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『覆面作家企画8』(お題:『手』)参加作品に加筆修正したものです。
心を澄ませて己の内側を見つめれば、一本の銀蝶樹の木が見えてくる。
それは、現し世と祖霊たちの世界を繋ぐ聖なる樹木。その根を伝って一族の記憶の地層深く降りてゆけば、なつかしい薄闇の底、呪力の輝きを湛えた命の泉にたどりつく。
泉のほとりに群れ集う無数の銀の蝶たちは、祖先たちの魂であり、呪力の運び手であり、象られた祈りだ。
己の裡なる泉のほとりに、プディヤはひとり、座っている。まだ幼いその手に、刺繍針を持って。
プディヤの小さな手が闇にひらめけば、五色の糸が軽やかに中空を飛び交う。刻々と位置を変え、ときに弛み、ときに張りつめ、せわしなく絡みあってはまた離れ、複雑な幾何学文様を描き出してゆく。
その糸に、水辺から飛び立った蝶たちが戯れかかりまとわりついて、鱗粉を浴びた糸は銀の輝きを帯びてゆく。うつつの目には見えないその輝きは、祖先たちの守護の証し。神聖な呪力を込めたその糸で布の上に描き出される吉祥文様が、狩りや戦に赴く大切な男の身を護るのだ。
――ユウアム兄さま……。
プディヤは、美々しい戦装束をまとった従兄の晴れ姿を、うっとりと思い描いた。
弓のようにしなやかな長身、曇りなく明るい眸、日に焼けた肌に皓い歯が映える闊達な笑顔――ああ、まるで神話の中の英雄のよう!
そう、私の兄さまは、誰よりも立派な勇士。きっと何匹もの炎龍鳥を狩ってくる……。
高嶺に棲む炎龍鳥は、広げた片翼の端から端が人の背丈を優に超える巨大で凶暴な鳥だ。しばしば家畜を攫い、ときに人も襲う。
その炎龍鳥に、彼は明日、単身で立ち向かう。ただひとりの女のために。〈西の大屋根〉の、美しいパドゥハのために――
「……っ!」
指先にちくりと痛みを感じて、プディヤは息をのんだ。
温かな闇も群れ飛ぶ蝶も、中空で燐光を放つ描きかけの文様も瞬時に掻き消え、プディヤは、晩春の斜陽が淡く射し込む自分の小房の、窓辺の椅子に座っているのだった。
膝の上に広げた藍染の上衣には、先祖の加護を表す吉祥文様が隙間なくびっしりと刺繍されて、最後の一画を残すのみとなっている。
完成を目前にしてほんの一瞬心に生じたかすかな乱れがプディヤの手元を狂わせ、滑った針が指先を刺したのだ。
細い指の先に、小さな赤い玉が、たちまちぷっくりと盛り上がる。
――兄さまの晴れ着を汚してはいけない。
プディヤは慌てて指先を口に含んだ。
このきらびやかな戦装束は、敬愛する従兄の婚礼衣装でもあるのだ。
炎龍鳥狩りは、結婚適齢期を迎えた青年たちの通過儀礼であり、求婚の儀式の一部である。炎龍鳥を単独で狩ってきてはじめて、意中の娘に正式に求婚する資格を認められるのだ。
危険な儀式に挑む青年たちの無事を祈って、血縁の娘たちは、その血筋の呪力を刺繍に込めた新しい上衣を贈る。一枚の衣をみなで分担して、一面に精緻な刺繍を施すのだ。
この、〈糸の姉妹〉の仕事に、プディヤは今回、初めて加えてもらった。本来ならまだ少し早いけれど、ユウアムはプディヤを幼いころから特に可愛がり、プディヤも彼に特に懐いていたから、その糸にはきっと強い想いの力が宿るだろう――という理由で。
だからプディヤは張り切って、ひと刺しひと刺し心をこめて針を進めてきたのだ。それなのに――。
プディヤは己を慚じて、悄然とうつむいた。
ちいさな赤い唇で指先の血玉を吸う。
指先の小さな痛みが、ふと、まだ刺繍を習いはじめたばかりの幼いころ、やはりこんなふうに指に針を刺したことがあったのを思い出させた。そのとき、たまたま居合わせたユウアムが「どれ」と手を取って、プディヤの指を口に含んでくれたのだ。
頬が、かっと熱くなるのがわかった。
思わず強く指を吸えば、血の味が口の中に広がった。
――この血で、私と兄さまは繋がっている――
神聖な血縁の絆が、ふいに呪いのように思えた。
炎龍鳥狩りの儀式を終えたら、ユウアムは、〈西の大屋根〉のパドゥハのものになる。自ら狩った炎龍鳥の羽根をパドゥハに贈って、堂々とその愛を求める。炎の色のその羽根が、パドゥハの婚礼衣装を飾る。
パドゥハはユウアムと同い年で、とても綺麗だ。背の高さもユウアムとよく釣り合って、並んで立つと、まるで絵のよう。
パドゥハのことも、プディヤは好きだ。パドゥハの属する〈西の大屋根〉はプディヤの属する〈北の大屋根〉のすぐ隣で、優しいパドゥハは小さなプディヤをよく可愛がってくれていたのだ。
大好きな従兄が、遠くの村にではなく近くの〈大屋根〉に婿入りするのは、プディヤにとって幸運なことだ。山間の谷にへばりつく狭い村で、プディヤはこれからも、きっと、朝な夕なに彼と行きあうだろう。たとえば畑への行き帰りに、たとえば広場での集まりで、美しいパドゥハと笑い合う彼の姿を見るだろう――
プディヤは我知らず唇を噛んで、膝の上の布に目を落とした。
ほんの少し針目が乱れたのは、ちょうど上から別の色の糸を重ねることで隠れてしまう箇所で、そのまま続けても見た目上の出来上がりは変わらないはずだ。そして、もしもその場所の護りの呪力がほんの少しだけ手薄になっているとしても、そこはたとえば心臓の上などの重要な箇所ではなく、ほんの隅の方の一画で、だからこそ子どものプディヤに任されたのだ。
それに、従兄は本物の戦に征くわけではなく、村の男の誰もが経験するお決まりの儀式に臨むだけだ。プディヤのささやかな手抜きが彼の命に関わることなど、ないはずだ。
ただ、これを刺したときに、彼の無事と幸せを祈る自分の心が一瞬揺れ、呪力の流れが途絶えたのを自分だけが知っている――それだけのこと。
――でも、だからどうだというの。兄さまはパドゥハとの幸せを手に入れるのだもの、それで充分ではなくて?
プディヤは唇を固く引き結んで、ふたたび針を取った。わずかな針目の乱れをそのままに、上から覆いかぶせるように続きを刺してゆく。
刺し終えた箇所をじっと見つめて、プディヤは針を置いた。