無効にはならなかった
「やぁアレス、元気してる?」
にこやかな微笑みを浮かべてやって来たのはワイアットだった。
ミルクティーみたいな色合いの髪に、ザクロみたいな色合いの目の、一見すると好青年に見える男。それがワイアットである。普段からにこにこと笑みを絶やさず実際人当たりはいい方だ、と思われる。ただその人当たりの良さは極一部にしか発揮されていないようではあるが。
別のクラスのワイアットがわざわざアレスの所へやって来た事で、ワイアットが教室に足を踏み入れた途端周囲にいた生徒たちが、ある者は肩を跳ねさせたりある者は「ひっ」という悲鳴を飲み込んだりしていたが、ワイアットはそれらの反応の一切を無視してアレスの元へ進んでいく。
一方のアレスはというとうんざりとした表情を隠しもせずワイアットを見ていた。
やや長めの銀髪を根元で結び、青紫の瞳、その左側には片眼鏡が装着されている。制服をかっちりと着込んでいるのを見ると、実際はどうであれとても優等生然として見えた。
それなりに整った顔立ちをしているからか、うげぇ、と言い出しそうな顔をしていてもそうは見えず、どころか怜悧な雰囲気すら漂って見えた。
明らかに歓迎していません、と態度に出ているけれどワイアットは気にした様子もなくアレスが座っている席へと近づいて――バン、と小さな音がして足を止める形になった。
「ふぅん? 案外元気そうだね。何よりだよ」
目に見えない透明な壁がそこにある、とでも言うようにワイアットはそこに手を置いた。何もなさそうな空間ではあるが、確かにそこにはアレスを守るように透明な障壁が展開されている。恐らくはこちらが教室に踏み込んだ時点で発動させたのだろうな、とワイアットはあたりをつけ、障壁に触れている手に力をこめる。
ピキピキ、という音がして目に見えないはずの障壁に亀裂が走り、そこでようやく周囲も障壁があるのだと視覚で認識したが直後にはバリン、という音を立てて障壁が崩壊した。
「マジかよ障壁素手で壊したぞあいつ……ひっ!?」
クラスの端の方にいた生徒が震える声で言った言葉に、ワイアットがちらと視線を向けて見せれば生徒はあからさまに引きつった悲鳴を上げた。
「手首の調子は平気? 後遺症とか残ってたりしない? あ、案外大丈夫そうだね。うんうん、あの時はちょっと雑にやっちゃったからもしかして……なんて思ってたけど杞憂なようで何よりだ」
「何の用ですか。生憎忙しいので手短にお願いします」
「つれないなぁ……用っていうか、なんだかんだ無事に帰って来たみたいだったからさ、様子見に来たんだ。あんな目に遭わされてそれでもまだこの学院にいられる程度にメンタルは図太いとはいえ、もしかしたら虚勢の可能性もあるだろ? もしそうなら可哀そうだからトドメを刺しておこうかなって」
「そうですか、生憎と虚勢でもなんでもないので余計なお節介ですね」
「そう? オードは死んだみたいだし、仮にも友人が死んだんだからさ。もしかしたら、とか思ったのにな」
オードの名が出た時点で一瞬だけアレスの目元がぴくりと引きつったように動いたが、すぐに平静を保つ。この男の言葉に乗せられてはいけない。そう内心で強く言い聞かせる。
「そういえばさ、次の狩りに参加する予定はあるかい?」
「生憎と」
「なんだ残念。雑魚はとっとと処分して、強くなりそうなのだけ見逃して選定する作業とはいえ、中々に楽しいのに」
「貴方の場合見込みがありそうなのもその場で殺すでしょう」
「否定はできないかな。楽しくなってくるとどうしても歯止めがきかなくなってくるんだよね」
「楽しく……ですか」
「うん。人を殺すのはとても楽しいよ。弱者を嬲り殺すのも、強者とどっちが死ぬかのギリギリの戦いをするのもどっちもね。殺していい機会があるなら見逃す手はないでしょ」
ふふ、ととても穏やかな笑みを浮かべて言うが、内容は全然穏やかではない。
アレスとしてはこいつイカれてんな……という目でもってワイアットを見ているのだが、そんな視線を向けられてもワイアットの表情は変わる事がない。
「前回の狩りではあまり有力そうなのがいなくてさ。ガッカリだったんだけど。でもまぁ、新入生限定だから、仕方ないのかなって。でも次は違う。次は学園外での狩りだ。誰と当たるかはわからないけど、ちょっとは楽しめる……といいなぁ。
本当に参加しないのかい?」
「しません。下手に向こうにこちらの手の内を悟らせるつもりもありません」
「慎重派だね。そういうトコすごくイライラする。
