼ同額の月給十万円であった。

 通常ならこれだけ期待されるとかえってプレッシャーが大きすぎて実力を発揮できない選手が多い中、契約金のおかげもあって家業が立ち直ったため、金には困っておらず、「野球は金のためではなく好きでやっているのだ」と公言している別当にとっては、好きな野球を何の気兼ねもなく思いっきりやれるということがむしろ活力源であった。

 公式戦が開幕してからもオープン戦と同じ調子で打ちまくり、シーズン序盤から青田、鶴岡、小鶴らとともに熾烈な首位打者争いに加わっていた別当を突如悪夢が襲う。6月 日の南海戦で二塁にスライディングした際、スパイクの金具がグラウンドに引っかかって足を捻り、骨折してしまったのである。診断の結果、全治四ヶ月の重傷で打撃タイトル獲得は絶望的となった。

 主砲の長期離脱が響き、チームの二連覇は絶望的となったが、自らの不注意による失態の汚名返上に燃える別当は、まだ骨折が完治していないにもかかわらず9月24日の阪急戦から現場に復帰した。この日は球団側も別当の復帰を心待ちにしていたファンへのサービスの一環として、試合前の守備練習を取りやめ、別当のフリーバッティングを披露するという粋な計らいを見せている。

 うっ血したかかとに負担がかからないようにスパイクに穴を開けてグラウンドに立った別当は見るからに痛々しかったが、小手先のバッティングを潔しとせず常にフルスイングで阪急投手陣に対峙した。4対4の同点で迎えた8回裏、土井垣を一塁に置いて往年の阪急のエース森から放った一撃は決勝の2ランとなり、派手な復活劇をファンの前で披露した。

 シーズン最終打率は‘328で、規定打席には52打席不足していたが、首位打者の青田が‘306だから、不足打席分出場したと仮定すれば52打数9安打、打率にして’173で青田を上回ることが出来る。 

 もし、怪我さえなければ首位打者の確率はかなり高かったはずだ。ちなみにメジャーリーグでは、規定打席に達していなくても、不足分の打席を全て凡退したと仮定し、その結果打率が第一位の場合は首位打者のタイトルが与えられることになっており、一九九六年のトニー・グウィン(パドレス)は4打席不足ながら、史上初めてこのルールの適用を受け、六度目の首位打者に輝いた。


 開幕以来別当人気に沸いたこのシーズンは、稀に見る新人豊作の年であった。中でもペナントを奪回した南海は柚木、笠原、木塚が揃って東西対抗に選出されるほど新人の活躍が際立っていた。19勝を挙げた柚木は新人王の制度があればほぼ当確といってもいい成績だったが、別当のライバルとして注目された笠原も‘296(ベストテン6位)と大健闘。新人ながら140試合にフル出場したうえ新人記録の160安打をマークしている。しかも二塁打40本というのは当時のプロ野球記録であり、今日でも新人選手でこれを破る者は現れていない。

 この笠原にしても年度のベストナインには選出されておらず、新人では別当と守備で魅せた木塚の二人だけであった。遊撃手で140試合にフル出場した木塚はともかく、全試合の3分の2(89試合)しか出場していない規定打席不足の別当が外野手のベストナインに選ばれたということは、それほど彼のバッティングのインパクトが衝撃的でプロ野球人気の向上に一役買っていることが評価された証であろう。

 別当の活躍はチーム内部にも大きな影響を与えている。その最たるものが藤村との確執であった。この時期はどこのチームでもそうだが、同じ新人でも大学出身者と旧制中学卒では俸給に大きな開きがあった。世間でも大卒が極めて珍しかった時代だけに、将来は球団の幹部候補という意図もあったのかもしれないにせよ、実力主義の世界においてこのような扱いは理不尽に感じる選手も少なからずいた。タイガース生え抜きの強打者として確固たる地位を築いたスター・プレーヤーの藤村もその一人であった。

 藤村は俸給面でも大きな不満を感じていたせいか、「大学出なんかに負けてたまるか」と日頃からよく口にしていたが、実はそれ以上に別当の底知れぬ実力に選手としての危機感を感じていた。

 元来中距離打者の藤村は23年度も3度目の打点王を獲得しているように、チャンスに強い典型的なクラッチヒッターである。ダウンスイング全盛の戦前であれば、これだけでもスーパースターの資質十分なのだが、ホームランブームの到来とともに、ホームランこそが野球の華と見なされるようになってくると、藤村のようなタイプは次第に地味な存在になっていった。

 あの川上までが打率3割を切ってでもホームランに固執したのはまさに時代の流れであった。もちろん藤村もホームラン狙いに切り替え、自己最多の13本をマークしたが、フル出場の藤村より200も打数が少ない別当も同数を記録しており、今後両者がベストコンディションで競い合った場合、天性の長距離打者である別当に分があるのは陽の目を見るより明らかであった。

 体格で劣る藤村は別当の34インチに対し、37インチのバットを使い、遠心力で打球を飛ばす打法に切り替えた。これによって初めてフルシーズンにわたってラビットボールを使用した昭和24年度のシーズンの藤村はプロ野球記録を大幅に塗り替える46ホーマーで念願の本塁打王に輝いている。対する別当は39本。この二人による本塁打王争いはシーズン終盤までシーソーゲームで、互いに競う気持ちが強すぎるあまり、どちらかがホームランを打ってもそれを称えあうようなシーンは一切見られなかった。

