ミスリードなんてなかった
躊躇ったのはほんの数秒だった。
異様な光景であるのは確かで、だからこそ。
だがしかし、先程からちらほら見かけていた黒い虫のようなやつが群がっているのでは……? とも思えてしまって、ウェズンは意を決して近づく事にしたのだ。
もし群がられた結果あぁも真っ黒に見えていて、それで助けを求めた結果があの呻き声であるのなら。
数秒とはいえ躊躇ってしまった事が後々になって手遅れになってしまうかもしれない。けれども、だからといってこのまま放置しておくわけにもいかない。
そんなわけでウェズンは一応周囲を警戒しながらも真っ黒人間へと近づいたのである。
「お、おい……!」
声を潜めながらも呼び止めようとしたヴァンに、ウェズンは手でそこで待機していてとサインを出す。
もし何かがあってウェズンも危険な目に遭ったとしたら、その時にすぐさま行動に移れる人がいないのは心許ない。何かあった時のためにとウェズンは一人だけで真っ黒人間へと近づいたのである。
そうやって一歩一歩近づいて行って、ある程度距離が縮んだ途中で。
ぐ、と何かに押されるような感覚がした。実際何かに押されたわけではなかったのだが、それでもそう感じたのは確かだった。
次に、空気が重く感じた。
これは、周囲の雰囲気のせいでそう感じるのかとも思ったがどうやらそうでもなかったらしい。
思わず一歩後ろに下がれば、重さは消える。けれどももう一度一歩踏み出せば、目には見えないが境のようなものがあって、それを超えた途端にそうと感じるらしかった。
「ウェズン……?」
「近づかない方がいい。目で見えないけど、ここから一歩先から瘴気がとんでもなく濃くなってる」
ウェズンが言えば、ルシアは「えっ!?」とあからさまに驚いたし、ヴァンは無意識に一歩下がっていた。
ヴァンの反応を見る限り、そっち側は瘴気濃度も特に問題ないはずだ。うっかり全員で近づいていたら、間違いなくここに一歩踏み込んだ時点でヴァンは倒れていただろう。
念の為自分に浄化魔法をかけてから、もう一度ウェズンは踏み出した。
普段は瘴気など余程濃くなければ感じる事もないが、確かにここは濃厚であった。
すぐさま汚染されるわけでもないが、瘴気耐性の低い者ならそれも時間の問題だろう。
モノリスフィアで瘴気汚染度をチェックしようかとも思ったけれど、そんな暇があるならさっさと蹲っている真っ黒人間をどうにかすべきだろう。
そう思って近づいて、そこで気付く。
「……異形化してる……?」
決して先程まで見かけていた黒い虫に群がられていたわけではなかった。それについては安心だが、安心できるのはその部分だけで。
大丈夫ですか、と声をかけようとしたものの、それより先に気付いてしまった。
確かに遠目で見る限りは人だった。
けれども近づいてみれば、人とは言い難い部分が見受けられる。
真っ黒でいっそ影のようなそれに肌の色つやだとかをどうにか言えるはずもない。
蹲りつつも、助けを求めるかのように伸ばされた片腕。それもまた真っ黒であった。
だがよく見れば、肘のあたりの関節がおかしい……というよりは、枝葉のように何かが伸びているのだ。
肘から手首にかけて、腕として言える部分には何があるでもない。だが肘から逆の方に枝でも突き刺さっているのかと思うような何かが伸びていて、そこから先はすぐに枝葉のように広がっていた。
よくよく見れば、蹲っている膝あたりからも、そんな感じで何かが伸びている。
咄嗟にウェズンは真っ黒人間に向けて浄化魔法をかけていた。
異形化しているのであれば手遅れである可能性はある。
けれども、軽度であれば戻る可能性も確かにあるのだ。
浄化魔法による光がパッと散る。
そもそもこの真っ黒人間が蹲っている場所は、瘴気がやたら濃厚で、それ故に一度や二度の浄化魔法では浄化しきれないのだろう、と理解するのも早かった。周囲の空気諸共浄化させるように、更に魔力を練り上げる。
「一応そっちも警戒しておいて!」
念の為声をかけてから、ウェズンは再び浄化魔法を発動させた。
真っ黒人間だけを浄化しようとしていた先程とは違い、周辺も浄化するつもりで。
その結果、周辺の瘴気が全て浄化されずに押し出される形でヴァンたちの方に向かえば、ヴァンが大変な目に遭うのは言うまでもない。だからこそ声をかけた。
ヴァンもまたそれを即座に察知したのだろう。まずは浄化薬を口に放り込んでいた。
事態がいまいち呑み込めないが、それでもここでヴァンが倒れたら後々面倒な事になるのはわかったのだろう。ルシアもイルミナも、気休め程度ではあるがそれぞれ浄化魔法を発動させる。
真っ黒人間とその周辺を浄化しようとしたウェズンの浄化魔法は、しかし全てを浄化できたわけではなかった。
