帰り道
元々古い吊り橋だった。レイやイルミナはさておき、身体の小さなイアですら歩いた時にぎしぎしと音を立てるようなもの。いつ壊れてもおかしくはなかったのだろう。
そして、魔物が襲い掛かってきて攻撃が来た時に備えて、きっと無駄に力が入っていたのかもしれない。
家から送られてきた武器を使って、攻撃を仕掛けて。
あの瞬間、イアはいつも以上に力んでいた。ぐっと足に力をいれて踏みとどまっていた。
それもきっと、足場を形成していた板によくなかった。
落ちた時は一瞬だった。
足場が消えた浮遊感。そしてみるみる落ちていく感覚。
糸を射出できる武器があるのだから、その糸で吊り橋か向こう側の木にでも糸を括りつけて落下を回避すればよかったのだ。
けれども。あまりにも一瞬過ぎてイアの思考は追い付かなかった。
ただ、ふと前世で見た映像を思い出していた。
高層ビルの屋上から突き落とされた男。
叫び。そして落ちただろう時の音。
直接その光景を見たわけじゃない。
ぐしゃ、とかどさ、とかいうような音のあとで、アスファルトに広がる赤みを帯びた液体。
何かの映画だったと思う。
思うのだけれど、あの時のイアにはピンとこなかった。
高いところから落ちたら人は死ぬ、という事を知識として知ってはいた。けれども、落下の衝撃がどれくらいでだとか、落下した時に死体はどうなるだとかまではサポートデバイスが知らない方がいいとして情報を規制していた。あまりにショッキングな知識はデバイスがふわっとしたものに変えていたから、実のところトラウマになる事もない。
そもそもの話、かのマザーが管理する白亜都市メルヴェイユでは怪我をする事がほとんどなかったのだ。
生まれた時には培養槽の中で成長し、ある程度大きくなってから出る。その頃には脳にサポートデバイスがあるので体の動かし方がわからないなんて事もない。普通に歩くし普通に走る事ができる。ただ、映画で見たようなアクションをやってみたい! と思ったとしてもその身体のポテンシャルが追い付かなければデバイスはそのような動き方を許可しなかった。
つまりは、余程の不測の事態で事故にでも遭わない限り怪我をする事は滅多にない。
例え目を瞑っていたとしても、サポートデバイスが動きを制限するので人ごみの中を移動していてもぶつかる事もないのだ。滅多なことが無い限りは。
だから、あの頃のあの都市の住人達は痛みを知らなかった。いや、多少は知っていたと思う。けれどもそれは痛みというより刺激という言葉で済むもので。
けれども今のイアは痛みを知っている。
集落で、散々体験してきた。
とはいえ、これだけの高さから落下しているのだ。集落の子たちの遊び半分で行われてきた暴力とは違う、大人たちに殴られた時よりも更に強い衝撃がくるだろうな、とはわかる。
わかるのだけれど……果たしてこれは、落ちて無事だろうか。
死。
唐突にその結末が想像できた。
あぁ、そうか。これが死ぬって事か。
すとんと腑に落ちたように理解する。
そして、その瞬間走馬灯とばかりに様々な情報がぶわっと脳裏に浮かび上がった。
「あ」
前世では走馬灯なんて作り話の中だけで、実際イアが死ぬ直前に見る事はなかった。本来死ぬはずじゃないタイミングで死んだため、そんなものを思い浮かべる余裕すらなかったのだろう。
ただ、かつて見たお話の中で走馬灯というのは死に瀕した間際、どうにかその状況を回避しようと過去の経験から使えそうなものを思い起こすためのもの、とかなんとか言ってた気がする。
だがしかし。
イアが今思い出した内容は、現状を打破できるものではなかった。
(お、おにいの課題大丈夫かな、なんでか魔女が住む場所に行っちゃって、そこで大変な目に遭う事になってたはず……! いや、おにいなら大丈夫だと思うけど、もし、万が一、魔女の言葉に騙されてたら死ぬかもしれない……ゲームで確かバッドエンドの選択肢があったもん!!)
今まさにお前が死にそうになってるだろう、と冷静に突っ込みを入れる相手はいなかった。
(おにいが死んでたらどうしよう!? そしたら間違いなくこの世界終わっちゃう!!)
