救われたもの
スィルピードラチェカ……普通に言いにくいのでスピカでいい、と彼女は言った。
名を縛られ力を奪われていたも同然だったというのにそれでいいのだろうか、と思ったが本人がいいというのならいいのだろう。
名の解放。
それによって奪われ続けた力はそれ以上奪われる事もなく、消滅を免れた。
「残念です。とってもとっても残念です。
あの頃のわたしは確かに未熟だったから、素直に貴方を信じてしまったけれど。
おかしいなって思った時には手遅れで言えなかったけれど。
でも、それももうおしまい。
私は今のこの世界を良しとはしない。
故に契約はこれきりです」
スピカがそう口にした途端、パキンと澄んだ音が響いた。
そうして今までスピカを捕らえていた黒い鎖のような何かが今度はレスカへと纏わりついていく。
「ぎっ、あ、あ、ぁ……」
その光景を見て、ウェズンは内心で安堵していた。
正直こうなるまで、自信はなかった。
名を明かせぬ女の正体に関しても、それ以外の部分でも。
こうなってもまだ、確証があったわけではなかったから。
完全にぶっつけ本番だった。
もしかして、とは思っていたけれど、そのもしかしてが違う可能性だってあったのだから。
合ってて良かった。
これに尽きる。
だってもしウェズンの想像が間違っていたのなら、スピカは解放できなかったしレスカも弱体化することなくウェインと戦い続けて――いつか、こちらが消耗して負けていたかもしれない。
「詳しい話を聞きたいが、ここではなんだな……」
苦悶の声を上げるレスカを見下ろしながらウェインが言う。
事情がさっぱりわからない。一番事情を知っていそうなのは誰か、となればここに連れてきたウェズンであるはずだけれど、のんびり話をする余裕は少なくともここに辿り着いた直後はなかった。
こうして今、話ができる余裕があると思えたものの、しかしこの場所で話をするのは何となく嫌だった。
何せあまりいい空気ではないからだ。
瘴気混じりの黒い鎖のようなものが纏わりついているのを見て、空気が悪くなっているのはこれも原因の一つだろうなとはわかる。
ウェインの目に見えなかった女に元はこの鎖が纏わりついていたらしいが、確かにこんなものがくっついていたらロクに身動きも取れないだろう。
場所を変えて話したいが、しかしこれをどうするべきか……
そんな風にウェインが悩んだのはほんの少しの時間だった。
スピカがその鎖をえいっとばかりに破壊する。
ボロボロと崩れたそれを、レスカは信じられないような目をして見ていた。
「貴方ももうわかっているでしょう。終わったのです。貴方が好き勝手できる状況は。
大人しくするのが身のためですよ」
スピカがそう言えば、レスカはしばし神妙な表情を浮かべていたがやがてのろのろと立ち上がった。
そうして立ち上がって――
ばっ、と後方へ飛び退る。
その手には、増幅器と呼ばれていた杖があった。
「あれは――」
ウェズンは思わず声を上げていた。あれは以前リィトが持っていた物だ。
元は学園にあったとかいう話だが、それを持ち出してリィトは土地の瘴気を増幅させた事もあった。本来ならあの場所で出るようなレベルじゃない強力な魔物と戦う羽目になったのをウェズンは憶えている。
ここで瘴気を増幅させたとして、魔物が突然発生するかはわからないが、それでも場合によってはその瘴気のせいでこちらの体調が崩れる事は間違いなかった。
咄嗟に阻止しなければ、と思ったもののレスカの行動の方が早かった。
ガッと音を立てて増幅器が床に突き立てられる。
そうして増幅器を中心に渦を巻くように黒いもやもやしたものが集まっていった。
瘴気だ――と頭のどこかで理解したくないけれどするしかない状態になって。
「あは、ちょっとしたお遊びに何ムキになっちゃってんのさ。バッカみたい。
もう付き合ってらんない。じゃね!」
レスカは余裕ぶった表情のまま、そう言い捨てた。
そうしてパッと姿が消える。
逃げた。
瘴気が集まっていく増幅器に意識が向いたのもあって、レスカが逃げたという事実を認識するのにほんの僅かだが遅れたのは否定できない。
逃げた以上追いかけて捕まえるべきなのかもしれないが、転移で逃げたのを追いかけるとなるとどこに行ったかわからなければ追いかけようがない。
「あっ……あいつ……!」
逃げやがった……!