実力はあるのに、なんでそんな弱気っていうかやる気がないのかな。ね、自分にとっての獲物くらいはさ、見定めておくべきだと思うんだよね。いずれ正式な場で戦うかもしれない相手の事、何も知らないとか有り得ないでしょ」
穏やかに微笑んでいたはずの表情がいつの間にか明らかにアレスを見下すように歪んでいる。
ワイアットの中でアレスはそれなりに認めてもいい、と思える程度には実力があるらしいのだが、しかしだからといって彼と一緒にじゃあ殺戮しましょうね♪ とはなるはずがない。
そもそもこの男、味方相手であっても機会があれば殺そうとするような奴だ。そんなのと仲良くするとか命がいくつあっても足りやしない。
この男と仲良くできる相手など、それこそこの男と同じような考え方だとか価値観を持っていなければ無理に違いない。
まぁ、そんなんだから現状他に一緒に行動しようという奇特な人物はいないのだが。この人次の神前試合に選ばれたとして、そしたら一人だけで参加する事になるんだろうか……などと思い始める。
かつて、魔王側ではたった一人で参加してこちら側全員見事に倒してみせた、なんて人の話もあるけれどこの人もそういうの目指してるんだろうか……と思わず遠い目をしてしまう。
いや、それはないか。
魔王側はさておき、勇者側は基本的に仲間を連れての参加だ。
かつてこの世界で行われた勇者と魔王の戦いの再現、なんて言われているが実際はどうだか知らない。ただ、物語の中の勇者と魔王になぞらえるのであれば、勇者側に仲間が必須であると言われればわからなくもないのだ。魔王の側にも側近だとかはいるだろうけれど、話によっては魔王一人である事もある。だからこそ、魔王側は場合によっては仲間がいなくとも問題ないとされていた。
とはいえ、圧倒的な実力者などそう現れないので向こうも基本的に仲間を連れての参加であるが。
「……貴方の目に適う相手はいたんですか?」
このままだとこちらに面倒なとばっちりがやってきそうだな、と思ったのでアレスは何の気なしに質問してみた。あからさますぎる程に話題を変えたら逆に面倒な事になりそうだが、これくらいの話題であれば無視されないだろうと思っての事だ。
「んーや? いたかな……寮の前陣取って安全地帯に早く帰りたい、みたいなの始末してったけど、皆弱かったしなぁ……あ、でも隠れてこっちの様子窺って、勝ち目がなさそうだと思ったのか逃げてったのもいたな。いいよね、ああいう自分とこっちの実力判断して行動できる奴。逃げた先で死んでるかもしれないけど、生きてたら……次はもうちょっと成長してるかもしれないわけだし」
次会ったら殺すんだ、とかいつ言い出してもおかしくないようなアレスに向けていた歪んだ表情が一転し蕩けるように笑う。この人の情緒どうなってんだ……と思いながらもアレスはそうですか、と頷くだけにしておいた。とっとと帰ってくんないかな。切実に思うのはこれである。
「そっちは? 狩りにも参加しないなら、向こうでいい獲物がいるとかないよね。それとも既に知ってるから行く必要がない、とか?」
「生憎とあの学園に知り合いはいませんよ」
嘘だ。
一応知り合いと呼べる人物はいる。
この男のせいで放り込まれた館の中で遭遇した学園の生徒。
とはいえ、彼はあくまでも知り合いであって獲物だと思ったりはしていない。意識を失ってから目が覚めた直後にそりゃあちょっと戦うしかないか……なんて思ったりもしたけれど、話が通じる事が発覚したのであれば無理に戦う必要もなかった。
正直、今ここで話をしているこの男よりも話が通じそうというか会話が弾みそうですらある。
片や人の手首切り落として強制的にリングを奪い武装解除した上でやべぇ館に放り込む男。
片や人のハンカチ踏んづけて汚してしまった事を謝罪する男。
前者が勇者となるべくこの学院にいる、というのがとても不思議に思えてくる。いやこれ絶対配置ミスってるだろ……多分十人に聞いたら十人が肯定してくれると思う。
魔王側の学園であるなら一人だけで神前試合の参加も可能なわけだし、それこそこの男にとっては打ってつけではなかろうか。そう思ったからこそ。
「そういやなんで貴方こっちの学院に来たんですか。学園の方が良かったのでは?」
その疑問がするっと口から出てしまっていた。
「あー……向こう知り合いいるからさ……」
「知り合い」
「そ。顔見知り程度だけど、顔と名前をお互い把握してる程度には知り合い。それで同じ学園にってなったらさ、何かの折に関わる事になるかもじゃん? 下手したら協力し合わないといけなかったりするかもじゃん?
