おはようトラブル
そもそもの話。
沈黙効果のある魔法をかけられたからとて、声が出せなくなるだけで魔法そのものが使えなくなるわけではない。
詠唱をしないと発動できない、という初心者ならば封じられるけれど、ウェズン達のように無詠唱で発動させるような連中相手なら沈黙をかけられたところで意味がない。
とはいえ、それでも魔法をかけられている状態なので、魔法や魔術を使おうとすれば何もない通常の状態よりやりにくさは確かにある。
であるので、もしフリードリヒが魔法を使いこなせて天才的な才能を持っているのであれば、クローゼットの中に放り込んだだけで安心安全とはとてもじゃないが言えなかったのだが。
そこまでではなかったのか、ウェズンが沈黙をかけた後はおとなしいものだった。
おかげで朝までぐっすりである。
むくりと身を起こして窓から差し込む朝日に目を細めたウェズンは、実のところフリードリヒの存在をすっかり忘却していた。二十秒後くらいに思い出したけれど、起きてからすぐに思い出さない程度には忘れていた。
なんとなく魔力を使った痕跡があるな……あ、そういや昨日の夜に使ってそのまま継続しっぱなしか、とかとても雑に把握したくらいだ。
維持するのに若干魔力を使いっぱなしだったようだが、それでも疲労を覚える程ではない。
一分に一滴、水道の蛇口から水がぽたんと落ちるくらいの消費量だろうか。
真夜中に忍び込んできた彼の処遇をどうするつもりかわからないので、とりあえず沈黙だけ解除はしたけれどどうやらフリードリヒもクローゼットの中でまだ眠りこけているのか、解除した途端喚き声が、などといった事はなかった。
起き上がって何となく体のあちこちを回すように動かしていれば、次に起きたのはハイネだ。
「おはよう」
「おはよう。そういや彼は?」
「寝てるんじゃないかな。今沈黙解除したけど静かなものだし」
「ふぅん? とりあえず今日はギネン鉱石採取に行くんだよね。ほらルシア、そろそろ起きてー」
「う、うぅぅん……あと三時間」
「起きてるんじゃん。何ちゃっかり二度寝の時間確保しようとしてるんだよ」
「そこまで寝れば満足かなって」
「そりゃ満足だろうね」
ハイネがルシアに声をかければ、赤子がぐずった時のような声を出しつつもルシアはしぶしぶ起き上がった。
許されたなら間違いなく二度寝していた。そんな顔をしている。
そんなルシアを見てハイネはまるで手のかかる弟を見るような目を向け――る事はなく。
「ところでヴァンは?」
きょろ、と室内を見回してそう問いかけたのである。
「あれ?」
ヴァンが寝ていたベッドを見る。
昨日の夜のような偽装工作はされていない。ただただぺったんこの誰かが寝る前の状態の普通のベッドがそこにある。
直前まで誰かが眠っていた、というような気配すら残っていない。
時刻を確認するも、昨日の時点で少し早めに眠った事もあってそう遅い時間ではない。
なんだったら、普段学園で授業を受ける日より早くに目が覚めたと言ってもいい。
つまりは早朝である。
二度寝しようとしたルシアがあと三時間、とかのたまったが流石にそこまで眠っていれば普段なら授業に遅れるだろう時間になるけれど、今ならまだ外に出てもそこらの店だってやってないだろう。
やっていたとしてパン屋くらいだろうか。
あまりにも物々しい雰囲気漂うこの国にパン屋があるのか? と一瞬とても失礼な事を想像してしまったが、流石にないわけがないと思う事にする。
では、こんな早くに一人で出かけたという事はパン屋に……? とはならなかった。
確かにここはヴァンの故郷でもあるけれど、しかし故郷の味が恋しくて……で早朝パン屋に突撃をかけるような相手ではない。他の誰か……そういうのやりそう、って思う相手ならともかくヴァンがそういった行動に出るようにはとてもじゃないが思えなかった。
何度想像しようとしても途中から解釈違いです、という単語が脳裏をよぎっていく。
というかだ、ヴァンが庶民派王子ならそういう事もあるだろうとは思うけど、なんというかそんな感じはしないので。
流石に久々に戻ってきた故郷のパン屋の味を懐かしむんだ、とかそういう展開がどうしても想像できないのである。
ウェズンの中のヴァンは、庶民の暮らしに紛れるくらいはするけれど、完全に庶民か? と問われると今にして思えばそれは何かが違うとしか言いようがない。
平民を見下す典型的悪役とかかませ系権力者とまではいかないが、なんというか身分に関する部分についてはヴァンはきっちりと線引きをしているような気がしないでもない。
あくまでもウェズンの独断と偏見だが。
思えばヴァンはウェズンの事を親友だとか心の友だとか呼ぶけれど、正直ヴァン自身の事をウェズンは詳しく知らないのである。知ろうとしなかったというよりは、下手に踏み込んで大丈夫なのか、という思いから踏み込むことを躊躇った結果とも言う。
前世の記憶がなければもう少し無遠慮に踏み込めたかもしれないが、それはあくまでも「もしも」の可能性でしかなかった。
「昨日弟が襲撃……って言っていいのかは微妙だけど、まぁそういう事があったわけだろ?
