葛藤の果て
お腹が空いただけ。
そう言えばヴァンはなぁんだと言うようにあっさりと信じた。
確かにお腹は空いている。
朝食べてから昼はとうに過ぎたのだから、空腹ではある。
学園で授業を受けているだけなら、座学だけであったなら別に昼を抜いても問題はない。
しかし朝からほぼずっと移動して植物を採取して、時として土を掘り返したりといった作業もした事で体力をかなり消耗した。
魔物と遭遇もしたし、ぼーっと突っ立っていたら攻撃を食らう事になりかねなかったので、攻撃を回避するのだとか、他の人の攻撃の時の邪魔にならないようにだとかで立ち回って思った以上に動き回ったりもした。
そういう意味では確かに空腹で、いつお腹が鳴ってもおかしくはないのだけれど。
そんな状態に反してルシアは別にそれを辛いと思ってはいなかった。
ルシアは基本的に肉体的に脆い方だと思っている。痛みに対する耐性が、というのもそうではあるのだけれど、暑いとか寒いといった気温の変化もそうだし、空腹もそう。
そういったもの全般に弱い自覚はあった。
だから普段であれば、お腹が空いてる今の状態は、
「あーもう無理お腹空いて動きたくないいいいいい!」
と喚きたくなる程度にはつらいものであるはずなのだが。
空腹がどうした。
そんなもの、今となってはどうでもいい。
ルシアの心境は今現在、こうなっていた。
それというのも進級課題とか以前に、ルシア本人の事情によって彼はストレスで胃がキリキリしていて空腹どころではないのだ。
相乗効果でストレスで胃がキリキリしているところに空腹からくる腹痛も起きてる可能性はとても高いが、ルシアにしてみればそんなの区別もつかないし、ルシア本人の心境としては空腹? は? 一食抜いたくらいで人間死にゃしねぇよという状況である。
いつもならお腹空いたご飯食べよう、え? 休憩まだ? とかそういう感じであるはずが、この荒みよう。
なんだったらここ数日、ルシアはあまり食事をとっていなかった。
いや、食べてはいるのだが、いつもより量が少なめになりつつあった。
原因はわかりきっていた。
誰にも相談できるはずもないが、ルシアにはやらなければならない事があった。
恐らくそれを実行すれば自分もただでは済まないだろうけれど、しかしやらなきゃいけなかったのだ。
虎視眈々と機会を窺い、チャンスを逃さぬとばかりであったのだが、しかし悲しい事にチャンスはまったく巡ってこなかった。
いや、一応それっぽいのがなかったわけではないのだが、そのチャンスを掴みとれなかったと言ってしまえばそれまでである。
あの頃はまだ、機会は他にもあると思っていた。
まだ時間に余裕もあると信じていた。
けれどもそうやって次があるさ、と思い続けて。
気付けば猶予はなくなりつつあった。
勿論焦りもした。
そうしてどうにか行動に移ろうと思っても、そういう時に限ってチャンスが全く訪れない。
チャンスがどうとか言ってないで、強引に事に及ぼうかとも思ったがしかし明らかに分が悪い。
彼を殺さずに、どうにか目的を果たせないかとも思ったけれどそれもうまくいかなかった。
本人が知らないのかしらばっくれているのか……ルシアには判断がつけれられなかったけれど、多分知らないのだろう。
けれどもそうなるとやはり彼を殺すしかなくなる。
彼を殺して――それから?
それから、彼の身内を引きずり出すしかない。
妹は血の繋がりがないらしいので、狙ったとしても意味はないだろう。
仮に妹を殺したとしても、兄を敵に回す事になっても果たして親が出てくるかどうか。
何か情報を引き出せやしないだろうかと思って妹と仲良くしてみたけれど、わかった事といえば、まず間違いなくあの兄妹、親から何も知らされていないという事だ。
それとなく、本当にそれとなく聞き出してみたけれど知っていたなら引っかかっただろう事も全部スルーしたのだから。兄はともかく妹は、あまり嘘が得意ではなさそうな性質だ。知っていて知らない振りができているというはずもない。
目当ての物さえ手に入れば殺す必要は何もないのだが、しかしその物がどこにあるのかわからない。
回収できなくても、どこにあるかがわかれば何とかなるというのに……
――残された時間はあまりないぞ。
そう告げられた。告げられてしまった。
こっちの事情を汲んでくれるなんて事はないだろうから、タイムリミットがくれば本当に容赦など何もなく……
(そうなれば、姉さん……いや、ルチルは……)
血の繋がりはない。
ないからこそ、自分の代わりにはならない。
けれど。
追放されるような事になれば、恐らく一人でどうにかできるはずもない。
彼女は自分と違って外で生きていけるような知識も何も与えられなかった。文字通りの飼い殺し。
自分と同じ血筋であればもう少し利用価値はあっただろう。その分命の保証も疑わしくなってくるが。
利用価値なんて今現在、ルシアにとって人質として使える程度だ。つまり、いずれ来るだろう日までにルシアが目的を達成できなければ彼女はルシアに対する見せしめとして簡単に放逐されるだろう。
それも、決して一人で生きていく事もできそうにない土地へ。
そうなる前にウェズンを殺すべきだった。
そうして彼の身内を引きずり出さなければならなかった。
もっと言うなら、魔晶核さえ入手できてさえいれば……!
