課題は盛りだくさん
全身を水に包まれて息が出来なくなって、あ、このまま死ぬんだ……と思ったのは別に諦めたからとかではない。純粋に事実を事実として認識した結果であった。揺らめく水の中、歪む視界でどうにか見たものは、自分と同じように水に包まれ身動きを封じられたクラスメイトの姿だ。
イルミナとヴァンは既に藻掻く気力もないのかぐったりしている。レイだけが、まだ余裕がありそうではあったけれどしかしそう長く続かないだろう。
イアもどうにか抵抗しようとして武器を使ってなんとかできないかと思ったものの、糸を伸ばしたところでどうにもできなかった。水から糸を伸ばす事はできた。けれど、そこから更に伸ばそうとするのは難しかった。糸で相手に攻撃を仕掛けてこの水をどうにかしようと思っても、相手にはまだ余力がある。だから糸が接近しても女はちらりとそれを一瞥し魔術で糸を弾くのだ。
パン! と小さな破裂音がして糸が途中で千切れ飛ぶ。
糸はイアの魔力をもとに作られているので、何度もそれをやられると自分の魔力の消耗も激しくなってくる。糸と自分の痛覚が繋がっていなくて良かったと思えるくらい簡単に吹き飛ばされるのだ。
水の中で息ができなくなってきて、魔力操作もあまりうまくできなくなりつつある。
水の中って、息ができないとこんなにも苦しいものなんだな……とイアは改めてそんな事を感じていた。
吊り橋から落ちた時は早々に意識を失ってしまったのでそんなことを思う間もなかったのだ。
水の中でも息ができる魔法とか、覚えておくべきだったかなぁ……でもそんなのあったっけ? と考えて。多分そこが、イアにとっての限界だった。
ふっ、と視界が暗く染まる。影に覆われでもしたかのように。このまま意識も沈んでしまうのかと思ったが、しかしその途中、なんだかよくわからない音が聞こえた気がした。
「――は!?」
がはっ、ごほっ、と咳き込みながらも身体を起こしたのはそれから間もなくの事だろうとは思う。
けれども実際はもっと時間がかかっていたかもしれない。
だが、イアは水から脱出できていた。水の中に閉じ込められるようになっていた身体は水が消えた事でそのまま落下し床に強かに身体を打ち付けたけれど、そんな事はどうでもよかった。
息ができる。酸素ってこんなにも有難い存在だったんだ……! とまだどこかぼんやりする頭で考えて、酸欠状態になってくらくらする頭で他の皆は……? となって視線を動かせば、イアだけではなく他の皆も水に包まれた状態から脱したらしい。
自力で、という感じではない。イルミナとヴァンは床の上でぐったりと倒れたままだが、レイはまだどうにか息が続いていたようで、片膝をついた状態ではあったがすぐに立ち上がれそうな体勢で咳き込んでいた。
「それは、流石に予想外であったな」
女は片手をひらりと軽く振る。右手の甲が赤くなっていた。
「くそが……かすり傷ですらねぇってか……!」
げほ、と湿った咳をしながらもレイが憎々しげに呻く。
何があったかはわからないけれど、多分レイがなんかした、というのはわかった。
女に大ダメージを与えたわけではないようだけど、それでも女にとっては想像していなかった痛みなのだろう。その拍子に水に閉じ込めていた術が解除された……と考えるべきだ。
イアはそう判断したけれど実際は違った。
確かにレイが女にダメージを与えたのは確かだが、実際のところそれは痛みで術を解除するまでには至らなかった。ただ、物珍しさでつい解除しただけである。
水の中に閉じ込められて勿論レイも藻掻いてはいた。どうにか水から脱出しようにも水の中で移動してそこから外へ出ようとしても水も一緒に移動するので永遠に脱出できない仕様であった。女の術の制御を超える速度で水から飛び出せばワンチャンあったかもしれないが、流石にそんな速度を出せるはずもない。泳ぎに関しては得意な方だが、こんな状況でいきなり凄い速度を出せと言われても無理なものは無理だ。
だからこそ、苦手ではあるが魔法でなんとかしようとした。
だがしかし、何故だか上手く発動する気が今まで以上にしなくて実際に発動させようとしても魔力が何かに邪魔されてるような感覚がして、レイはひとまず魔法ではなく魔術を試す事にした。
精霊の補助もない魔術は更に発動しやしないだろうと思ったが、何故か先程まで途中で滞っていた魔力の流れがすんなりといった。よくわからないがチャンスである事は確かで。
一瞬、隙を作ればもしかしたら。
こちらが水から脱出しようとしても器用に同じだけ水を移動させて閉じ込めているくらいだ。一瞬、相手の気を逸らせば。もしかしたらその一瞬で脱出できるかもしれない。
そう思っての事だった。
魔術そのものに関しては得意でないのだから、威力に期待はしていなかった。
狙いを定めて――遠慮なく女の顔面を狙う。
そうして水の中で藻掻いているふりをしながらそっと向けた手の平から魔術を放つ――はずだった。
発動しなかったわけじゃない。
魔術は一応発動した。
ただ、当初の目論見と異なり手の平から放たれる事はなく、なんでか知らないが頬から出た。
生まれた時から存在している五芒星の痣。そこから魔術が出るだなんて、正直なところ自分でも思っていなかった。
