第3話 緩衝
ザフィーラが彼に「アシル」との名を与えて月が一巡りしたころ。
いつものようにザフィーラが彼の部屋を訪問すると、アシルは珍しく絨毯の上で居住まいを正して座り、ザフィーラに言う。
「このままでは心苦しいので、仕事をしたいと思うんだ」
アシルの言った「仕事」という言葉を頭の中で反芻し、ザフィーラは思わず身を乗りだす。
「必要ないわ」
そこで自分とアシルの距離に気づいた。姿勢を戻してから詰めてしまったほんの少しの距離を嫌々ながら広げる。侍女さえいなければ近づいたままでもいいのだが、未だに彼女たちはザフィーラとアシルが会うときに良い顔をしない。
「仕事なんてしなくても、アシルは何の気兼ねもなくここにいていいの。私が保護している以上は誰にも文句なんて言わせないもの」
「ありがとう。ザフィーラには感謝をしてもしきれないと、いつも思っているよ」
柔らかく微笑むアシルからは感謝が大いに伝わって来た。しかし続けて「だけど」と言う彼は少し自身の雰囲気を変えたように思う。
「温情に甘えて何もしないまま過ごすわけにはいかないんだ」
「どうして? 欲しいものでもあるの? だったら私に言ってちょうだい、用意させるから」
「そういうわけではないんだよ、ザフィーラ。幸いにして私の体に悪いところはないようだし、読み書きもできる。トゥプラクに関しての知識はまだ最低限のものしかないけれど、これから少しずつ覚えていくよ。だから、どんなに小さくてもいい。私は私に出来ることをしたいんだ」
緑の瞳に浮かぶ光は強い。何も言い返せなくなるザフィーラだが、アシルがどうして急にそんなことを言いだしたのか分からないし、そもそもザフィーラはアシルが働かなくて良いと思っているのだから承諾はできない。
ひとまず保留ということにして自室へ戻ったものの、ザフィーラのモヤモヤとした気分はいつまでたっても晴れなかった。
(……このままでいてくれて構わないのに、なんで? 何が嫌なの? どこが駄目なの?)
捉えどころのない感情を抱えているせいで、勉強のための本を開いているのに少しも頭に入ってこない。ため息を吐いて立ち上がり、ザフィーラはお茶でも淹れてもらおうと侍女を呼ぼうとしたのだが、カーテンの向こうから当の侍女たちの密やかな声が耳に届いて口を閉じる。
「あの男、意外にまともそうだったわね。このままダラダラ過ごした挙句ザフィーラ様に手を出すんじゃないかってヒヤヒヤしたけど、心配はなさそうかしら?」
「あら、まだ分からないわよ。いざ働きだしたらヒモの方がいいって思うかもしれないから、切り落としてやる準備は怠らないようにしなきゃ」
くすくすと笑い合う声を聞きながら、侍女たちがアシルを妙に警戒している理由が分かった気がする。カッとなったザフィーラは侍女たちを怒鳴りつけてやろうと思ったのだが、しかし足を一歩踏み出したところでふと思いなおす。
(……でも、アシルが『働きたい』って言ったのは侍女たちにとって好印象だったってことよね? だったら……)
ザフィーラはお茶をもらうのを止め、何食わぬ顔で侍女を呼んだ。ナーディヤのところへ行くことにしたのだ。
例え執務中であっても重要な会議や訪問者との面会がない限り、姉はザフィーラの訪問を拒まない。インクの匂いのする部屋でザフィーラを迎え入れてくれたナーディヤは、やはり今回も、
「少し休憩しようか」
と、家臣たちに告げる。
頭を下げる家臣たちが退出したところで、ナーディヤは漆黒の瞳をザフィーラに向けた。
「で、急にどうしたの、ザフィーラ?」
「実はお姉様にご相談があって。あのね、アシルの仕事を探したいの」
「それはザフィーラの考え?」
「違うわ。部屋を訪ねたら、アシルが急に言い出したの。『このままでは心苦しいから、仕事をしたい』って」
「……へえ……あの男の方からねえ……」
やはりザフィーラの考えは当たった。ナーディヤも感心したような表情を見せたのだ。
だけど、理由までは分からない。
「お姉様はアシルが働くのに賛成?」
「そうだね。いいと思う」
「でも、まだ早くはない? あの人がトゥプラクにきてからだと月が一巡りするくらいの時間しか経っていないのよ?」
「本人ができるっていうのなら大丈夫だと思うよ。こういうのは時機を見て行動しないとグズグズしてしまいがちだからね。……うん、そうか、その辺りはアシルも考えていたんだな」
呟くナーディヤはアシルの気持ちが理解できているようだ。
彼と通じ合ったように見える姉が悔しくてザフィーラは膝の上へ視線を落とし、ぎゅっと拳を握る。その拳をナーディヤが軽く撫でた。
「ザフィーラの言うことも分かるよ、もしかしたら彼も無理をしているかもしれないからね。そこはザフィーラがちゃんと見ていてあげなさい」
「私が?」
「そう。アシルの後見をしているのはザフィーラなんだろう? アシルのことを信じて任せて、だけど助けを必要としている様子があったら手を差し伸べてあげるんだ。できるね?」
「――うん!」
ようやくザフィーラは分かった。
ザフィーラはアシルの「働きたい」という気持ちが嫌だったのではない。
働き始めた彼が遠くへ行ってしまうようで寂しかったのだ。
働きだしたアシルは他の人と交流する時間が増える。ザフィーラとの時間は減ってしまうだろう。しかしアシルのためにはどちらが良いのかは周囲の様子を見る限り明白だ。ならばザフィーラは彼の意見を尊重した方がいい。
それに、アシルが働き始めたとしてもザフィーラがアシルの後見であることに変わりはない。彼との縁が切れるわけではないのだ。
「お姉様の仰るとおりだわ。助言をありがとう」
ザフィーラ一人ではきっと気づけなかったが、ナーディヤのおかげでようやく思い至った。視野の広さは、さすがトゥプラク六万の民の頂点に立つ女王だけある、と改めて姉を尊敬の眼差しで見つめたとき、お茶を淹れて戻って来たナーディヤの侍女がくすりと笑う。
「女王陛下もそのように出来たらよろしいのですけれどねえ」
「え?」
「お忘れですか? 陛下はザフィーラ様のことになると、急に視野が狭くおなりでしょう?」
「あ……」
この年配の侍女はナーディヤが赤子の頃から仕えているそうだ。おかげで女王に対しているというのにあまり遠慮がない。
「特にザフィーラ様が“女神の祠”へ行った日のことは忘れられませんよ。朝からお仕事はちっとも手につかないご様子でしたし、ご帰還予定の時刻をほんのちょっと過ぎた途端、それは真っ青なお顔でインク壺を」
「も、もういいだろう、その話は!」
赤くなったナーディヤが鳥のようにばたばたと手を振ったので、顔を見合わせたザフィーラと侍女は声をあげて笑った。
確かに“女神の祠”へ行くための儀式を許可してもらえなかったときは悔しかったし、涙を流した日だって両手の数ではとても足らない。
だけどそのおかげであの日、ザフィーラはアシルに出会えた。
すべてはナーディヤのおかげで良い方向に回った。もしかしたらこれも女神の導きかもしれない。少なくとも今のザフィーラにはそう思えて仕方がなかった。