メシマズの勝利
――どう足掻いても勝ち目がない。
目の前の少女がそう判断しただろう事をワイアットは薄々察していた。
さぁどうする。どう出る。
果敢に向かってくるもよし。それならばこちらも真っ向から受けて立とう。
二人を置いて逃げる? 少しの希望を与えて、逃げられると油断した時点で追いついて仕留めてみせよう。
命乞い? 内容次第だけれど、まぁ助けるつもりはこれっぽっちもない。
ワイアットと対峙した今までの連中と同じように、いずれかの行動に出ると判断していた。
今更、それらの手段で自分を出し抜けるはずもないとワイアットは思っていたし、実際自分が遅れを取るとはこれっぽっちも思えなかったのだ。
さぁ、君はどういう行動に出るのかな?
どう出ても結果はわかりきっている。
けれども、そのわかりきった結果の中で彼女がどれを選択するのか。
ワイアットはある種の微笑ましささえ感じながら、イアの行動を待った。
ちら、とイアの目線が移動する。
ヴァンとルシアを包んで繭のようになっている糸。
ワイアットならあの糸を破壊するのも容易いが、わざわざ破壊する必要性を今のところ感じない。
この期に及んで二人を助ける算段を考えているらしい。
見捨てて逃げるという線は消えた。
では、戦って勝利をつかみ取ろうというのか。
なんて無謀な。
ワイアットが自分から死んでやろうとでも思わない限り、それは無理な話だ。
どれだけ手加減しても、恐らくイアに負けるのは難しい。
す、とイアが片手をあげる。
ちょっと待って、というジェスチャーにも見えるし、授業の時に発言をしようとしてそっと挙手をした時のようにも見えた。
「あの、ちょっといいですか」
待てというのではなく、どうやら挙手の方であったらしい。
命乞いか……
そう判断して、ワイアットはさて、では一体どのような命乞いがされるのだろうかと思いながらも「どうぞ?」と告げる。
けれどもイアが口にした言葉は命乞いとは少し違った。
いや、遠回しに命乞いなのだろう、とは思う。
最後にせめてやり残したことを……なんて言って命乞いをしてきた相手と同じ分類なのだろうとも。
二人を見捨てて逃げる事は無理。けれど、二人を救ってこの場を切り抜けるのも無理。
そう判断した結果、いっそ仲良く皆で死のうね、という結論に至ったのだろうか……などとワイアットは思考した。
それならいっそ二人を見捨てて自分だけでも助かるかもしれない可能性を模索した方が余程有意義だとは思うのだが……
イアはリングから一つの箱を取り出した。
厚さはそこまでない。
本一冊よりも薄いかもしれない程度にしか厚みのない箱である。
大きさとしては文庫本一冊程度だろうか。
箱としてみれば小さく、中に入っている物も限られてきそうな箱だ。
落ち着いた色合いの、紙製の箱。少しばかり頑丈な厚みはあれど、それでもその箱は床に落として踏みつければ簡単に壊れてぐしゃぐしゃになるような――そんな箱だった。
少し前に、世話になった人だとか友人だとかにチョコレートを贈る、という催しがあったのはワイアットも把握している。世界規模で行われるそれは、ワイアットも何度か経験した。
まぁ、普段甘い物を好んで食べる事はないけれど、それでも時々口にするくらいならいいか、と思える程度で邪険にするようなイベント行事でもない。
周囲からやたらとチョコをもらう事も与える事もないので、そう思えるだけだろうか。
もし周囲からもっととんでもない量のチョコを与えられていたならば、辟易としてそのイベント行事の事を耳にするだけで拒絶反応が出たかもしれない。
「折角だから、最後に食べていいですか」
命乞い、というよりは、心残りを少なくしようと思ったが故の――覚悟とみるか諦めとみるか何とも微妙な願い事。
軽く振られた箱の中でカサ、と小さな音がする。
「それくらいならいいよ」
もっと時間のかかるものを頼まれていたなら、時間稼ぎをして何かをするつもりなのだろうとワイアットだって勘繰った。時間を稼ぐ事で何を仕出かすのだろうかと興味を持ちつつも、多分面白そうならそれでも許可をしただろう。
