向いてない
「15時20分...さっき確認してからまだ10分しかたってないのか。」
順平は時計を見た後、手元のパソコンに向かってため息をついた。
武蔵税務署の2階フロアでは、職員が忙しそうに働いている。この武蔵税務署が順平の職場だ。
税務署の仕事は様々あるが、メインの仕事は税務調査である。
国民が納めた税金が正しく計算され、正しく申告されているかを調査する。
つまり、「税金をごまかしていないか」を先方の会社に訪問して確認するのが仕事だ。
順平は税務署で働いて5年になる。
最初は不正を見つけることが楽しかった。
しかし、次第にこう思うようになった。
この仕事は自分には向いていないのではないか。
税務調査は国民が公平に税を負担するうえでとても重要な仕事だ。
しかし、税務調査を受ける側からするとたまったものではない。
順平が税務調査で会社を訪問した際に歓迎されたことは一度もない。
時には罵声を浴びせられることもあり、「お前には人間の心がないのか!」と言われた時はかなりへこんだ。
どうせ仕事をするのなら人に喜ばれる仕事がいいな。
順平はそんなことばかり考えていた。
また、法律への苦手意識が順平の気持ちをさらに後ろ向きにさせた。
税務署は税法に基づき国民に対して税金を賦課する。
買い物をした際にとられる10%の消費税も「消費税法」という法律に基づいてとられている。
法律というものはとても厄介だ。
100%明確な答えが書いてあるものもあるが、ほとんどの場合は様々な解釈ができる。
順平は法律を読み解き、理解するのが苦手だった。
税務署に採用されて3年経過すると7か月の長期研修に参加する。
その研修では、税法についての講義を聞くいわゆる座学もあるが、グループに分かれて法律の解釈について討論するという内容が研修全体の三分の一を占める。
順平はその討論でついに一度も発言できなかった。
発言できない順平はだんだん空気のような存在になっていった。
それは研修が終わった後の職場でも同じだった。
後ろ向きな気持ちで取り組んでいると、当然仕事の成果は出せない。
研修から戻ってきた当初は「きみは金の卵だ!」などと調子のいいことを言っていた上司も、だんだん順平に仕事を頼まなくなっていった。
「15時30分...さっき確認してからまだ10分しかたってないのか。」
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長い勤務時間から解放され、会社の最寄り駅に着くと、改札横の壁に寄りかかりスマートフォンを操作していた女性と目が合った。
「早かったね。」
そう言うと、女性はこちらに足早に駆け寄ってきた。
女性の名前はヒナという。
マッチングアプリで知り合い、2週間前に付き合うこととなった。
お互い勤務先の最寄り駅が同じだったため、時間が合えばこうして駅で待ち合わせをして会っていた。
「そりゃ少しでも早く会社を出たいからね。」
順平が皮肉混じりに笑うと、ヒナも笑ってくれた。
こんな何気ない話にも笑ってくれる。順平はヒナのそんなところが好きだった。
会社帰りのデートは駅近くのココスと決まっていた。
席に案内され注文を済ませると、順平が話を切り出した。
「今日は仕事どうだった?」
ヒナは大手企業で経理の仕事をしていた。
昨日、会社の人間関係に困っているという話をしていたため、そのことが気になっていた。
「相変わらずだよ。」
ヒナが苦笑した。
ヒナの話によると、先日社内異動があり上司が変わったそうだ。
その上司は部下に対してとても厳しい態度をとるのだという。
「いるだけで部屋の空気が悪くなる...上司に会うことを考えると憂鬱だよ。」
こういう場合、女性はただ話を聞いてもらい共感を求めていることが多い。
だが、順平は大好きなヒナの悩みを本気で解決したいと考えていた。
「それは困ったね。」
順平は考えていた。最近異動してきた上司がすぐにいなくなることはないし、かといってヒナに転職を勧めるのは安易な気がする。
離れることが難しいならうまく付き合うしかない。
...そうだ!
