第4話 真紅
血しぶきが上がり、視界が赤く染まる。
ザフィーラの唇から、ああ、と小さな声が漏れた。
最初に思ったのは、どうして痛みを感じないのだろうということだった。
ザフィーラは血に濡れている。その温かさは分かるのに、どこも痛くない。
景色が再び元の早さで流れ行く。
そうして気が付いた。
この血は、ザフィーラのものではない。
「……おねえ、さま?」
ナーディヤがザフィーラを抱きしめていた。その両腕を離し、振り向きざま男を切り払う。
「お姉様!」
今日のナーディヤは赤い衣装を着ていた。祝いの場に相応しい華やかな色だ。
その赤がより鮮烈になっているのはなぜだろう。衣が重たげに肌に張り付いているのはどういうことだろう。
大きく揺れた姉の背にザフィーラは腕を回す。途端に腕がぬるりとした。
「お姉様?」
だらりと下がるナーディヤの手もザフィーラの背に回った。ザフィーラの背後で剣が落ちる気配があった。
ナーディヤはザフィーラに半ば体重を預ける形で立っている。できれば自分だけで立って欲しい。背の高いナーディヤを支えるのはザフィーラには少し難しい。
「お姉様、お姉様。しっかりして。早くここから逃げなきゃいけないわ」
しかし姉は足を動かさない。ザフィーラの腕はぬるりと滑り、うまく姉を抱えられない。ナーディヤの背に何かあるのだろうか。軽く腕をあげたザフィーラは、自身の手から、腕から、滴る赤い色を見る。
(これは……? いったい、どこから……?)
眼前の光景はあまりにも現実離れしすぎている。ザフィーラが呆然としていると、ナーディヤがわずかに体を離した。
「ザフィーラ……けがは? どこも痛くない……?」
「ない……ないわ。お、お姉様こそ平気なの?」
ナーディヤは問いかけに答えず、ただ「よかった」と言っていつもの優しい笑みを浮かべる。
「……わたしの、ことは、いいから……いきなさい、ザフィーラ……」
そうして微笑んだまま、ナーディヤの黒い瞳から光が失われた。
「お姉様?」
鈍い音を立ててナーディヤが床に倒れこんだ。絨毯が見る間に赤く染まって行く。
「……お、お姉様……?」
ザフィーラは真っ赤な泉に膝をついた。着ていた紫の衣装が赤く染めあげられる。
「……駄目よ、立って。早く、早く逃げるの……」
辺りがどうなっているのかはもう分からないが、まだ危険は迫っているはずだ。
床にかがむザフィーラはナーディヤを抱えあげようとする。しかしうまくいかない。
「お願い、起きて、お姉様」
しかしナーディヤはだらりと弛緩したまま、ザフィーラの方へ顔を向けようともしない。
もしかするとナーディヤは、今朝のことをまだ怒っていたのだろうか。
不貞腐れた上に我が儘で振り回す妹に呆れているから、この土壇場で無視をしているのだろうか。
「お姉様、私が悪かったわ! 謝るからお願い! 起きて、起きてよ、お姉様!」
濡れる腕でナーディヤを抱き、ザフィーラは立とうとして取り落とす。また床に屈み、また落として。そのたびにザフィーラの体も赤く赤く染まっていく。
「お姉様、起きて……お姉様が立ってくれないと、私も、立てないの……」
だが、本当はザフィーラにだって分かっている。
倒れ込んだままのナーディヤは、何度呼んでも、何をしても、もう二度と、立ち上がらない。
真っ赤な床。真っ赤な衣装。真っ赤なナーディヤ。
掲げたザフィーラの手も、腕も、真っ赤に染まっている。
ザフィーラの思考から一切のことが抜け落ちた。アシルのことさえ頭になかった。
「おねえさまあああ……ああああああ!」
雄叫びを上げたザフィーラは目についた姉の剣を拾って立ち上がり、近くの男に突撃する。
剣の練習をしたことはない。振り方さえ知らない。男には切っ先すら届かないまま斬り捨てられるだろうとザフィーラは覚悟した。
しかし予想に反して男は一瞬怯み、その隙をついてザフィーラの初撃は男の手を薄く裂く。ただ、ザフィーラにできたのはそこまでだった。気を取り直したらしい男に柄で手首を打たれ、剣を取り落とし、あっという間に取り押さえられてしまう。
「ザフィーラ様!」
ベルナの叫びが聞こえるが、腕が捻りあげられているザフィーラは動けない。
今度こそ自分の命は消えるだろう。分かっていても怒りで占められた心に恐怖の入る余地はなかった。
しかし、いつまで待っても“そのとき”は訪れなかった。代わりに舌打ちでもするかのような調子で、太い声が吐き捨てる。
「おとなしくしてろ。命が惜しければな。……お前は殺されない。まったく、運が良かったな」
どういうことだ、とザフィーラは思った。
この大広間で多くの命を奪ったくせに、なぜ例外を作ろうとするのか。
しかし「なぜ」の気持ちを抱いているのはザフィーラだけではないようだ。周囲からは口々に「どういうことだ」「予定と違う」との戸惑いの声が聞こえる。
男がわずかに手の力を緩めたので少し動けるようになったザフィーラは、首を巡らせて大広間の中央へ視線を移す。
そこにいるのは件の吟遊詩人だ。どうやらあの男が指示を出しているらしいが、彼も数名の男に詰め寄られながらいかにも「不本意だ」と言いたげな顔をしている。
そしてもう一人。吟遊詩人の横に立つ者を見てザフィーラは呼吸を忘れた。
「お前たちの言うことは尤もだが、今は疑問を持たずにただ聞け!」
声を張り上げた吟遊詩人は傍らの人物を示す。
「とにかく、今後の我々はこの方の指揮のもとで動くことになった。命令はまた新たに下されるので、それまでは勝手なふるまいをするんじゃない! 良いな!」
吟遊詩人が「この方」と呼んだ人物。
それは、ザフィーラが「アシル」と呼んでいたあの青年だった。