そう叫びたくなったものの、スピカはゆるりと首を振った。
「問題ない。もう逃げたところでどうにもならない」
言いながらスピカが手を前に突き出せば、増幅器に集まっていた瘴気が霧散し増幅器もまた音を立てて壊れた。
「まずはここを脱出しよう。話はそれからで構わないか?」
「それは、勿論」
「では、掴まるといい。学園にならすぐ戻れる」
言われて差し出された手を、ウェズンは躊躇う事なくとった。
――今更すぎるが時間帯が時間帯であるために、学園に戻った時にはすっかり真っ暗だったしほとんどの生徒は眠りに落ちていた。
教師だってそう。
ウェズンの担任であるテラが叩き起こされて、学園長という立場のメルトのところまで案内されたのは、まさしくド深夜である。訪れるには明らかに非常識かつ迷惑な時間。
メルトはというと、厳重に封印されて外から覗き見るような真似もできないような室内でクロナと話をしてそろそろ寝ようかな……というところであった。
「主……!」
「ある……えっ、ホントだちゃんと実体がある!?」
ベッドに寝たまま上半身だけ起こしていたクロナと、その横の椅子に座っていたメルトは信じられない物を見たような目を向けて立ち上がろうと――したもののクロナは難しかったのか上半身がぐらりと傾いてベッドに倒れこんだ。
立ち上がったのはメルトだけである。
「夜分遅くにすいません……」
あまりにも場違いじゃないかな、と思ったウェズンが言いつつ入室する。
他の面々は堂々と当たり前のように室内に足を踏み入れていた。
堂に入るにしても、ちょっと入りすぎではないだろうか。
「やり遂げたのですね……」
即座に察したのはクロナだった。
改めて上半身を起こしてウェズンを見る。
「色々と危ない橋を渡った甲斐があったというものです」
「……確証はなかったけれど、どうにかなって良かったですよ」
それに対してウェズンは乾いた笑いを浮かべた。
本心だった。
これでどうにもならなかったら、間違いなく最悪の展開を迎えていただろうから。
クロナが渡してくれた創世日記と家にあった神話の本。
どちらかだけではダメだった。
両方があったからこそ、そしてある程度創世日記の解読ができていたからこそ何とかなった。
入手に危ない橋を渡ったとか、情報を知るのに際どい手段を選んだとか、そういうのではない。
知った知識が本当に正しいかどうか。
答え合わせもしないぶっつけ本番。
外れていたら赤っ恥もいいところだったし、その後大ピンチになっていたと考えると。
「本当に……良かった」
色んな意味で、本当に。
「ところでこれに関して詳しく説明はされるのだろうか?」
ウェズンとクロナがお互いに良かったとばかりに顔を見合わせていたけれど、そこだけで完結してんじゃないぞとばかりに疑問を口にしたウェインに。
それぞれが同じタイミング――とまではいかなかったが、スピカへと視線を向ける。
「まぁ、そうなりますよね……」
スピカの表情はまるで悪戯が見つかって叱られた子供のようではあったけれど。
「事の発端はどう足掻いてもわたしである以上、話さない、というわけにはいかないでしょうね……そうでなくとも多くの犠牲も出たわけですから……」
「主……」
「それでなくとも助けに来てくれた当事者相手に話さない、はないですからね。えぇ、わかっておりますとも。
危うく少し前に存在消滅しかけてたわたしを助けてくれたのだから、お話ししましょう。
では聞いてください、これは世界を巻き込んでしまった神の失敗談」
そんな風に切り出された語りに。
ウェズンはもとより、他の者たちもどういう表情を浮かべるべきなのかわからず、とてもしょっぱい表情を浮かべるしかなかった。
あ、とりあえず夜も遅いからなるべくざっくりと話しますね、と付け足されたけれど。
それのせいで余計にしょっぱい表情になるのはどうしようもなかったのである。




