身近な深淵
まずはお互いに。それからテラに。
既に二度、ここに来た流れを説明している。
だからこそ、三度目ともなればすっかり慣れたものだった。
黒い物体は、名を名乗らなかった。
名を忘れたのだと言う。
新たにつけたところで、その名を呼ぶ者など誰もいないのだから必要ないとも言われてしまった。
どのみちここから動けもしないし、そうなれば確かにここに来てわざわざ名を呼んでくれる相手などいるはずもない。
それ以前にここはどこなんだ、と聞けば。
コールラート大陸の外れだと返された。
コールラート大陸、と言われてもアレスには馴染みがない。けれどもレイは何か聞いた覚えがあるな……と少し首を傾げて。
あぁそうだ、アクアが確か何かやらかしたやつだ、と言って勝手に納得していた。
去年の夏に何かそういう話がチラッと出てた、と言われてまだその時点で学園に来ていないアレスが知らないのも当然だなとなったので、深く聞く事はしなかった。聞いたところでレイもそこまで詳しく知っているわけではないらしく、俺も知らんと先に断られてしまった。
ともあれ、二人にとってコールラート大陸なんていうのは、精々その程度の認識でしかない。
その外れ、と言われてもそれ故にピンとくるはずもなかったのだ。
授業でちらっと聞いた覚えもあるけれど、別段何かがあったとかではない。ただちょっと変わった動植物が存在しているから、軽率にそういった物に手を出すと酷い目に遭う事もあるから気をつけろよ、とかそういう程度の内容だ。
見覚えのない知らない物をいじっちゃいけません、とかいう幼児に向けた注意みたいな話がちょっと出ただけだ。
それ以上深く掘り下げられる事もなかったから、すっかり大陸の名を聞くまでそのことすら忘れていたくらいだ。
学外授業でそこに行くとなったなら、一応事前に改めてその土地について調べたりはしたとは思うけれど。
しかし、話に聞いた限りでは動植物が色々あって、もっとこう、自然たっぷりなところだと思っていたのだ。これでも。
だがしかし窓の外から見える風景は、地の果てまでも荒野が続いていると言われてもおかしくないくらいに殺風景極まりない所で。
極彩色溢れるジャングルみたいなところもあるんだろうなとか想像していたのとは違いすぎて、アレスは自分が授業で教わったコールラート大陸とこの黒い物体が言うコールラート大陸は果たして同一の存在なのか、と思わず疑ってしまった。これが人物の話であったなら、同姓同名の別人の可能性も大きいのだが、しかし大陸だ。同じ名前の大陸は流石に存在していない。
外れの方、と言っていたし、ではそういった自然あふれる土地から離れた僻地みたいなところがここ、という事なんだろうかとともあれアレスは自分をそう納得させたのである。
少なくともどの大陸にいるかもわからない状況よりは前進した。それは間違いない。
この城からどの方向へ行けば神の楔があるか、という疑問を黒い物体は答えられなかった。
可能性として、上空に高く飛んで自然が溢れる方向へ進めばそのうちどこかにあるだろう、とは言われたものの解決策としては微妙なところだ。
だがまぁ、それでもどうにもならなさそうな状況から少なくともどうにかなるんじゃないかなぁ、と思える程度には変化したのもあってアレスの心には余裕が芽生え始めていた。
その流れで、先程のオブジェのようにここの本棚も撮影して画像越しに確認しようとしたのだが。
「やめておけ」
黒い物体はモノリスフィアが何であるかを知っているらしく、アレスが本棚へモノリスフィアを向けかけた矢先に止めてきた。
「直接見るとさっきみたいな事になるかもしれないけど、画像越しなら多少マシになるかもしれない。さっき手前の部屋にあったオブジェだってそうだったから」
「あれを撮影したのか……いや、あれはまだマシな方か……だがここの本はやめておけ。下手をすると自分のようになりかねない」
「え?」
不穏なそのセリフに、アレスは撮影しようとしていた手を止めた。
自分のように、ともし黒い物体に指があったのなら間違いなく自分を指さしていたのだろう。
色が白ければ焼いてる途中の餅、と言えたかもしれないがしかしその色はびっくりするほど真っ黒で。仮にお餅を墨の中に落としてしまった、とかであってもこんな真っ黒にはならんよと言わんばかりのどす黒い色である。
そして上の丸い部分にはいくつかの穴があいていて、そのうちの一つが口の役目をはたしているのは先程確認できた。
だが、ここから一歩も動けないらしいし、であれば食事や排泄といった生命が行うそれはしていないのも証言された。
「以前は、人間だったはずなんだがな」
そう言われてアレスはそっとモノリスフィアをリングの中へ戻した。
何かの拍子にうっかり本棚を撮影してそれを見て、この黒い物体と同じ道を辿るのは流石にお断りしたかったからだ。
意識があるのに移動も何もできないまま、となれば、普通の精神ならとっくに発狂でもしているはずだ。けれども案外この黒い物体の口調はしっかりとしている。
「人間だったはず、って……なんでそんな曖昧な」
「確かに人間だった記憶はある。あるんだが……あまりにも長い間ここを動けないままだからな。もしかしたら、そうであれ、という願望が芽生えた結果そう思い込んでいるだけかもしれない、と思うようにもなってきた」
そう言われると否定も肯定もしにくい。
人間というのは忙しすぎても心が死ぬし、かといって暇すぎても心が死ぬのだ。
忙しいなら時間はあっという間に過ぎるけど、暇なときは時間の流れもゆっくりに感じられる。
ただ普通の暇を持て余しているだけなら、どこかに出かけるだとか自室でゆっくり本を読むだとか、それなりに暇をつぶす事もできるかもしれない。
