第1話 不明
ザフィーラが祠で記憶喪失の男性を保護してから十日ばかりが経った。
何も思い出せない彼に代わってザフィーラやナーディヤ、それにナーディヤが呼んだ識者たちは彼の扱いについての議論を重ねていた。
最初に行ったのは彼の荷物の調査だ。しかしこれはすぐに終わった。何しろ彼が所持していたのは空っぽの水袋程度で、財布はおろか手ぬぐい一つ持っていなかったのだ。
「物盗りにでもあったのかしら」
「あるいはどこかに落ちているかもしれないね」
そこで荷物を捜索するための人を砂漠に派遣したり、商隊にそれらしい荷物を見なかったかどうか確認したが、彼の荷物を見たものは誰もいなかった。
彼のユシュ鳥にも荷物は何もなかったので、他の手がかりは彼が着ていたものだ。
トゥプラクを含めたこのオアシス都市国家群では、庶民であろうと、身分ある者であろうと、だいたい同じものを着ている。
男性は頭にターバンを巻き、前開きのガウンと、幅広のズボンを着用する。ただ、身分によってカフタンの長さやシャルワールの幅には差がある。身分の高い者ほどカフタンの裾は長く、シャルワールの幅は広めだ。この辺りは財産の差もあるが、動きやすさを重視しているかどうかも関わっている。
一方で女性たちは身分にかかわらず全員がベールを着用し、女性用の丈の長いカフタンを着る。ただしこのカフタンも男性同様に身分で差があり、庶民が着るものは細めで簡素な袖、身分ある女性は幅広で豪華な袖となっていた。やはりこれも財産と、動きやすさに重点を置いた結果だ。そしてシャルワールは男性のものよりずっと細いので、女性は一見するとカフタンしか着ていないように見えるのだった。
いずれも身分が高いものほど布が豪華になるのは、財力の差でもある。
祠で保護した彼が着ていたのはオアシス都市国家でよく見られるカフタンとシャルワールだ。長さや幅、それに布の材質から判断すると中流よりは少し上の身分だろうと思われる。ただ、他のことがよく分からない。本来ならそれぞれの都市国家ごとによく用いられる特徴的な柄というものがあるのだが、彼の着ていたものにはそれが見当たらないのだ。
果たしてどこの国のものなのか。識者たちが持てる知識を戦わせたので議論は侃々諤々の様相を呈したが、女王ナーディヤの、
「だったら該当しそうな都市国家へ片端から連絡をすればいい」
との一言で、ようやく今日になって決着がついた。
そもそも彼の容姿、褐色の肌、金の髪、緑の瞳はどれをとっても珍しくないので、今の段階では故郷を特定できる情報がほぼ無いということになる。
「あの人、きっとがっかりするわよね……」
例の男性が滞在する部屋として用意されたのは王宮内ではあるが、ザフィーラたち王族が住む場所からは少し離れている。その彼の部屋へ向かうためにザフィーラはとぼとぼと歩く。「彼を保護して後見になったのは自分なのだから、話を伝えるのも自分の役目だ」と言い張ったのは他ならぬザフィーラ自身なのだが、やはり暗い話を伝えるのは気が重い。
王宮はあちこちにオアシスから引き込まれた水で川や噴水が作られていたり、季節の花が咲いていたりと、人々の目を楽しませるような工夫がなされている。普段のザフィーラなら歓声を上げて近寄ったりするところだが、残念ながら今は周りを見回す余裕もなかった。
床のタイルだけを見ながら彼の部屋へ到着したザフィーラは、侍女たちに囲まれたまま彼に結果だけを伝える。彼はさぞや落ち込むだろうと思ったが、意に反してあっけらかんとしていた。それどころか、
「そこまで清々しいほど何もないのなら、もしかしたら私は家出をしたか、あるいは家族に捨てられたのかもしれないね」
などと言って笑う。その笑顔はザフィーラの心をふわふわとさせる。できればずっと見ていたい、と考えながら、
「だけどこのままじゃ、あなたは困るでしょう?」
と言うと、彼は「そうかな」と答えた。
「私は別に困らないよ。知らないことはザフィーラたちが教えてくれるだろう? それにまだほんの短い間だけれど、私はトゥプラクの人々や空気がとても好きになったんだ」
言って彼はふと、遠くを見る目つきをする。
「もしかすると私の故郷はトゥプラクだったのかもしれない。そんな風に思うときもあるんだよ……」
彼の緑の瞳には、何かを得たときの満足感と同時に、幻を抱いたときの空虚感が潜んでいるような気がした。
あの祠にいたときのように手を取ってあげたいが、ここはもうトゥプラクだ。未婚の男女が頻繁に顔を合わせている現状でも侍女たちから渋い顔をされているというのに、触れ合うなどとてもできない。
それでザフィーラはいつものように握りこぶし五個分の距離を保ったまま微笑んでみせる。
「あなたさえ良ければ、本当にトゥプラクを故郷にするのはどうかしら」
口調は冗談めかしているが、ザフィーラは本気だ。果たしてどのような返事が戻るだろう。胸を高鳴らせながら待っていると、彼は視線を下げる。
「そうだね」
彼は静かに言い、
「そうできたら、いいね」
と、呟く。
彼の顔には影が見えた。建物の陰になっているから、という理由では片付けられないほどに濃い影が。
それは祠で目覚めた彼が最初に見せた苦悩と悲哀に似ている気がする。こんなに近くにいる彼が途端にとても遠い存在に感じられて、ザフィーラはきゅっと唇を噛んだ。
(どうして、そんな顔をするの?)
心の隅で何かが引っ掛かったが、小さく首を振ったザフィーラはそれを無理やり押しこめる。
(……口ではなんと言っていても、やっぱり故郷に帰りたいのよね)
そう結論付けたザフィーラは、彼に何か良い話をしてあげたくなる。
「でも、大丈夫。お姉様は識者たちが挙げたすべての都市国家に連絡すると仰ったもの。きっとあなたの故郷も見つかるわ。それに、私も……ええと、そう。あなたのお名前を頑張って考えているの。素敵な名前を選ぶから、もう少し待ってて」
「ありがとう。ザフィーラならきっと良い名を考えてくれると信じているよ」
顔を上げた彼は微笑を浮かべていた。つられて微笑み、ザフィーラは肩から力を抜いた。
彼の部屋からの帰り道は、行きが噓だったかのように足取りも軽かった。