とはいえ、今取り出した箱はそう大きな物ではないし、蓋を開ければ中から出てきたのは予想通りのチョコレート菓子。
一口サイズの大きさで、一つ一つ並べられたそれはどう見てもトリュフチョコレートだ。
表面に塗されている粉の色からして、ココアパウダーと粉砂糖、あとは……緑色のはなんだろう。
抹茶粉末なのだが、ワイアットには馴染みがないためそれだけがよくわかっていなかった。
ワイアットが許可を出したからか、イアは早速一つ摘んで口に運ぶ。
口の中で少し溶けてから、もぐもぐと咀嚼して飲み込むのを眺めた。
「……折角ですからお兄さんもどうぞ」
とてとてと警戒心も何もあったもんじゃない感じで近づかれて、箱を差し出された。
別に美味しそうだなぁ、とか思って見ていたわけではない。
ただ、チョコを食べるだけに見せかけて何か仕掛けてくる可能性を疑っていただけだ。
接近した時に不意打ちを仕掛けてくる可能性も考えたけれど、しかしそういった事は一切なかった。
まぁ、下手に距離をとったとしても、ワイアットなら一瞬で距離を詰めてイアを仕留めるなど造作もない。
近づかれたとしても、遠ざかろうとしてもワイアットにとってはどちらもさして変わりはなかった。
じ、とイアの様子を見る。
箱を持つ手が不自然に震える様子はない。
震えを隠そうとしているわけでもない。
イアは一つ、また一つとチョコを口に運んでいく。
見慣れたトリュフチョコレートも、白い粉がまぶされているチョコも、緑色の粉がついたやつも順番に。
ふわりとチョコの甘い香りが鼻先をくすぐった。
こちらに勧めてきた事で、もしや毒でも入ってる? と思ったがチョコを手に取る様子から、不自然さはない。
例えば毒が入っている部分とそうじゃない部分があったとして、毒入りを不自然に避けている感じはしなかった。
本人が毒に耐性のある体質であるなら気にしなくても問題ないのかもしれない。
だが、それはワイアットにも言える事だった。
彼は幼い頃から毒に慣れるために様々な毒を摂取してきた。
なので、ちょっとやそっとの毒では死なない。それどころか体調不良になる事もない。
過去に自分を害そうとして毒を盛ってきた相手は、そんな事など知らなかったのだろう。自分が平然と毒物を摂取したのを目の当たりにした時の、あの驚愕の表情!
目論見が外れて、もし毒がきかなかった時の事を考えていたならともかく、確実に死ねるだけの強い毒、致死量だ。きっと失敗した時の事なんて思わなかったのだろう。それ故に、失敗した時の顔は見ものであった。
もし、このチョコに毒が入っていたとしても。
自分に何の効果もない。
本当にただのチョコレートであるならば。
毒も何も入っていなかったら。
少しだけ可哀そうな気がするので、殺す時はなるべく苦しまないようにしてあげようかな。なんて思い始める。本人は一人で食べきるには多いと思っていただけでこちらに勧めただけだとしたら、それを勝手に毒入りかもしれないなんて疑ったのだ。
もしそうなら、死ぬときに不必要に苦しめるのは可哀そうかな、なんて思ってしまったのだ。
「そうだね、いただくよ」
にこ、とかすかに微笑んで、ワイアットはチョコレートを一つ、指先で摘まみ上げた。
緑色の粉のやつはちょっとよくわからなかったので、見慣れた普通のやつだ。
漂う匂いは普通にチョコレートだ。違和感はどこにもない。
無味無臭の毒が入っているならこの時点で気付けるはずもないけれど。
ワイアットは口を開けて、それをぽんと放り込んだ。
口の中でチョコの香りが広がって、溶けたチョコを飲み込んで。
「ん……?」
違和感はワンテンポ遅れてやってきた。
甘く、それでいてほろ苦さを感じさせるチョコの香り。
溶けたチョコが舌の上でその味を主張していた。
普通のチョコだ。
こくん、と溶けたチョコを飲み込んで――
直後だった。
とんでもねぇ不味さが襲い掛かって来たのは。
「……は、っ……!?」
何が起きたか理解できなかった。
ただ、ひたすらに不味い。
え、何これ。チョコだったよね? チョコだったよね!?