けれどもこの黒い物体のように動く事もできないまま、ひたすら何もしないで時間が過ぎるのを待つだけ、というのは……どう考えても退屈すぎて時間の流れもゆっくりに感じるだろう。できるのは、精々空想に身を任せるくらいだろうか。それだって、ネタが尽きればまた退屈に逆戻り。
刺激がありすぎても困るが、一切の刺激がないというのもよろしくない、というのはアレスにだってわかっていた。
「それじゃ、人間だった頃の話とやらを聞かせてくれないか」
空想や妄想であったなら、よくできた話であってもどこかに綻びがあるかもしれない。それでも、全部が全部そう、と決め打つにも早すぎて。
ここから脱出するにしても、下の階にいる半透明骸骨の件は何も解決していないのだ。それについても聞かなければならなかった。
「人間だった頃の自分、か……そうだな、確か冒険者をやっていたと思う。
確か……あぁそうだ。ここに来たのは知り合いの魔女によるものだ」
「知り合いの魔女?」
「あぁ、確か名前は――」
「は……?」
アレスの口から息を吸い損ねたような、微妙な声が出た。
今しがた黒い物体が口にした魔女の名は、まぎれもなくアレスが訪れた魔女の名であったからだ。
学院にいた時に知り合った魔女。
聞き間違いかと思ったが、念のためと確認すれば間違いですらなかった。
「彼女が転移魔法でここに飛ばしたのがここに来ることになった切っ掛けだな」
転移魔法というか、アレスの場合は罠魔法とか魔法罠とかそういうのを体験してみろという流れで飛ばされたのだが、しかしここに来る流れが黒い物体とほぼ同じというのもあって、妙な胸騒ぎを覚えた。
「突然現れた自分を、城の皆は驚きつつもなんだかんだ面倒を見てくれたっけ」
「いたのか、城で暮らしていた人が」
「あぁいたとも」
そこは、黒い物体とアレスの決定的な違いだろう。
「そう、当時は……神の眷属がいた、のだったか」
「は!?」
神の眷属。
そう言われて驚かない理由がない。
この世界を神は滅ぼそうと決めてはいるが、しかし神前試合という茶番が繰り広げられる事になったのは、その眷属たちによるものだからだ。
神の眷属は、人にそこまで絶望していない。神と同じく世界を滅ぼすことを良しとしていなかった。それ故に、機会を与えて欲しいと訴えた事で神前試合が行われるようになった、とは最初の方の授業でやった内容だった。
その途中で、そういった事を忘れかけた人類が余計な欲を出していらん事をした結果神の楔が増えたりして瘴気汚染度によっては結界を超える事もできなくなった、なんていう面倒も生じたわけだが。
だがしかし、その話はおかしい。
何故なら神の眷属は――
「いるはずがない。神の眷属はこの世界に二人だけ。その二人だって居場所は割れてる。ここにいた、なんて事があるはずが」
「眷属、という言い方がおかしいのなら、他の言い方をしよう。彼は、神の子であった」
彼、と言われて、そしてそれが神の子だと言われて。
「何を言って……」
あぁ、こいつの言う事は空想どころか妄想なのだな、とアレスは思い始めていた。
この世界にたった二人の神の眷属は、中身はどうあれ外側は一応女性の姿かたちをしている。彼、と呼ばれる事はない。であれば、この黒い物体が出会ったらしきその存在は。
こいつの妄想か、はたまたその彼とやらが騙ったか。
どっちにしたってロクなものではない。
「この城から人が絶えたのは、彼が原因でもあった」
下手な言い方をして喧嘩を売るような真似をするのはどうかと思ったアレスが、さてどう言うべきか……と頭を悩ませていたものの、黒い物体はそんな様子を気にした風でもなく言葉を続ける。アレスがその話を聞いてどう思おうとも、どうでもいいのかもしれない。ただ、耳を傾けてくれさえすればそれで。
何故なら今まで話を聞いてくれる相手すらいなかっただろうから。
けれども、この物体はアレスたちに引き返せと訴えていたのも事実だ。
「すまない、なるべく簡潔に言ってもらえるだろうか。俺も魔女に飛ばされてここに来た。下の階にはわけのわからない何かがいる。引き返してここを出ていきたくとも現状それが、それだけの事がとても難しいんだ。
引き返すだけじゃ、この階にずっと居続けたところでいずれは死ぬ」
「あぁ、きみたちはまだ人間だからそうだろうなぁ。でも、仲間になりたくはないんだろう?」
「仲間、というのがお前や、下の階にいるあいつらと同じという意味でならそうだな」
「ならば、なおの事本は読むな。あれには叡知があるけれど、しかしそれを知った後の保証はない」
本、と言われうっかりアレスは視線を黒い物体から上げて、本棚の方へ移動させる。
再び本を視界にいれれば、またもやタイトルすらわからない本が気になり始めて――また意識がどこかへ行く前に、アレスはすぐさま下を向いた。
叡知、と言われて気にならないわけではないのだけれど。
「あれを読んだ事で自分はこうなった。神の叡知に気軽に触れようとするべきではなかったのだ」
「……うん、すまない。詳しく」
てっきり、その彼とやらが神の眷属を騙ったのだろうと思っていたのだが。
もしその正体が神とは無関係のそこらにいるような存在であったなら。
少なくともこの黒い物体がこんなところでこんなことになってはいないだろう。
引き返せというくらいなのだから、まぁ何かはあるのだろうと思っていたけれど。
思っていた以上に、ここはもしかしなくてもヤバイ場所なのではないだろうか。
そう思ったアレスは思わずレイがいる方へと振り返っていた。
体調が悪化したのか、床に突っ伏してた。
色々とマズイ事になっている。