今まさにお前の命が終わろうとしてるわけですが、という突っ込みをしてくれる人物は残念ながらいなかったし、ましてや暢気に他を気にしている場合か! と言ってくれる相手もいない。
そうこうしているうちに、衝撃が身体にやってくる。
次いで、爆発音とは違う系統の、けれども似た感じの音と、すぐさまやってくる妙な静けさを持ったごぼごぼという音。
川に落ちて、沈んだのだと理解した時には。
何の準備もできなかったイアは一気に大量の水を飲んだ事であっという間に意識を失ったのである。
イアが沈んでから少し後、レイもまた川に落ちていた。イアと違って自分から行ったので溺れるような事もない。高所からの着水だったのでちょっと身体が悲鳴をあげかけたけれど、動かせなくなるだとか、そんな事はなかった。そのまま流されていくイアに追いつくように泳いでいって、どうにか回収する。
意識があったならレイが回収した時点でしがみつこうとして面倒な事になっていただろうけれど、そんな事もなかったためにレイはすいすいと泳いで岸へと辿り着いた。
泳ぐのは得意だった。むしろ泳げなければ死ぬ可能性すらあったから、泳ぎ方を叩きこまれたというのが正しい。
陸地にあがり、そうしてイアが飲み込んだ水を吐き出させて、それから服を乾かすための魔法を唱えた。いつか覚える事ができるようになったら、真っ先に覚えておけと言われたがまさかこうも早くに使う事になるとは思ってもいなかった。
服が乾いたからといっても、冷えた体まで温まるわけじゃない。
レイは適当に周囲を見回して、開けた場所が近くにある事を確認するとそこにイアを置いた。
近くに落ちていた枝を拾い集め火を熾す。
一歩間違っていたら死んでいたであろうイアは、しかし今現在暢気にむにゃむにゃと何かを言っているようだが、何を言っているかまではわからなかった。ただ、なんというか幸せな夢でも見ているんだろうな、と思える様子だ。
「ったく、暢気なものだな……」
思わず咄嗟に助けに飛び込んだけれど、そんな悪態が出てしまった。
助かった事に関しては素直に良かったと思っている。いるのだが、それとこれとは話が別だった。
別に、見捨てたって良かったのだ。
こいつはただ同じ教室にいるだけの奴であって、仲間でも友人でもない。
あの日、学園初日にいきなり殴り合いをさせられた時、最後まで残っていたウェズンの妹とは聞いたがこいつは別にそこまで強いわけでもない。
実際あの時だって兄の後ろに隠れるようにしていて、ほとんど何もしていなかった。
兄であるウェズンならまだしも、イアはレイにとっては取るに足らない存在でしかなかったのだ。
ただ、そう、それでも理由をつけるならば。
(あいつに似ていた。それだけだ)
だから、見捨てる事ができなかった。
もしあの時吊り橋から落ちたのがイルミナであったなら、きっとレイは見捨てていたのだ。
さて、とレイは考える。
もう少し身体が暖まってから学園に戻るにしてもだ。
イルミナには先に戻れと言っていたので今頃はどうにか戻っているだろう。課題が無事に終わった事を伝えてもらっていれば、こっちとしては特に何を気にするでもない。
ただ、遅れて戻って来た事に対して何か言われる可能性はある。
死んでも自己責任とか言うような学園だが、死んだと思ってたけど実は生きてたし戻ってきました、というものをバッサリ切り捨てたりはしないだろう。
ただ、あまりにも戻るのが遅くなればその間に行われていたであろう授業に遅れるのは間違いないし、その場合テラのクラス以外の教室への移動もあり得る。
教室が変わるだけで済めばいいが、下手をすればあの学園から別の学校に行った方がいい、とか言われる可能性もある。
他の学校で学ぶとしても、まず精霊との契約、そして浄化魔法については教わるようではあるけれど、他の学校は精霊との契約が更に難易度が高くなるとも聞いていた。
一応、何も知らずにこの学園にレイとて来たわけではない。
テラの話をさも知りませんでした、聞いて驚いていますといった反応をしていたけれど、実のところ知ってはいたのだ。