甘さの後にほろ苦さを感じるはずのチョコは、確かに最初はそうだった。飲み込んで、そこからだ。
再び舌の上に想像以上の甘ったるさが襲い掛かってきて、うわ甘……と思う間もなく今度は舌が痺れる程の苦さを体験した。
舌が痺れる時点で毒を疑ったが、そもそも世の中に出回っている大抵の毒はワイアットに効果がない。
ではなんだ。未知の毒か? そんなはずは――
そう思っているうちに、口の中にピリピリとした感覚が広がる。
辛さ。苦さの後にやって来たのは辛さだった。ピリ辛、程度で済めばいいがそんな可愛らしいものではない。どんどん辛いと感じるようになってきて、口の中はまるで溶岩でも飲み干したかのように熱く感じる。実際溶岩なんて飲むものではないとわかっている。これはあくまでも例えだ。
けれど、それくらいの熱量に思える程の辛さだった。
吐き出そうにも、既に口の中には何もない。
溶けたチョコは飲み込んで既に胃の中だ。
口の中だけが大惨事かと思ったが、そこから更に胃の中に鉛でも流し込まれたような重さを感じた。
ズキズキチクチクといった痛みが胃を刺激している。
その胃の痛みが、口の中で味わってしまったチョコの不味さを更に際立てているかのようだった。
固形物であったなら吐き出そうと思えたが、溶けたチョコは唾液と混じり既に胃の中。胃液に混じっているだろう。胃液ごと吐き出そうと思って咄嗟に口の中に指を突っ込んで喉奥を刺激したものの、胃液がせり上がりかけた途端、猛烈に嫌な予感がした。
吐く、となれば当然口からだ。
舌の上を先程飲み込んだチョコが混じった胃液が通過する、と考えた途端猛烈に嫌な予感がしたのだ。
そのせいで、喉のあたりまで逆流しかけていた胃液をそのまま口から吐き出さず結局再び飲み込んで吐くのを回避する。
喉の奥――どころか食道なんてもう味など感じるはずもないのに、それでもいやぁな味を感じた気がした。
「ふ……っ」
口を手で押さえ、どうにか堪えようとする。じわ、と知らず目に涙が浮かんだ。泣きたいわけじゃない。生理的なものだ。
くらくらして、立っていられなくなる。
なんだ。
なんだこれは。
どうして目の前の少女は平然とチョコを食べているんだ……!?
「大丈夫ですか? もしかして甘いの苦手でした? 口直しに紅茶ありますけど飲みますか?」
言いながらイアはワイアットと目を合わせるようにしゃがみ込み、チョコの入った箱を床にそっと置いてリングから紅茶が入っているらしきボトルを取り出した。
キャップを開けた途端ふわりと優しい紅茶の香りが漂う。
ボトルからほのかな湯気が立っているのが見えた。
「もしかしたら少し熱いかもしれませんが……」
「…………っ」
そのまま差し出されたが、しかしワイアットはそれを素直に受け取れなかった。
毒を疑ったとかではない。
ただ、今現在自分がどんな目に遭っているかを思い返せば、素直に受け取れるはずもなかった。
「えっと、大丈夫ですよ、これ普通の紅茶なんで。砂糖とかも入ってないです」
言って目の前で一口紅茶を飲んでみせたイアに、ワイアットは纏まらない思考を無理矢理にでも纏め上げた。
自分は毒に耐性がある。目の前の少女ももし耐性があったとして、そうだとしてもだ。
自分の方が耐性は圧倒的にあるはずなのだ。幼い頃からありとあらゆる毒を摂取してきたのだから。普通の人間なら確実に死に至る毒であっても、自分は平然と飲み干す事ができる。
それ以前に、酷い症状だが自分の本能が告げている。これは毒ではないと。
毒ではない。
本能だとか勘といった、自分以外が言えば不確か極まりないものでも、それでも自分がそう感じた以上それは絶大な説得力を持っている。他者にそれを説明すれば途端にあやふやで不明瞭な代物に変わるが、自分自身を納得させるだけであれば、これ以上のものはない。
その自分自身が告げているのだ。
毒ではない、と。
差し出された紅茶からも、毒が入っているようには思えなかった。香りだけならどこまでも普通の紅茶である。
チョコは、何かの間違いなのではないか? そう思い始める。
なんでか奇跡的に不味いチョコがあったのだろう。一体どこで製造されて売り出された物なんだ。
そんな風に思いながら、ワイアットは手の震えを抑えるようにしてイアが差し出したボトルを受け取る。
彼女が口をつけた場所から少しずらして、ボトルに口をつけて流し込んだ紅茶は――
香りこそ普通の紅茶であったのに、味はとんでもなく不味かった。
「ぐ……」
なんだ? 認識がずれている?
香りが紅茶で口の中に入った途端その香りが広がったというのに、しかし味は紅茶ですらない。なんだ。
なんだ、これは。
どぶ、という単語が脳裏をよぎる。
生憎泥水を啜った経験もないし、ましてや下水の水を口にした覚えもない。
けれど、そういった諸々が脳裏をよぎるのだ。
香りは紅茶なのに味がそういった別の何か。
しかも先程口にしたチョコの味と混ざるようにして、更なる不味さをワイアットの味蕾に叩き込んできた。
ぐにゃ、と視界が歪む。
まずい。意識を保っていられない。
吐き出そうにも、口の奥に指を突っ込んで無理に吐こうとするだけの余力がない。
「ぉ……え……っ」
吐きそうだけど、吐き出せない。
吐いたら楽になれるとわかっているのに。
いや、本当にそうだろうか?
吐けば更なる地獄が待っている。そんな予感もする。
吐くべきか、我慢するべきか。
正解がわからない。
そんな風にぐるぐると考え込むうちに、ワイアットの身体はマトモに立っていられなくなって――
どさ、という音が自分が倒れた音だと、果たしてワイアットが自覚していたかどうかは定かではない。




