いかにもな地下
誰もいない部屋。
この建物があった場所と、放置されていたであろう年月を考えれば誰もいないのは当たり前のはずなのだけれど。
しかし先程、確かにウェズンはこの部屋の中から誰かしらの声が聞こえていたと断言できる。
「ウィル」
「なに?」
「この部屋から声、聞こえてたよな」
「いい加減やめたいっていうやつ?」
「そんな事言ってたのか? あ、いや、何か喋ってるのは聞こえてたけど具体的に何を言ってたのかまではわからなかったから」
そう言って他に何か聞き取れた奴はいるのだろうかと思って見回せば、アレスとファラム、ザインとシュヴェルもまた首を横に振った。
何か聞こえてはいたけれど、しかしでは何を話していたのかまではやはりウェズン同様聞き取れなかったらしい。
「いつまで続くんだ、とか解放されたいって言ってたのは聞こえたけど」
唯一内容をある程度聞き取れたのは聴覚の優れたウィルだけであったようだ。
「それはそれとしてこの部屋何かくさくね?」
ずっと放置されていた建物の中。
生活をしていた人が誰もいなくなったとはいえ、一部の生活用品は残されていたし、家具も残された物がいくつかある。そういった物に染み付いた生活臭ではないか、と思ったがしかしこの部屋はそこまで物が残っている方ではない。
けれどもシュヴェルの言う通り何となく匂うのはウェズンも感じ取っていた。
例えるならばそれは、自宅ではなく久々に訪れた友人宅のような、他人の家に入った時のような感覚だった。
自分の家であるならばそこにある匂いはすっかり慣れたものなので気になる事はないけれど、しかし別の人の家で染み付いた生活の匂いは自分の家とは異なるものであるが故に。
その違いが鼻から伝わるのだ。
といっても、悪臭というわけでもないので玄関に入った直後くらいは気になっても、そのまま家の中に案内されて少ししてしまえばもう気にならなくなるようなものだけれど。
ウェズンだって最初はそういうものではないか、と思ったがしかし普通の生活臭とは何かが違った。
臭い、とシュヴェルが言ったように確かに何とも言えない嫌な感じであるのだ。
煙草の匂いというような、吸わない人からすると嫌だな、と思うような匂いであればわかりやすいのだが、どういう感じの悪臭かと問われるととても返事に困る。
鉄が錆びたような、潮の香りを強くしたような、といえばもしかして血の匂いかなこれ、と嫌な想像もできたのだけれど、それだけではないように感じられるのだ。
なんとなく、銀杏の香りのような、独特なものも混じっているような気がする。
例えばそこに魚介系の生ごみを混ぜたような、それが発酵して変に甘ったるい匂いも生じてしまったような。
更になんというか、泥のような匂いも混じっている気がしてならない。
他にも思いついた嫌な臭いは大体混じっているのではないか、と思えるのだが、あくまでもふわっと漂っている程度であるのでそれ以上はわからなかった。
だが、もっとしっかりと把握したいとも思えない。何が混じりあってできている臭いなのかを知ろうとすると、つまりそれはもっとこの臭いの原因が発生しているところへ近づかなければならなくなる、という事でもある。
ふわっとした程度の今ですら何となくヤな臭いだな、と思っているのにこれ以上ハッキリと臭いの元凶のあるあたりまでと考えると、下手をすればゲロをまき散らす可能性すら出てくる。
これが、複数の花の匂いが混じりあった結果安っぽい香水の匂いになってしまったもの、くらいであったならまだどうにか耐えられたとは思うが、どう足掻いても悪臭でしかない感じしかしないのだ。
時々何となく知っている悪臭の原因ぽいものを感じ取ったりはするけれど、直接的にこれとこれ! というような原因がはっきりしたものとは言い切れず。
ただなんとなく、服に臭いが染みつくのも嫌だな、と思ったのでウェズンはほぼ無意識のうちに風の魔法を発動させて室内の空気を循環させてどうにか臭いを散らそうとしていた。
明確に何の匂いとわかればまだ我慢のしようもあったかもしれないが、自分の知る嫌な臭いをいくつか混ぜ合わせましたよ、みたいな悪臭はどうしたって受け入れられなかったのだ。
救いは、この部屋以外からそういったものを感じ取るような事にはなっていなかった事だろうか。
建物の中に入って早々こんな臭いがしていたのなら、中に腐乱死体でもあるのかと疑って足を踏み入れるのを中止して建物をサクッと焼き払ったかもしれなかった。
流石に腐乱死体があるとは思っていない。
建物が封鎖されて放置されてからの年月を考えたなら、腐乱死体どころかあったとして白骨死体だろうし。
「じつはこの床下にねぇ、隠し階段があるんだよぉ」
「うわっ」
さてこれからどうしたものかな、と皆と相談した方がいいだろうかと思い始めていたウェズンの耳元で声がして、反射的に振り返る。
ウェズンの背後には、老婆がいた。
森の中で出会った老婆である。
