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その夜、プディヤは眠れずに窓の外を見ていた。
山の端に潤んだ月がかかる、明るい夜だった。
プディヤの房は、川へと落ち込む斜面に建つ〈北の大屋根〉の最前面の棟の二階にあるので、窓からは、川に沿って広がる村の全景が見下ろせる。この季節、氏族の聖木である銀蝶樹が村中のそこここで蝶の形の白い花を咲き誇らせているのが、月光の下、その名のとおり銀の蝶をびっしりと止まらせているかのように淡く明るんで見えた。
その甘い芳香が、微かな風に乗ってふわりと鼻に届いたが、プディヤの心は慰まなかった。
従兄の衣は、〈大屋根〉の当主である祖母の検分を経て、餞の贈り物の数々とともに、すでに彼のもとに届けられているはずだ。
それを着て、従兄は明日、あの山へ行く。
月明かりに浮かぶ山並みを見上げ、プディヤは、峰に棲む炎龍鳥の、鋭い鋸歯がずらりと並ぶ嘴や、硬い鱗に覆われた太い脚の先の巨大な鉤爪を思い浮かべた。
炎龍鳥狩りは、儀式とはいえ危険な狩りであることに変わりはなく、まれには失敗したり、大きな怪我をするものもいる。炎龍鳥自体が危険なだけでなく、その住処が険しい峰の断崖絶壁の上にあることが多いため、足を滑らせて転落することもあるのだ。
過去には、そのときの怪我がもとで不自由な身体となり、そのまま生家の若者部屋に留まって一生を終えた男もいると聞く。
――もしそうなれば、兄さまはずっとここにいてくれる――!
一瞬、そんな希望が胸に閃いたが、すぐに萎んで消えた。
――でも、そうしたら兄さまは、パドゥハと夫婦になれないのだ。どんなに辛いことだろう。ふたりはあんなに想い合っているのに。それに、もしもこの狩りで、兄さまが、失敗したり怪我をするだけでなく、命を落としてしまったら……?
足場の悪い狭い岩棚で巨大な鳥と対峙する従兄の姿が、プディヤの脳裏に浮かぶ。
弓矢を構えた彼に、覆いかぶさるように翼を広げて襲いかかる巨鳥。その鉤爪が、彼の衣の中で呪力の守護が不完全なただ一箇所をたまたま正確に貫いて肌を切り裂き、鮮血が飛び散る。思わずひるんで体勢を崩したユウアムの身体は人形のように宙に投げ出され、断崖をまっさかさまに落ちてゆく――
プディヤは口に手を当て、悲鳴をのみこんだ。小さな胸が激しく脈打つ。
――ユウアム兄さま!
プディヤは手燭を掴んで房を飛び出した。
幾つもの棟が軒を重なり合わせるように寄りそって形作る〈大屋根〉の、迷路のように接続された渡り廊下を足早に幾度も曲がり、木製の梯子段を昇り降りして、独身の若者たちが暮らす大部屋にプディヤは辿り着く。灯火をかざして見渡す室内にユウアムの姿はなく、健やかな寝息をたてる若者たちの間でひとりだけ身を起こし、窓の月明かりを頼りに山刀の手入れをしていた男が顔を上げ、皓い歯を見せて破顔した。
「やあ、ちび姫さん。こんな時間に血相変えて、どうしたんだい?」
「ノイ兄さま。ユウアム兄さまは?」
「ああ。もう廟に行ったよ」
炎龍鳥狩りに臨む若者は、前夜、戦装束を整えて〈大屋根〉の裏手にある先祖の廟に独りで詣でるのだ。その前にと急いだが、間に合わなかったらしい。
プディヤは急いで礼を言って引き返すと、戸口を走り出て、夜の奥庭を突っ切った。
下界では夏も近い季節だが、高地の村の夜風は冷たい。手燭の柄を握りしめるプディヤの細い指先は心もとなく冷えてゆく。
先祖の廟は奥庭のさらに奥、山へと続く登り斜面に広がる、花盛りの銀蝶樹の森にある。一面に散り敷く白い落花を小さな沓で無造作に踏みつけて小径を急げば、幻のような音をたてて降りしきる花の向こう、廟の前に立つ後ろ姿が振り向いた。
「兄さま!」
まろぶように駆け寄るプディヤに、真新しい戦装束を纏ったユウアムは目を丸くした。
「プディヤ?」
「兄さま、お願い。その刺繍を、やりなおさせて!」
「……今、ここでかい?」
ユウアムはあっけにとられてプディヤを見下ろす。
「そう。ここがいいの」
この場所にみなぎる銀色の力の輝きを、プディヤは感じていた。