彼が持ち出してしまったアレを取り返す事ができればウェズンを殺す必要性はどこにもない。ない、のだが奪った事に対する報復でもあると言われてしまえばルシアは断り切れなかった。そもそも断る以前に、そんな権利自分には与えられていないのだが。
やりたくない。魔物を仕留めるのとはわけが違う。人を殺すだなんて、そんな簡単にできるはずもない。
あいつとは違う。
あいつみたいに人を殺す事が楽しいだなんて思えるはずもない。
少し前に見かけた彼の姿を思い出す。
彼であれば、きっとウェズンの事なんて簡単に殺してみせたのだろう。躊躇いも迷いも一切なく。
こんな風に悩むくらいなら、もっと早くに行動に出るべきだった。
手段を選ぼうなんて思うべきではなかった。
被害を最小限に、なんて考えるべきでもなかったのかもしれない。
いっそ周囲を巻き込んでしまえば……
いや。
それもどうだろう。
仮におおごとにしたとして、それで果たしてどうなるのだろう?
裁かれるだろうか。
何の権力も持たない者であったなら、裁く事は簡単だっただろう。
けれども彼らには役目がある。簡単に他者に任せられない重要な役割が。
きっとルシアがおおごとにしたとしても、恐らくはそれとなく握りつぶされるのではなかろうか。
そうなる前にルシアの方こそが処分されている可能性の方が圧倒的に高い。
今こうしてルシアがここにいる事だって、大分譲歩された結果なのだから。
こうなる前に。
ルチルを連れて逃げだせばよかったのだろうか……?
いや、どのみちすぐ見つかるだろう。
考えてもどれが最善なのか、ルシアにはもうわからない。
どの選択を選んでも、どれもが最悪の結果になるのではないか。そうとすら思える。
考えても、どうするのが一番いい方法かなんてわからない。
やりたくはないけれど、やるしかない。やらなければ、自分のかわりにルチルが酷い目に遭うのだから。
「ね、ルシア、顔色悪いけどだいじょぶそ?」
ヴァンが話しかけてきた後は、特にこちらにこれ以上関わる様子もなかったからこれからの事を考えこむ形になっていたが、くん、と袖を引かれてルシアの意識が――今まで考え込んでいた事を霧散させるように中断された。
相当顔色が悪いのだろうか。こちらを見上げてくるイアに、それでもルシアは「へいきへいき」となるべく軽く聞こえるようにこたえる。
何もかもを巻き込んで、いっそ無関係のこのイアを使えばウェズンを始末するのもそう難しくはなかったかもしれない。
けれど。
血の繋がりのない妹。
血の繋がりなんて何もないのに自分を姉だというルチル。
彼女の方が年下なのに……
イアを巻き込むというのは、つまりあいつらと全く同じになってしまう。
目的のために手段を選んでいられないのはわかっている。いるけれど、それでもルシアはイアを巻き込めなかった。
「まぁほら、建物の中で少し休めば良くなるよ」
ルシアの言葉に本当か? と疑いの目で見ていたイアに更にそう続ければ、イアもそれ以上食い下がるような事はしてこなかった。
どっちにしろ、ここでもうだめだ、なんて言っても困る以外の何物でもないのだろう。
「た、倒れたら引きずってくからいつでも言って」
「言った時点で手遅れじゃんか……」
気持ちはありがたいけど、どう考えてもそれ、足引きずってく感じのやつだよね。
とまでは言えなかった。
仮にこの場でルシアが倒れたとして、そうなったらヴァンかサーティスあたりの手を借りる事になるのだと思う。
サーティスはどうだか知らないが、ヴァンもあまり力持ちという感じはしないので下手をすればイアとお互いに片足だけ持って引きずっていきそうだな、なんて嫌な想像も否定できなかった。
「倒れるなら建物の中で倒れるよ」
「そしたらゆっくり休んでね」
倒れた時点で休む以外何もできないだろうに、とは思うもののそんな軽口が今はどうしようもなく有難かった。これ以上何を考えたところで、結局のところやるべき事に変わりはないのだ。
この課題を終えて学園に戻ったら、今度こそウェズンを殺す。
そうしたら、きっとイアは怒るだろうなぁ……
わかってはいるのだ。
わかってはいる。
こんな風に軽口でやりあうのもきっと最後だ。
そんな風に思いながら、ルシアはイアの言葉に呆れているように見えるような笑みを浮かべたのである。