そのまま発動したならば頬から水を突き破って発動した魔術は多分建物の壁か天井にぶつかるだけに終わっただろう。けれど不規則な軌道を描いて術は女へ向かっていったのだ。
自分で発動させておいてなんだけど、わけがわからなかった。
そして女もそれは予想外だったのか、僅かに目を丸くさせて未だ不規則に動いている術を見て。
そのまま命中すればレイにとっては良かったのだが、女にとってはよろしくない。女はレイが放った光弾をそのまま掌で受け止めようとしていたが、術は発動させた本人とは別の意思でもあるのかというくらいに不規則に動いて女の掌に当たらずに顔へと接近していた。
女が咄嗟に手を動かして手の甲で弾いたのは、直後の事だ。
ばちっという音がした気がしたが、それと同時にばしゃりと水が崩壊し床に落ちたので実際にそんな音がしたのかはわからない。
わからないが、脱出する事はできた。
ただそれは、女の気まぐれで解除されただけでやろうと思えばまた全員が水の中に閉じ込められるだろう。
脱出できたとはいえ、事態が良い方にいったとは到底思えなかった。
ただちょっと、最初の段階に戻っただけといえなくもない。
しかも状況は悪化した状態で。
若干水を吸い込んでしまったからか、鼻の奥がじんと痛む。
呼吸が上手く落ち着いてくれなくて、イアはなおもケホケホと咳き込んでいた。中途半端な位置に水が引っかかっているような感覚が、酷く不快で。
けれどもこれが落ち着くまで恐らく女は待ってはくれないだろう。それも理解していた。
レイもまた、のんびりしていられる余裕はないと判断したのだろう。
肩で息をしながらも立ち上がり、そうしてその手には武器が出現する。
「また同じ方法で挑むか? 愚かな」
「生憎これしかなくてな」
「先程のように魔術に頼ってみるか? 今度は上手くいくかもしれんぞ?」
「は、言ってろ」
全身がびしょ濡れのせいで、動くたびにべちょっとかぐじょっとかいう湿るを通り越した音がする。毛先から滴る水すら鬱陶しい。
完全に落ち着いてくれないせいで出続ける咳をどうにか堪えながらも、イアは女とレイとの位置を確認する。
イアからは女よりもレイの方が近い場所にいると言ってもいい。近いと言っても小走りで駆け寄る程度に距離は開いている。攻撃を、レイの身体で見えないような位置から仕掛けるとして。
上手く糸を操作しないと最悪レイにも当ててしまいそうな気がした。かといって魔術も同じような理由で躊躇われる。
レイなら何となく回避してくれるのではないか、だって身のこなし凄いし、と思わなくもないのだが流石に事前に何の相談もなしにぶっつけ本番でやらかすのは憚られる。
(おにいなら、多分何とかしてくれる気がするからできるんだけど……)
ウェズンであれば身内という気安さもあるから、ぶっつけ本番でやらかしても向こうもこちらの意図を汲んでくれそうではある。けどそれをレイに強いるのは違う気がした。仮にやったらできるとしてもだ。
となると不意打ちを狙うよりはレイの攻撃が回避されたとか、そういう一瞬の隙を突く方向性にした方がいいのかもしれない。とはいえそれも、あまり長い事できるものではないのだが。
こちらも攻撃に参加すると女が判断すれば、多分またあの術が発動する。
また水の中に閉じ込められたとして、そうしたら今度はさっきよりも長続きしないで息ができなくなるだろう。
考えたところでこの状況を打破できそうな方法が浮かんでこない。
いっそ、自滅覚悟で突撃するか。
そうしたら多分、レイが後は何とかしてくれるんじゃないだろうか。全滅は免れるかもしれない。
そんな風に考えが偏っていく。
「お前ら伏せろ!」
いっそその考えが一番いい方法なのではないか……? などと思い込み始めたあたりで、よく知った声が響いた。
伏せろも何も、イアはまだ立ち上がれるほどの余裕がなかったのでちょっと身体を前に倒せば簡単に伏せる事はできたし、レイもまた何が何だかわからないままではあったけれど、即座にその声に反応していた。そうしなければ我が身が危険だと判断したからかもしれない。
階段から下りてきたウェズンが廊下の先にいた女目掛けて鎌を振るう。
距離は圧倒的に開いている。なのでそんな場所から武器を振り回したって届くはずがない。それどころか、最悪武器は壁にぶつかって終わりだ。
けれどもイアもレイもウェズンの武器がどういうものかを知った上でその言葉に従った。
ギュイン。
なんというか言葉で表現するならそんな感じの音だった。次いで風を切るような音が頭上を通り過ぎていく。
な、と何か困惑したような声が聞こえたけれどイアは顔を上げてその状況を確認する事はしなかった。いや、できなかったと言うべきか。
ざくっ、という鈍い音がして、ぱしゃっという水音が次に聞こえた。どっ、と重たい何かが床にぶつかる音。伏せて目の前の床しか見ていなかったイアはそこでようやく顔を上げる事ができた。
壁から天井にかけてついた血飛沫。やや鎖骨に近い側の肩に突き刺さっている鎌らしき何か。立てなくなって座り込んでいる女。
「え、何?」
見たままそのままなのだろうけれど、正直何がどうなってそうなったのか、イアにはさっぱりわからなかった。