 チームメイトでありながら冷たい戦争さながらの状態が続く中、この過剰なまでのライバル意識がハイレベルの本塁打王争いを演出したこともまた事実である。このシーズンに二人が叩き出した計85本塁打は、60年の掛布・岡田コンビの75本塁打を遥かに凌ぎ、日本人の長距離砲コンビとしては球団史上最高記録である。ちなみに別当・藤村の計272打点も平成17年の今岡・金本に並ぶ球団記録となっている。

 ところが昭和25年、巨人の青田・川上を凌ぐ二大長距離砲を揃えた阪神ダイナマイト打線は突如解体の憂き目に会ってしまう。元凶は、二リーグ分裂に際してパ・リーグに誕生した新チーム毎日オリオンズの強引な引き抜きである。

 近年はそうでもないが、タイガースと言えば昔からシブチン球団で有名だった。監督兼エースの若林にしても、入団時こそ破格の条件だったが、戦後の俸給はその実績に報いているとは言い難く、金銭面で不満を持つ選手は多かった。新球団の毎日はまず監督兼選手として若林を勧誘し、その後は若林を通じて呉、本堂、土井垣といった主力級をごっそりと移籍させた。その中で最大の大物は別当であったが、別当は金の問題よりチーム内の確執に嫌気が差していたうえ、入団時に世話になった若林と行動を共にすることになった。

 根っからのタイガースファンで、「タイガースを辞める時はユニフォームを脱ぐ時だ」と言ってはばからなかった別当がわずか2年で移籍してしまったのだから、タイガースファンの怒りは想像がつこう。

 毎日は新球団の中で最もえげつのない引き抜き工作を弄したことでファンの非難を浴び、勝っても負けても猛烈なヤジに晒された。汚名返上の手段は唯一つ。「勝てば官軍」ではないが、勝ち続けてファン人気を獲得するしかない。

 かくしてかつてのタイガースの主力選手達の活躍もあって、毎日はパ・リーグ優勝のみならず初の日本シリーズまで制してしまう。中でもヤジの最大の標的であった別当の活躍ぶりは凄まじく、3割3分5厘、43本塁打、105打点で本塁打・打点の二冠王を獲得。打率は首位打者大下とわずか4厘差で、三冠王まであと一歩であった。しかし特筆すべきは日本球界初の3割30本30盗塁を達成していることであろう。

 奇しくも松竹の岩本もセ・リーグ第一号の達成者となっているが、40本30盗塁というのは日本プロ野球史上唯一の記録である。もちろんパ・リーグMVPは別当が手にしているが、日本シリーズでも24打数12安打の大活躍でシーズンと合わせてMVPをダブル受賞している。

 別当はその長打力もさることながら、走塁技術も超一流で、日本一を決めた日本シリーズ第六戦でも、平凡なサードゴロで二塁封殺されるところを、猛烈なスライディングで名手金山次郎を弾き飛ばして決勝点のお膳立てをしている。

 強肩・強打・俊足のオールマイティーぶりを発揮した別当の唯一の泣き所は外野守備であった。元々が投手で、プロでもローテーションの谷間に登板しているくらいだから、プロ入り当初の外野守備の拙さは明らかに経験不足からくるものだった。しかし、俊足と強肩を生かした外野守備はみるみるうち上達し、毎日に移籍した頃にはパ・リーグNo1の外野手になっていた。この辺は同じ投手出身の強打者で、若い頃は足も速かった大下弘が、外野守備は一向に上達せず、西鉄移籍後は一塁に回されたのとは好対照である。

 全米チーム来日のあおりで短縮シーズンとなった26年は本塁打こそ16本と減少したものの、3割9厘でベストテン4位とシャープなバッティングは健在だった。

 プロ入りが28歳と遅かったこともあって、長距離打者としての別当のピークは18本塁打を記録した27年頃(33歳のシーズン)までだったが、この年は40盗塁、監督兼任の29年も34盗塁と快脚ぶりは健在で、28年まで入団以来6年連続のベストナインに選ばれている。

 昭和32年に現役を引退し、オリオンズの監督業に専念することになったが、結果が出ずに2年で解任。その後も近鉄、大洋広島で監督を務めたが、20シーズン中、Aクラス入りを9度果たすも、監督としては一度もリーグ優勝を経験することはなかった。頭は切れるが、選手の好き嫌いが激しかったとも言われる。

 別当が肩入れした代表的な選手が長嶋を抜く465本塁打を放った土井正博である。近鉄監督時代に周囲の反対をものともせず18歳の土井正博を四番で起用し続けたが、結果として土井は20歳にしてパ・リーグ有数の長距離打者となり、別当の観察眼が正しかったことを自ら証明して見せた。

 土井の他にも大毎ミサイル打線の中核を担った山内、榎本、葛城を育てているように、別当は目先の結果が求められる監督よりも選手の潜在能力に働きかけるコーチ向きだった。

 選手生活十年で規定打席に達したシーズンはわずか四シーズン、監督としてのリーグ優勝経験もない別当が野球殿堂入りしているのは、選手時代のインパクトの強さと選手育成面での手腕を加味されてのことだろう。

 生涯成績 ’302 155本塁打 549打点 186盗塁 965安打

 

別当は毎日時代の方が長いが、当時のオリオンズのユニフォームは縦縞であり、背番号もタイガース時代と同じ25番だったのでぱっと見ではあまり違和感がなかったかもしれない。しかし、わずか二年間とはいえタイガース時代の印象は強烈なものがあったようで、私が知る監督、評論家時代の別当に対する認識が「元タイガースの別当」だったのは、TVなどで別当について語られる時にタイガース時代の話が多かったことによる。


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