第5話 交差
「マドレー王国の第四王子様」
ザフィーラのいつもと違う呼びかけを、彼はいつも通りの態度で受け止める。
「その記憶があったっていうことは、砂魔物には食われてないのでしょう。首筋にあったあれは砂魔物の噛み跡じゃなかったってこと?」
「そうだ。砂魔物の噛み跡に見えるよう傷と刺青を施した」
傷と刺青、とザフィーラは心の中で繰り返した。
砂魔物の噛み跡だと思い込んでしまったため、刺青なのだとはこれっぽっちも気が付かなかった。そもそも医師も同じ判定を下したのだからずいぶんと見事な刺青だ。
「最初にあの場所で倒れてたのも偶然じゃないのね」
「トゥプラクの子が十歳になると女神の祠に行くというのは聞いていたからね。誰か来てくれたらいいと思ったが、まさか王女が来てくれるとは思わなかったよ」
「そうね。よりにもよって、私がお前を引き入れてしまった。……メティンとも会いやすくなって、さぞや嬉しかったでしょうね」
返事はなかった。
彼とメティンが共にいる姿は見たことがないが、きっと秘密裏に会っていたのだろう。ザフィーラがアシルと二人きりでいたことがあるように。
「あのとき誰も来なかったらどうするつもりだったの」
「その仮定は必要ないな。現に私はここにいる」
ザフィーラは思わず拳を握る。
「とにかくお前は、最初から誰かを騙すつもりでいたってことね」
「そういうことになるかな」
「人々の好意を逆手に取るなんてすごいわね、この恥知らず」
悪意のこもったザフィーラの揶揄にも彼は眉一つ動かさなかった。悔しくてザフィーラは更に言い募る。
「お前はマドレーの人間なのよね。その褐色の肌はどうしたの? もしかしたらそれも刺青なのかしら?」
「肌の色はもともとだよ。私の亡き母は、砂漠の民だった」
「そう。では、自分の息子が砂漠でしでかしたことを知ったらさぞや嘆かれるでしょうね」
「私はマドレーの王族として生まれた。マドレーのために働くのが私の役目だ。誰に嘆かれようと、誰に恨まれようと、私は私の行動が正しかったと信じている」
揺らぐことのない緑の瞳を見たザフィーラは、ため息まじりに「ああ」と呟き、負けた、と思った。
この男はすごい。きちんとした信念のもとに自らの道を選び、それを貫き通している。同じ王族だというのに、本当にザフィーラとはなんという差だろうか。
悔しくて顔が歪む。でもそんな顔を見せたくなくてザフィーラは顔を背ける。静かになった廟の中で、次に話しだしたのは彼の方だ。
「私の母は、ここよりもずっと海に近い都市国家の王女だった。攻め落とされたあとに恭順を示すためマドレーに送られて父王の側妃になり、私を産んだ。周囲の人々に砂漠の話をすることはなかったけれど、私にだけは聞かせてくれたものだ。――どこまでも続く砂の大地。照り付ける日差し。美しい夜空。暑い空気を追いやるオアシスの爽やかな風と、冷たい水の美味しさ。何度も聞いているうちに、私は不思議と自分が砂漠にいるような気分になった。私の故郷は砂漠の国なのではないかと思うときさえあった……」
ザフィーラはハッとした。今しがたの悔しさも忘れて思わず彼の方を向くと、揺らめく緑の瞳がザフィーラをとらえている。その輝きはザフィーラが知るものと同じ。
砂漠の祠で会ったときから何度も感じていたあの不思議な感覚が体を包む。互いこそが互いの理解者であるという、あの感覚。
そしてザフィーラは理解した。
(この人は、私と似てるのね)
異邦の血を持って生まれたがために、自身が異質である感覚が常に付きまとう。受け入れてくれる人たちに申し訳なさを覚えながらも遠くへの憧れを持ち、いつかはと望んでしまう。その、孤独と罪悪感。
もしも違う形で出会えていたなら、ザフィーラと彼は仲良くなれたのかもしれない。
同じ気持ちを抱えた仲間として、親しく付き合えたのかもしれない。
しかし彼は自国のために滅私することで憧憬を捨て、己の立つ場所をしっかりと選んだ。その犠牲になったのはナーディヤ。トゥプラクの人たち。そして、アシル。
(……だから私とこの人は、相容れられない)
ザフィーラは唇を噛み、再び彼を睨みつける。
覚悟を新たにしたのだとは彼にも伝わったのだろう。わずかに目を閉じてもう一度瞼をあけた彼の瞳からは、また感情が見えなくなった。
「さて。そろそろ行かないと門が閉まる」
言葉の内容は独り言のようだったが、ゆっくりと出口へ顔を向ける彼の様子はどことなくザフィーラに問いかけているように思えた。
彼と並んで歩くつもりはない。
後から追いつかれるのもごめんだ。
ザフィーラは脇へ一歩寄り、答える。
「お前が先に行きなさい」
彼は素直に歩き出した。ザフィーラは顔を下向ける。耳飾りが小さな音を立てた。
横を通り過ぎるときの彼からは、アシルと同じ軽やかな香りがした。
「待って」
背後で足音が止まる。
床のタイルを見ながら、ザフィーラは押し出すように口にした。
「本当の名前は、何」
「セレスティノ。――セレスティノ・レジェス・デ・ラローチャ」
「……セレスティノ」
耳慣れない異国のその名は、確かに彼が砂漠の民ではないことを示していた。
「……全部、お前のせいよ。卑怯者」
背中越しの呼吸はまったく乱れない。彼はやはり淡々と、
「そうかもしれない」
と返してきた。そうして一歩踏み出し、なぜか動きを止めた彼は、小さな、ごく小さな声で言う。
「……私を助けなければ、よかったね」
不意を突かれてザフィーラは息をのんだ。
廟の中に再び足音が響く。
それはやがて扉を開く音に繋がり、土を踏む音に代わり、少しずつ遠ざかって行った。
ザフィーラの耳の奥で、彼の声が繰り返す。
――私を助けなければ、よかったね。
この声にだけは何か感情が滲んでいたが、それがどんなものだったか考える余裕はザフィーラにはない。
胸の奥で怒りが渦巻いて止めようがなかった。だけどあの男に向けるものではない。自分に向けるものだ。
(……助けなければ?)
しかしザフィーラは助けてしまった。
だから本当は彼のせいではない。分かっている。全部、ザフィーラのせいだ。
分かっていても、今度のザフィーラの目から涙は流れなかった。
泣いたときに抱きしめてくれる優しい腕はこの地上のどこにもない。誰にもすがることはできない。これからのザフィーラは一人だけで立って進まねばならず、自分の後始末は自分だけでする必要がある。それを理解してしまったから。
深く息を吸って、ザフィーラは廟の奥へ顔を向ける。ナーディヤの墓所がある方をもう一度見つめてから背を向け、出口へ進んだ。
先ほど一瞬だけ感じた軽やかな香りは、廟の中に濃く漂う香りにかき消されてもう残っていなかった。




