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第9話 暗澹

 ザフィーラの部屋にナーディヤが来たのは、夕食が終わってからだった。

 アシルはどうしたのかと尋ねると、ナーディヤは、


「姉妹だけでどうぞ、だって」


 と言って微笑む。姉のその表情に今まで見られなかった艶があって、ザフィーラの胸の奥はまた騒めく。


 今回、ナーディヤたちが行ったのはトゥプラクからは思いのほか離れた場所だった。文化の少し違うその地だけでなく、道中に立ち寄ったオアシス都市の話もきっと興味深いものだったに違いない。

 だけどアシルとナーディヤの間に何があったのかを考えてばかりのザフィーラは気もそぞろで、ふと我に返ったとき部屋の中にはザフィーラと、侍女たちと、大量の土産物と、甘い残り香だけしかなかった。


「お姉様は?」

「とうにご退出なされたではありませんか」


 呆れが混ざる声で答えた初老の侍女に、ザフィーラは重ねて問う。


「どちらへ行かれたの?」

「さあ。仰ってはおられませんでしたが、この時間ですからね。ご自身のお部屋でしょう」


(ご自身のお部屋……)


 今までならザフィーラもそれを疑うことはなかった。

 でも、いつもとはどこか違う姉の化粧、香水、そして表情。


(本当に、お部屋にお帰りになったの?)


 ザフィーラはいてもたってもいられなくなって立ち上がった。床に置かれたクッションと、茶器と、たくさんの土産物の片づけを侍女たちに頼み、皆がそちらへ気を取られている隙にそっと夜の廊下へ出る。

 今日のザフィーラは髪に合わせて深い青の服を着ていた。この色で良かったと思う。華やかな色なら、夜陰に紛れようとしてもきっと目立ってしまっていた。


(この時間なら、アシルは自室にいるはずよ)


 回廊の天井や壁にはアラベスク模様のタイルが飾られていてとても美しい。その華やかな回廊の暗い部分だけを選び、ザフィーラは走った。走りながらアシルの自室に近づいて、ザフィーラはふと何かの香りを嗅いだような気がした。

 深い深い甘さの、大人びた、官能的な香り。


 この香りには覚えがある。そう思ったのと、アシルの部屋が見えたのとは同時だった。そうしてザフィーラは回廊の太い柱にぴたりと身を着けることになる。


 アシルの部屋の前には誰かがいた。あれは。


(……お姉様?)


 後ろ姿でも見間違えるはずはない。侍女も護衛もつけず、一人で立っているあの女性はナーディヤだ。


(いったい、何をしているの? 何をするつもりなの?)


 柱からそっと顔を出し、様子を窺う。やがて扉が開いて光がこぼれ、部屋の中からアシルが姿を見せた。背を向けているナーディヤがどんな表情をしているのかは分からないが、アシルの顔にあるのは優しい優しい笑みだ。ナーディヤはその彼に向かって一歩踏み出し、アシルは両手を広げた。


 ふと、アシルが顔を上げたように思う。その視線の先はザフィーラに向けられているような気がしたが、双方の視線が絡む前にナーディヤがアシルの腕におさまった。遠目であっても分かる。あの距離は、拳が五つも入らない。

 それでアシルの視線はナーディヤのものになる。アシルは素早く扉を閉め、辺りは暗がりと静寂に包まれた。


 気が付くと、ザフィーラの脛や膝が冷たい。何があったのだろうと思ったザフィーラは、回廊の石畳が思いのほか近くにあることに気づく。


(……あら? 私ったら、床に座り込んでしまったのね)


 昼の日差しも柔らかめなこの時期は、夜の気温が意外に下がる。早く立たなくては冷えて風邪をひいてしまうかもしれないと分かっているのに、ザフィーラの足は萎えてしまって力が入らない。

 それでも、立たなければ。ここはアシルの部屋の近くだ。誰かに見られて、こんなところで何をしているのかと問われてしまったら――。


(こんなところで、何を?)


 ザフィーラは、くす、と笑う。


(本当に。何をしているのかしら。――お姉様と。アシルは)


 一つの部屋で。未婚の男女が。


 そう。二人は未婚だ。別に互いに決まった相手がいるわけではない。

 慣習として未婚の男女があまり近づきすぎるのは眉を顰められる。この慣習は家長制度が強かった時代の名残だ。家の思惑で子どもを結婚させたいとき差し障りが生じないようにするためにできたもので、昔はもっと厳格だったと聞く。

 今ではこの慣習も少しずつ緩んできていて、互いに好意を抱く者同士なら人目を忍んで逢瀬を繰り返すことがある、とはザフィーラだって知っている話だ。

 そもそもナーディヤは二十一歳。トゥプラクの国主になってからの日々が忙しくて自身のことはおざなりにしていたようだが、本来なら恋人どころか子どもがいたっておかしくない年齢なのだ。


 そして、アシル。記憶のないアシルは年齢が分からない。

 ザフィーラにとってアシルはどう見ても年上だから一つ二つの違いは関係ない。だからナーディヤが最初に「庇護したい相手だから、自分の一つ下」と決めたときにも異論はなかったし、アシルもその決定を受け入れ、ナーディヤに対しては自身の庇護者として尊敬を敬意をもって接していたように思う。


 だけど今日、ナーディヤとアシルが互いに対して向ける表情は今までと違っていた。庇護する者とされる者の雰囲気ではなかった。あれは、もしかしたら。


 ザフィーラは渾身の力を振り絞り、石の柵にすがって立つ。


(侍女が探してるかもしれないわ。部屋に帰らなきゃ)


 外に面している回廊は屋根と手摺しかないので、風が吹くたびに肌寒くて仕方ない。

 近くには暖かい部屋があるけれど、そこにザフィーラは入れない。


 ――だって、ザフィーラは選ばれなかったのだから。


 冷たい石の手摺にすがりながら、ザフィーラは暗い回廊を黙って進んだ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] お姉様とアシルさんが帰ってきたけれど、これは全然嬉しくない……(;´・ω・) ザフィーラさんの初恋キラキラがとっても眩しくて純粋で応援したくなっていたので、余計に辛い。 アシルさんは秘密の…
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