冗談じゃないんだよね」
「腐れ縁か何かで?」
「どうだろ……あのお姫様と一緒ってだけで足引っ張られるの確定してそうなのが凄くイヤ、ってだけで腐れ縁とは違う気がするんだよな……」
「お姫様?」
「あ、そう呼んでるだけで実際のお姫様じゃないよ。そもそも男だし。そう強くないから脅威とは思ってないんだけどさ、同じ立ち位置にいるよりは敵対しておいた方が始末できる機会ってあると思うんだよね」
「そうですか……」
突っ込みたい部分はあれど、多分無駄だろうなと判断して相槌だけにとどめておく。
男なのにお姫様呼ばわりされてるこの男の知り合いってどんなだろう、とかお前と比べたら多分大抵の人物はそう強くない、の括りに入るだろうだとか、始末するつもりなのか、だとか。
まぁ言いたいことはそれなりにある。
「ま、ルシアくんの事はどうでもいいよ。あいつが神前試合に選ばれるような事ないだろうし。まぁ、でも? 元老院から面白い情報聞いたんだけどさ、あの学園に魔王ウェインストレーゼの血族がいるらしいんだよね。ルシアくんはきっとそいつ狙うだろうけど……どうだろうなぁ」
「……? どう、とは?」
正直話が見えてこない。
お姫様、と呼んだのがそのルシアという人物なのだな、とは理解できた。
魔王ウェインストレーゼ。それは流石に知っている。かつて、神前試合でたった一人でこちら側を殲滅し、次の神前試合とその次には仲間と共に参加しとうとう神に参加を禁止された人物だ。ある意味で殿堂入り。しかも噂ではあるが今もなお生きているらしい。
生きた伝説と言っても過言ではない。
その血族――普通に考えるのであれば子だろうか。弟だとか妹、だとかではない気がする。
同じ学園に通っているなら、狙うというのは切磋琢磨して実力を競い合う、という意味が普通に考えられるがワイアットの言葉からはとてもそうは思えなかった。
それに元老院とは?
いちいち疑問に思った部分を全て質問したとして、この男が親切に答えてくれるかは疑わしい。
「ん? あぁ、気にしなくていいよ。どうしようもないクソどもの思惑が絡んでるだけの話だから」
事実ワイアットはそれ以上詳しく話すつもりはないようだった。
「で、本当に参加しないの?」
「しつこいな。しない」
「そっか」
きっぱりと断れば、ワイアットは肩を竦めて残念、などと呟く。
それ以上話す事もなくなったのだろう。ワイアットはアレスに背を向けて教室から出て――
「ま、そんなこったろうと思ったから、事前に参加するっていう書類出しておいたからネッ☆」
行く直前で振り返って、ぐっと親指をおっ立ててそれから何事もなかったかのように教室を出て行った。
「…………は?」
ようやく絞り出すような声がアレスの口から出た頃には。
当然の事ながらワイアットの姿はとっくに教室からいなくなっていたのである。
「何してくれてんだあの人……!」
同じクラスならともかく別のクラスだというのに、何勝手に書類、え、捏造してるよなこれ!? だとかが凄まじい勢いで脳内を駆け巡っていくものの。
とりあえず理解できたのは手遅れ、というただ一言だけだった。




