第2話 決定
部屋の明かりを消したザフィーラは窓を開ける。女性のたしなみでもあるベールはもう外してあるので、夜の風は青い髪を直接なでていく。涼しく様変わりした風は、昼間に熱気を孕んでいたものと同じだとはまるで思えない。
「不思議よね……」
「何が不思議なんですか?」
後ろから声をかけてきたのは侍女のベルナだ。侍女の中で最も年の若いベルナはザフィーラと同じ年齢で、しかもザフィーラととても気が合う。それもあってザフィーラはベルナのことを友人のように思っていた。
「うーんとね、風も、空も、昼と夜では全然違うから不思議よねって。だってほら、こんなに涼しいし、こんなに暗いのよ」
「そうですね。ですからもうお休みになりませんと、明日の朝起きられなくなりますよ」
「わあ、待って、待って!」
窓枠に手を掛けるベルナの手をザフィーラは慌てて押さえる。
「あとちょっと! あとちょっとだけ星を見ていたいの! ね? ベルナ、お願い!」
「……仕方ありませんね。あと少しだけですよ」
ベルナは自身の腕にかけていた上着をザフィーラの肩に羽織らせてくれた。ザフィーラが「まだ星を見たい」とねだるのだと最初から分かっていたのだ。
「ありがとう、ベルナ! 大好き!」
「光栄でございます、王女殿下」
畏まった言い方で儀礼用のかっちりとした礼をしてみせたあと、ベルナは顔を上げていつものように親しげな笑みを浮かべて窓の脇に立つ。
「お風邪を召されないうちに窓を閉めてくださいね」
「……ベルナも、そこにいるの?」
「おります」
「そう……」
横に立つベルナの返事を聞いたザフィーラは改めて絨毯の上に座り直す。横目でチラリと窺うと、ベルナは油断なく窓の外を見つめており、腰の剣もいつでも抜けるような体勢を取っていた。
唇を引き結び、ザフィーラは近くのクッションを抱える。
ベルナが剣を佩いているのは護衛を兼ねているため。ベルナだけではない。ザフィーラの侍女は全員が剣を扱える。
そして最近の侍女たちがいつも以上にピリピリとした空気を纏いはじめたのは、男性が一人、王宮にやってきてからだった。
突然現れた王家の客分にトゥプラクの人々は驚きを隠せなかったようだが、彼が砂魔物の犠牲者だと知ると皆が同情の目を向けた。中にはザフィーラにも同じような視線を送る人もいて、それはおそらく先王の第二夫人におくる悼みだったのだろう。
ただ、ザフィーラの侍女たちの態度は他の人々と少し違った。ザフィーラのことを最も優先して考えるよう指示されている侍女たちは、主が得体のしれない人物と共にあるのを良しとしないようだ。その裏にはナーディヤの意思も働いているはずだと思うと、ザフィーラは残念でならなかった。
(あの人は怪しい人じゃないわ。砂魔物に襲われた可哀想な人よ)
ザフィーラの母は砂魔物のせいで記憶を失った。母の傷跡と彼の首にあった傷跡はそっくりだ。それに医師も砂魔物の仕業で間違いないと判断したのだから、そんなに警戒しないでほしいと思う。
(侍女たちもお姉様も、あの人と仲良くしてほしいもの。……やっぱり、私がなんとかしなきゃ!)
眉間に力を入れたザフィーラは両手で頬を叩く。力はほとんど入っていない割に音は思いのほかよく響いた。
「ど、どうなさったんですか、ザフィーラ様?」
「なんでもないの。ちょっと気合を入れなおしただけよ」
そうですか、というベルナの困惑の声を聞きながらザフィーラは一つ、うなずく。
(まずは絶対に名前が必要よね。名前のない相手に親しみなんて湧かないもの!)