なのに一人で行動するとかそんな命知らずな真似をするはずもないとは思うんだけど……」
思えばろくに知らん相手としか言いようがないヴァンだけど、それでも関わりが全くないわけではない。
だからこそ、今までにウェズンが見て感じたヴァンの人間像から想像してみる。
瘴気耐性が低いためあまり未知の土地――これは実際の未知ではなく瘴気汚染度がどうなっているかわからないという意味だ――に行く事に関して積極性はない。ただ、学園での授業で仕方なく、というのであればそこは従う。
まぁ学園側もヴァンの身元は知っていただろうし、いくら学院の生徒との殺し合いがあろうとも仮にも王子だ。いくら学園の授業には危険がともなって命を落とす事もありますよ、とかそういう承諾書みたいなものに入学前にサインするようなところであっても、軽率に殺しにいくような展開に持ってはいかないだろう。
魔王に選ばれずともそれなりに生き延びる事ができるような状況にもっていけば、話の転がし方次第では学園は一つの国の王族に恩を売る――とまではいかずとも、まぁそこそこ友好的な関係を結べるだろうし。
あからさまな優遇はできずとも、そこそこの配慮は可能と考えてもいいだろう。多分。
ともあれ、ヴァンは自分の体質をよく理解している。
だからこそ、瘴気汚染度が低いと知っている土地であったとしても基本的に無茶をやらかしたりはしない。
ここが故郷で勝手知ったるなんとやら、であったとしても、軽率な行動は流石にしないだろう。
ならば、それなりに事前に何らかの……それこそ一人で行動しなければならない事情があると考えるべきか。
それらをウェズン達に何も言わないというのなら、それはあくまでもヴァン個人の事情によるものである、と考えられる。
「何か事情があったとしても、ヴァンの事だからこう、事前に何か意味深な事とか言い残したりしてヒントみたいなのを出したりするかもしれないな、とは思うんだけど……なんかそういう感じの事言われた人いる?」
「いや、記憶にないな」
「同じく」
ふわぁ、と大きなあくびをしながらルシアがハイネに続くように答えた。
「…………クローゼットの中の弟引っ張り出して聞いてみた方がいいのかな?」
とはいえ、フリードリヒはいくらヴァンの弟だと言えどもウェズン達にとっては昨夜が初めましてである。
眼鏡と白衣のない若かりし頃のヴァン、と言われれば見た目は確かにそうなのだが、中身は別人だ。
向こうからしても兄の学友である、という認識はできてもそれ以上でも以下でもないはずであって。
話がまともにできるかはとても微妙な気しかしなかった。
だがしかし、現状他に何か情報を知っていそうな奴は、となると心当たりはない。
ならば、仕方ない……と思ってウェズンはともあれクローゼットを開けるべく近づいて。
手をかけて開けようとする直前――
「いやー、参った思った以上に手間がかかったな」
バン、と音を立てて部屋のドアが開け放たれる。
「ヴァ……ヴァン!?」
「あっ、もう起きてたんだ。おはよう」
「おはよう、じゃなくて、それ」
「ん? あぁこれ? 何も問題はないよ。返り血だから」
「問題しかなーい!!」
慎重な行動をするタイプでそんな勢いに任せるような真似はしないだろう、とかほんの少し前まで考えていたのだが、本人自らその考えをぶち壊されて。
ウェズンは思わずそう叫んでいた。
なんだ返り血って。
一体どこで一戦おっぱじめてきたというんだ。
本人に突っ込みを入れたい気持ちは勿論あったけれど。
流石にそれはマズイと思い直してウェズンは目の前にあったクローゼットにその勢いをぶちまけたのである。
何故って昨日の時点で実は王子だったとかいう身分持ちの友人らしき相手が血まみれで帰ってきたのだ。返り血と本人は申告しているがそういうこっちゃねぇんだよという気持ちで一杯である。
「うわっ、何事!?」
そして、ウェズンが思わずといった様子でぶん殴ったクローゼットの中にいたフリードリヒの慌てふためく声がする。まぁ当然だよな、と自分でやらかしておきながらウェズンはそこだけは冷静に納得していた。というか詰めが……というか縛り方が甘かったのか猿轡が解けている。まぁ、そこは別にどうでも良かった。
なんなの、ヴァンお前故郷に戻ったら同行者の度肝を抜かなきゃいけないってルールでもあったりしたの……? と聞きたい気持ちもあったけれど、たとえ聞いたところで間違いなくそんな事はないと言われるだろう。
折角昨日は早めに休んだはずなのに、早々に疲れた気がするのは決して気のせいなどではない。