ただ、それでも周囲に渦巻くようにしていた重苦しい空気は霧散したように思う。
真っ黒人間の身体の一部、枝葉のように伸びていた部分が白くなったと同時にさらさらと崩れていった。
「う、あ、ぁ……」
上がる呻き声は、先程と比べて苦痛の色が薄れている。とはいえ、精々気休め程度のものだろうか。
異形となった部分は若干どうにかなったとはいえ、未だに真っ黒のままで、この人が男なのか女のかもわからない。声で判断するには難しいものがあった。苦痛を耐えようとしているのか、それともそこから逃れたいがための声なのか、どちらにしても低くただの音として出ているだけのそれからは、性別というものがくみ取れなかったのである。
「あ、あぁ、あ……」
助けを求めるかのように伸ばされた腕に触れて、もう一度浄化魔法を唱える。
ほんの少しだけ、黒が薄れた気がした。
「ぁ、れは、魔女、じゃない……」
「え?」
ウェズンが腕に触れた事で、ウェズンの存在を感知したのだろう。真っ黒人間は黒すぎて顔も何もわからないくらい真っ黒だった。その黒が若干薄れた事で、顔のパーツ部分に影があるような感じで凹凸が多少わかるようになったとはいえ、どういう顔立ちをしているのかなどまではわからない状態で。
目も果たして開いているのかすらわからなかったのだ。
見えているのかいないのか。それすらわからない状態だったが、ウェズンが腕に触れた事で見えていなくとも誰かが自分に触れた事は理解したわけだ。真っ黒人間は思わずといった様子でウェズンの腕に縋りついた。
「あ、れは、魔女には、なれ、ない……」
途切れ途切れの言葉。囁くような声であるが故に、ほんの一瞬でも別の方向に意識を向けたらあっさりと聞き逃してしまいそうだったが。
しかしウェズンは確かに聞いたのである。
「え、あの、ちょっと?」
聞き返そうというよりは、もうちょっと詳しく聞きたいという方が強かった。
けれども。
しわがれたような声で告げられた言葉の続きはいつまでたってもこなかった。
縋りついていた腕から力が抜けて、そのままずるりと倒れ込むようにして真っ黒なその人はぴくりとも動かなくなる。
と、同時に。
ざぁっという音がした。
「うわっ!?」
「ちょっ、なになになに!?」
ルシアとイルミナの悲鳴のような声が上がり、そちらへ視線を向けようとすれば黒い虫が一斉に同じ方向へ進むのが見えた。どこにこれだけの数がいたんだと言いたくなるくらいの数。黒い絨毯が動いていると言われたら、恐らくは信じただろう。こんな絨毯イヤすぎるけれども。
虫たちは倒れた真っ黒な人とウェズンを避けるように動いて、そうしてゴツゴツとした岩の壁に吸い込まれるようにして消える。
亀裂の間から、とかではない。本当に吸い込まれるようにしていなくなったのだ。
移動していた時の音すらも聞こえなくなって、途端に不気味なくらいの静寂が訪れる。
ウェズンはただじっとその岩壁を見ていた。
「瘴気はどうなってる?」
見ていたといってもほんのわずかな時間だ。
安全確保のためにヴァンはそれを問う必要性があったし、だからこそウェズンはモノリスフィアを取り出して瘴気濃度を確認した。
先程まで感じていた空気の重さも今はない。瘴気濃度の数値も問題ないだろうくらいまで下がっていた。
表示された瘴気汚染度の数値をヴァンに見せるようにモノリスフィアを掲げれば、ヴァンにとっての危機的状況は脱したわけなので、ホッと安堵の息を吐いてこちらへと近づいてくる。
安心したと言っても、瘴気濃度に関してだけで状況を見れば安心できるような状況とは言い難い。
黒いままの人はどうやら事切れてしまったようだし、何が何だかさっぱりだった。
とりあえずウェズンは先程聞いた言葉をヴァンたちにも情報として共有する。
「魔女ではない」
「魔女にはなれない」
「だからなんで私を見るの!? そりゃあ半人前だけど! まだ魔女って堂々言い切れないけど! でも私がその人……人? まぁ人でいいわね、その人にそんな風に言われる事って、ある!? 私の事じゃないと思うの!」
ルシアとヴァンの訝しむような視線を受けて、イルミナはともあれ叫んだ。
あまりにも言葉に対して状況が一致している人物がその場にいたので致し方ない。
だが確かにイルミナの言う事も一理、なくはないのだ。
あの真っ黒人間がどういう立場の存在であるか、ウェズン達は知らない。
故に、いかにもイルミナに向けて言われたような気がする言葉であっても本当にイルミナに向けてのものかは不明のままだ。
「…………はい、今思いついた事があります」
あまりにも安直ではあるけれど。
ここに来た時点で得た情報はそう多くない。が、それでも。
安直すぎる想像を、ウェズンは一先ず口に出したのである。