突如現れたとしか言えなかった。
アレスたちも驚いて、咄嗟にウェズンから距離をとるようにしていた。薄情者め、とはウェズンだって思っていない。仮にアレスの背後に老婆が出現していたのなら、ウェズンだって咄嗟に距離をとっていたのだから。
「床下に、隠し階段?」
「そう。この下にね。困った事にこの下から出てくるはずだった人たちはもう出てこれなくなってしまった」
「あの、そういや監視者って……?」
「これを放置しておけば、きっと町はとんでもない事になる」
「あの」
「場所が地下だから建物を焼き払ったところで地下は無事である可能性も高くてね。どうにもできなかった」
「ちょっと」
「できれば地下に赴いて直接火をつけてくれるかい?」
「ねぇ?」
「頼んだよ」
「あっ、これ聞いてないやつだ」
最初は会話が成り立っているような気がしたものの、老婆は言いたいことを言い切ったのか、頼んだよと言うと同時にまたもや消えた。
年寄りって耳が遠くなったからなのかたまに相手が何を聞き返しても聞こえていないのか一方的に自分の言いたいことだけ言う、みたいな人もいるけれど、こういう時は困りものである。
仮に頼まれた事を引き受けるにしても、もうちょっと詳細を話せというような事があるのにしかし肝心の話が通じないのだ。そのくせ言った方は言ったのだから完璧に頼んだことをこなしてくれると信じている節すらある。
お年寄りが嫌われる原因の一つじゃないかな、とウェズンは思っている。
耳が遠くなって話が聞こえにくくなるのは仕方ないにしても、だからといってコミュニケーションを諦めるなと言いたい。
大体、森の中で出会った時はもっとちゃんと話が通じていただろうに。
隠し階段があると言うくらいなのだから、この床は何かすれば動いたりするのだろう。
仕掛けを探す事も考えたけれど、なんだか途端に何もかも面倒になってウェズンは魔術で床をぶち抜いた。
途端広がる悪臭。
嫌な臭いの原因はやはりこの地下からのようだ。
再び風の魔法で臭いを散らすようにしていく。
「いやまてよ?」
ふと思い立ってウェズンは風の魔法と浄化魔法を組み合わせた。
浄化魔法は瘴気を消すための魔法であるけれど、しかし浄化と言われるくらいなのだからこういったものにも効果を発揮しないだろうかと考えての事だ。
脳裏にファ〇リーズとかリ〇ッシュといったアイテムが浮かんだが、浄化魔法をそれと同類に語っていいかは謎である。
だがしかし、その発想は正しかったのか悪臭はぐんぐんと消臭されていった。
「その使い方は考えてなかったな……」
「というかまず複数の魔法を組み合わせようっていうのがおかしいっすよ。普通は魔法と魔術にしろどっちも複数を同時に発動させようとしたらとんでもなく魔力使うし、下手したら失敗して瘴気が発生するっすもん!」
そんな方法が……みたいに新たな気付きを得るところだったアレスに、ザインが言う。
どちらかといえばザインの言い分が世間一般では正しい。
そんなザインの言葉をウェズンは内心で「えっ!?」と思ってはいたのだが。
前世の創作物あれこれの影響か、魔法は組み合わせてなんぼの精神が根付いていたのが原因である。
ともあれ、悪臭がどんどん消えていくのはウェズン達にとって不利な事ではないのでお構いなしに消臭していく。そもそもそうしなければあまりの悪臭で布を鼻に押し当てたところで意味はないと思うくらいに酷い臭いだし、そんな状態で地下に行けなど土台無理な話なのだ。
世界一酷い悪臭の缶詰まではいかないかもしれないが、それにしたってこの悪臭が制服に染みついたらと考えると勘弁してほしいものがある。
洗っても洗っても洗剤や柔軟剤の匂いに紛れて漂う悪臭。
むしろいい匂いと悪臭が混ざる事で余計酷い臭いになるのが明らかである。
「というかさ、地下に何があってこんなえげつない悪臭してんの?」
「そんなん行けばわかるだろ」
ウェズンの疑問にシュヴェルが答える。まぁそうなんだけど。
そうなんだけど、それでも事前に心構えというか気の持ちようというか、覚悟というか、そういった精神的なあれこれは準備しておきたい気持ちだったのだ。
行けばわかるだろう。
けれども行ったらもうその時点でちょっと待って心の準備させても何もあったものではない。
「そこまで言うなら先陣切ってくれるんだよね?」
消臭魔法は絶えず発動しておくからさ、とウェズンが言えばシュヴェルも言い出しっぺの法則とでも思ったのだろうか。
「仕方ねぇなぁ。お前ひょろっちいし、真正面に立たせるには不安だしな」
はん、と鼻で嗤うようにして、シュヴェルは頷いたのである。
立場上敵対している関係なので、素直に言うのも憚られたのかもしれないな、とだけウェズンは思う事にした。
見た目厳ついしちょっとヤンキーみがあるタイプの兄ちゃんではあるが。
全く話が通じないってわけでもないのかもしれないな、とウェズンは内心で抱いていた偏見を修正したのである。




