第1話 嘆き
海の向こうでは国同士の対立が起きている。
といっても表立って何かしているわけではない。三十年ほど前に結ばれた和平の条約により、各国は武力でぶつかり合うことなく平穏に過ごしている。
ただし、水面下では別だ。それぞれの国は互いに互いを牽制をしながら、いずれ来るかもしれない争いの日に向けて少しずつ準備をしていた。
戦には人が必要で、物資が必要で、そして資金が必要だ。
各国は資金の調達のために海へ出て、山へ行き、砂漠にも乗り出した。
そんな中で、ある国は砂漠へ来た。目的は交易だ。しかし大きさの割にうま味のあるオアシスの都市国家を目にして考えが変わる。ここを攻め落として属国にするか、あるいは同盟を組んで上納を得たのならもっと美味しくなるのではないか、と。
こうして『マドレー王国』は本格的にオアシス都市の攻略に乗り出すことになった。
マドレーは森に囲まれた平地の国だ。砂漠の攻略は不慣れだったが、本国からの物資で押すことにより海の近くの都市国家をいくつか陥落させた。年数をかけて少しずつ砂漠における知識や情報を広げていったマドレーは、やがて砂漠の奥地にある都市国家群にも目を向け始める。
各都市国家の規模と、「少しばかり手出しをした際の対応」とを見ながらどの都市国家から攻略すべきか検討していたところ、マドレーにとって思いがけないことがおきた。
都市国家の一つ『トゥプラク』の王族から連絡が来たのだ。
極秘裏に使者を派遣したところ、先王の弟だというメティンはこう言った。
「私がトゥプラクの王位に就きましたなら、以降はマドレーに上納金をお納めいたします。ですからどうか、現女王の排除にお力添えを」
都市攻略のための兵や物資を砂漠へ多く送るのは大変だが、内乱に力添えをするのであれば攻略ほど兵は必要にならないし、手引きがあるのならばもっと楽だ。
「よって我がマドレーはメティン殿を支持すると決め、力を貸した」
吟遊詩人の姿をしていた男――ホセ・オルタは、血に濡れた大広間で今回の経緯をザフィーラにそう説明した。
大広間の中にメティンとアシルの姿は既になかった。
マドレーによる決行の日を王妹ザフィーラの十六歳の誕生日としたのはメティンの指示。この大事な日なら女王側は宴に気を取られて意外なところで隙ができるだろうとメティンは言い、実際にその通りになった。
しかもその数日前までの二か月間、ナーディヤはトゥプラクを空けていた。これも計画の成功を大きく後押ししてくれたのだとホセは語った。
「おかげで人員も物資も運びやすくなった」
海の向こうの国々に対して策を練るために開かれた会合が、海の向こうの国の侵攻を許すのに貢献してしまった。この運命の皮肉をザフィーラはどう表現してよいのか分からない。
会合が無ければ。
あるいは、会合のすぐ後にザフィーラの誕生日がなければ。
――いや、どちらも違う。
ナーディヤがいなくとも、トゥプラクにはザフィーラがいた。留守を預かるザフィーラがもっとしっかり目を光らせていればトゥプラクの異変に気付けた。メティンの怪しい行動にも対処できたはずだった。
(ごめんなさい……ごめんなさい……)
浴場で侍女たちに血のりを落としてもらいながら心の中で何度も呟く一方で、体が綺麗になるにつれてザフィーラはこれは夢なのではないかと思いたくなる。
すべては悪い夢で、目が覚めたら布団の中。そうしてこれから誕生日の朝を迎えるのではないかと。
しかし体が綺麗になっても王宮はそうはいかない。
廊下を歩くたびに届く、オアシスからの風でさえ払えない血の臭いがザフィーラに現実を突きつける。
起きたことは夢ではなく現実だ。
ならばザフィーラにはすぐしなくてはならないことがある。
(お姉様の体を取り戻さなくては)
死んだ者たちはなるべく早く埋めないと悲惨なことになる。
しかしナーディヤが命を落とした一連の背景を考えると、遺体は簡単に返してもらえないだろう。
だが、いざとなれば持てるどんな手段を使ってでも返してもらう。例えこの身を差し出そうとも。
ザフィーラはそう覚悟を決めたのだが、しかしザフィーラが訴えるよりもずっと早く、清められたナーディヤの体はザフィーラのもとに届けられた。
「どうか、ナーディヤ様をお願いいたします」
そう言って頭を下げたのはナーディヤの侍女たちだ。血に濡れたナーディヤを綺麗にし、化粧を施して、死出の衣装を着せてくれたのはきっと彼女たちだろう。おかげで月の光に照らされるナーディヤは、穏やかに眠っているだけのように見える。
「お姉様は明日の朝、埋葬するわ。必ずよ」
もしかすると罠かもしれないと思ったが、それでも構わなかった。花に囲まれた棺の横でザフィーラが力強く言うと、ナーディヤの侍女たちはもう一度深く頭を下げて退出しようとする。その背にザフィーラは声をかけた。
「あなたたちも、来る?」
年かさの侍女が振り返った。いつも身ぎれいにしていた彼女だが、今は髪は乱れ、化粧も剥げており、普段よりずっと老けて見える。しかし声だけはきっぱりとした調子で彼女は告げた。
「いいえ。私どもは参りません」
その真意をザフィーラが知るのは翌朝になってからだった。
「ナーディヤ様の侍女が全員、自決しておりました」
自身の侍女がむせび泣きながら伝えて来た言葉を、ザフィーラは意外だとは思わなかった。
ナーディヤの侍女たちは皆、神々の世界へ旅立ったナーディヤを追って行ったのだ。再びナーディヤに仕えるために。
こんなにも慕われている女王をみすみす殺し、優秀な人材まで失ってしまった。
心の中で渦巻くこの気持ちは、ザフィーラが知るどの言語のどの言葉でも表せそうにない。