彼に「名前を考えている」と言ったのは嘘ではない。彼を王宮へ連れて来たその日からずっと、ザフィーラは良い名前を探していた。
真っ先に探したのは水や大地に関連した名前だ。「ザフィーラ」は水の女神の名前で「ナーディヤ」は大地の女神の名前なのだから、できれば類似の名前にしたい。
この数日で候補は絞ってあり、響きや書いた文字の具合も含めての最終的な判断をしているところなのだが、実を言えばどれもしっくりこないのが目下の悩みだった。
(……あの人に似合う名前……これからずっと、呼ぶかもしれない名前……)
ううん、と小さくうなったザフィーラは抱えていたクッションを窓枠に置くと、そこに頬杖をついて空を見上げる。
ザフィーラは星を眺めるのが好きだ。こうして数多の星々を見ていると、ある瞬間にふっと空へ吸い込まれていくような気がする。そうして自分も星となって空を揺蕩いながら、地上のものたちを淡い光で優しく包んで眠らせる。そんな空想をすることがあった。
それに夜空にはザフィーラの好きな星がある。
いや、ザフィーラだけではない。きっと多くの者があの星を好きだと言うだろう。
北の空でひときわ大きく明るく輝く導きの星、『アシル』。
雲に隠れてさえいなければアシルは必ず見える。月が消える日でも空に在り続けるアシルは、砂漠を行くものたちに方角を教えてくれる大切な星だ。
神話によればアシルは人を未来へと導く神であり、砂漠を行くものたちの守り手でもある。おかげで大地の女神ナーディヤや水の女神ザフィーラ同様、とても人気があり――。
ザフィーラは息をのんだ。
(……これだわ!)
弾かれたようにして立ち上がり、ザフィーラは部屋の扉へ向けて走ろうとした。しかしその前に立ちはだかった者がいる。
「どちらへ行かれるのですか?」
ベルナだ。
「お姉様のところよ。お話したいことができたの」
「いけません。ザフィーラ様はもうお休みになる時間です」
「でもね、少しだけ。少しだけでいいから見逃して。ね? ベルナ?」
「駄目です」
外を見ることは許してもらえても外へ出ることは許してもらえなかった。
押し問答はあっという間に終わり、ザフィーラはベルナに寝台へ連れていかれる。
仕方なく瞼を閉じたものの、興奮でほとんど寝付けない。無駄にごろごろと寝返りだけを打ちながら朝を迎え、ザフィーラは小走りでナーディヤの部屋へ向かう。
ナーディヤはいつもザフィーラと一緒に朝食を摂る。今日はいつもより早く来たので食事はまだ準備中だったが、ナーディヤは既に身支度を終えて床のクッションにもたれかかっていた。
その横で両手と両膝を床につき、ザフィーラは朝の挨拶もそこそこにナーディヤの顔を覗き込む。
「お姉様、聞いて! 私、あの人の名前を思いついたわ! アシルというの!」
彼の名前をようやく見つけた。
地上のものばかりに気を取られて気が付かなかったが、相応しい名は空にこそあったのだ。
(あの人は予兆よ。私をどこかへ導く者、そんな気がするもの!)
これ以上はない名だとザフィーラは思ったのだが、しかしナーディヤの抱いた感想は違ったようだ。目を丸くしてザフィーラを見つめた後、姉は小さく笑う。
「導きの星とは、ずいぶんと大層な名前だね」
「……変?」
ザフィーラが思わず口を尖らせると、ナーディヤは慌てて首を横に振る。
「いやいや、変じゃないよ。ただ、記憶を失くして導かれる立場の彼が『導きの星』という名をもらうのは、少し変わってるな、と思ったんだ」
「そうかしら。名づけは本来なら何も知らない赤ちゃんにするものよ。『アシル』という赤ちゃんだっているのだから、記憶を失くした人につけたってちっともおかしくないわ」
「……ああ、言われてみれば」
今度こそとても優しい笑みを浮かべ、ナーディヤはベール越しにザフィーラの頭を撫でる。
「確かにザフィーラの方に理があるな。笑ってごめん。……アシル、か。うん、とても良い名だね」
「本当?」
「もちろん」
「良かった! お姉様、大好き!」
抱きついた姉からはいつものようにインクの匂いがした。朝食の前だというのに、ナーディヤは既に仕事をしていたらしい。
「あとね、あの人って自分の年齢も分からなくなっているでしょう? 私から見たらあの人はお姉様と同じくらいの年齢に見えるから、年齢はお姉様と同じってことにしようと思うの。どう?」
「うーん……それはちょっと困るなあ……」
「困るの?」
「困る、というか……」
ナーディヤは眉尻を下げて笑う。
「なんていうかね。……庇護する相手は、できたら年下であってほしいなって……」
「お姉様ったら!」
ザフィーラは吹き出す。
こうしてザフィーラが十三歳の今、ナーディヤが十八歳で、アシルは十七歳だと決まった。