浄化魔法が使えなければ各地を移動するような冒険者になれるはずもなく、また各地を転々とする職にも就けない。一生一か所に留まり続けるのであればまだしも、もしその土地が瘴気汚染で住むのも厳しくなればマシな土地へ移動しようというのは当然の流れ。
けれどその時に瘴気が身体を汚染して結界から出られないとなれば、汚染された土地から出る事は叶わず身体もまた汚染され続ける。
万一の時に逃げられないとなれば、浄化魔法を覚えるのは冒険者でなくとも優先事項ではあるのだ。
テラは脅すように浄化魔法を使える事を周囲に言いふらすなと言っていたが、それは半分正解で半分間違っている。
学校で、学園で、浄化魔法を覚える事ができなかった相手に知られると面倒な事になる、というのも含まれている。
学校に通わせられない事情を持っている相手から、魔法を教えてやってくれ、なんて気軽に頼まれる事もあると聞いた事があった。レイは一つの土地で大人しく過ごしていたわけじゃないから、それが事実だというのもわかっている。
冒険者をしている人に、どうにかして浄化魔法を教えてもらおうとしていた人がいた。
冒険者はその時困り果てたように眉を下げて、無理な物は無理と断っていたけれど。
これが、ちょっとした護身程度のものであるなら、冒険者も断らなかっただろう。
だが学園で精霊と契約してレイも流石に理解した。
あれは、外で気軽に教えられるものではない。
学園で支給された契約書があったからいいけれど、あれを一から用意しろとなれば無理だ。
もう見なくても全然問題なく書ける、ってくらいになっていてもだ。
大体あの紙、魔力を吸収して色が変わるやつ。あれ、多分そこらの町とかでは売ってない。
正直タダで教えろとか言われたらレイだって断る。あまりの面倒くささで。
どうしてもっていうなら学校行け。
ま、他にも理由はあったと思うが生憎とあまり覚えていなかった。
「そういや、瘴気汚染されてるかもしれない所に調査隊として強制的に行かされる、なんて話もあったな……」
浄化魔法が使えるとはいえまるで鉱山のカナリアである。
「ん……ちょーさ、探索……」
何とはなしに呟いてしまった声が聞こえたのか、むにゃむにゃしつつイアがそんな事を言いながら、うっすらと目を開ける。
「起きたか」
「んえ? あれ? 生きてる? 生きてるよね?」
「おう生きてるぞ。俺が助けた。感謝しろよ」
「ありがとございまーす」
むくりと上半身を起こし、イアはそれからぺこりと頭を下げた。
それからイアはきょろきょろと周囲を見回す。
「イルミナは?」
「先戻れつっといた」
「そっか」
よっこいせ、と言いながら立ち上がるとイアは服に着いたであろう土ぼこりや小石を払うようにパンパンと叩き始める。
「それじゃ、帰ろうか」
「だな。とはいえ……ここからあの神の楔があったとこまで戻るとなると中々に骨が折れるな」
吊り橋があったところから落ちて、そこから多少川の中を移動している。だからこそ、真上を見た程度では途中から崩壊してしまった吊り橋が見える事はない。
山を登ってあの場所までいくにしても、登山道というような道はない。歩きやすそう、とはお世辞にも言い難いし、これは戻るにしても……と考えただけでレイはうんざりしてしまった。
「この近くに他に神の楔がないか探す?」
「……あると思うか?」
「わかんないけど、山の入口とかあったりしない?」
「…………」
言われて考える。
確かに、神の楔がある場所は街の入口だとか、大きな街道であれば町同士をつなぐ中間点だとかにあったりもしているし、山の上だとか、人が行くには少しばかり険しい場所だとか、実に様々な場所にあるけれど。
山の入口付近にも神の楔がある可能性は高かった。
正直ここから落下前のあの高い位置まで戻るとなれば、かなり大変だろう。それならまずは山の入口というか麓あたりを探して神の楔がないか探した方がまだ楽そうに思える。
「……一応山の麓探して、それでなかったら登山だな……」
「見つかるといいね」
イアはそんな風に言っているが、可能性としては五分五分である。下手をすれば無駄に労力だけが消費される。そう思うと、つい溜息を吐いても仕方のない事だった。