「何か、人間関係のヒントになるような本を読んでみたらどうかな。」
「本?」
ヒナは怪訝そうな顔で順平を見つめる。
なぜ順平が唐突に読書を勧めたかというと、順平には本を読むことで悩みを解決できた成功体験があったからだ。
もともと順平は本を読むという行為が大嫌いだった。
本を読んでも内容が頭に入ってこなかったのだ。
小学生の夏休みに課せられる読書感想文。
このときばかりは本を読まなければならない。
毎日10ページずつ...などと決めノルマのようにページを消化していたため、
読書嫌いは一層深まっていった。
そんな順平が本を読むようになったのは2年前のことで、当時付き合っていた彼女に振られたことがきっかけだった。
順平は当時から仕事に対して後ろ向きだったこともあり、彼女に依存していた。
LINE電話がなかった当時、通話料が定額でカップルの必需品となっていた携帯電話「ウイルコム」を購入し、夜な夜な彼女に電話をかけた。
毎日電話をかけてくる順平に彼女は嫌気がさしたのかもしれない。
付き合って半年、珍しく彼女の方からかかってきた電話は別れの電話だった。
仕事もうまくいっていない状況で彼女も失った順平は、自分には何もなくなってしまったような感覚になった。
そんな時にふと立ち寄った本屋で運命の本と出合った。
今となっては、題名も内容も覚えていないが、その本は順平を前向きな気持ちにさせてくれた。
それからというもの、読書が順平のライフワークになっていた。
「そうそう!もしかしたら悩みを解決するヒントになるかもしれない」
順平は興奮気味に言った。
ヒナの悩みを解決したい一心で本気で解決策を考え、提案した。
きっとヒナも喜んでくれるだろうと思った。
しかし、ヒナからは期待と正反対の言葉が返ってきた。
「わたし、本読むの苦手なんだよ。眠くなっちゃうの。」
順平は返す言葉が見当たらなかった。
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ヒナとの食事を終え、順平はひとり帰りの電車に揺られていた。
「苦手か...」
順平はショックを受けていた。
それは自分が一生懸命考えた解決策を一蹴されたからではない。
本を読むことの素晴らしさや、本を読むことで自分の世界が無限大に広がっていくことを順平は経験していた。
そんな報酬があるというのに、本を読むことを苦手と言って頭から拒絶されたことがショックだったし、もったいないと感じていた。
そもそも順平も最初から本を読むことが好きだったわけではない。
本を読むことが好きになって、読んだ本の冊数が増えるたびにスムーズに読めるようになる感覚があった。
日本人は日本語を読む、書く、話すことについて、それができることは当然で、できないことは苦手と安易に考えてしまうように思う。
日本語を読む、書く、話すといった、日本人なら当然できるだろうことも、うまく行うためには訓練や経験が必要だと順平は思う。
訓練して、経験を積んで初めてできるようになる。
苦手という考えはそこから目を背ける言い訳だ。
「苦手は言い訳か...?」
一瞬時間が止まったように目線が一転を見つめ、頭がクリアになる感覚があった。
「税務調査はどうだろう。」
ふいにヒナにとっての読書と順平にとっての税務調査が同じもののように感じた。
「向いてない」と思った税務調査は実は順平にとって「苦手なこと」なのではないだろうか。
向いてないという言葉は適性がないということである。
すなわち努力ではどうにもならない、先天的なミスマッチである。
それに対して苦手という言葉は、うまくできない、不得意のことである。
これについては努力次第で克服できる可能性があるのではないだろうか。
順平は調査や法律の解釈が「苦手」であるにもかかわらず、努力して克服できる可能性から目を背け、
「向いていない」というあたかも努力してもどうにもならない先天的なミスマッチを連想させる言葉で自分を甘やかしてきたのかもしれない。
もちろん、苦手に対してとるべき選択肢は努力して克服することだけではない。
逃げることやうまく付き合うことも当然の選択肢だと思う。
努力することのハードルの高さとその先にある報酬を比べた上で答えを出せばいい。
でも...
苦手と向き合っていたヒナと比べて、自分はそもそも向き合うことをしていなかった。
ヒナを心の中で責めたことが恥ずかしくなった。
自宅の最寄り駅に電車が着く。
「もう家着いた?」
ヒナにメッセージを送る。
順平の彼女依存はもうしばらく続きそうだ。
いつもと同じ帰り道。
だが今日は少し違っていた。
改札を出た順平は、家に帰る道とは逆方向へ迷わず歩き出した。
その視線の先にある本屋に向かって、足取り軽く駆け出して行った。
初めて投稿しました。
読んでいただけると嬉しいです。




