犬と馬車と高い靴
馬車に揺られ約五時間。
それはシエラにとって思わぬ苦労の道行となった。
急に白い礼服を渡され、「着替えろ」と言われたまではいい。
「仮面で大して見えてないから」と言い張られ、異性の隣で着替えさせられたのもまあいい。
だが、その異性が本当に何も喋らないのだ。機嫌の悪い猫だってここまで黙りこくってはいない。
家業柄、シエラの周りにはお喋りな人が多い。シエラはむしろ寡黙と言われる方だ。
(上には上がいたーーということなのね……)
世界は広いとシエラは冷や汗を流す。その手には嘘のように白い手袋。豆が多いシエラの手には似合わない、お姫様のような手袋だ。
聖女は働いたりはしないだろう。不思議ではないが、手袋が少し合わなくてシエラは困っていた。
「……見えてきた」
馬車に揺られ、城門が見えてきたあたりで、クロードは緊張したように言った。
「いいか……貴女が偽物だと知っているのは今は俺だけだ。世話係など近しい者には話をするが、城の者には貴女が本当の聖女だと通す。貴女はここでは聖女として振舞ってくれ」
「あ、はい」
「礼儀作法などはあまり考えなくて良い。その服も、窮屈だろうが今は我慢してくれ。後で合ったものを寄越すから」
「はい……」
聖女は小さく可愛らしいスタイルをしているようだった。胸だけぶかぶかなのが余計シエラの屈辱を煽る。
「あのぉクロード様。この服って……」
「様を付けるな。外では『クロード』もしくは『犬』と呼べ」
「はいクロー……犬? え?」
犬?
「カローナ王女は私を犬と呼んでいたからな」
「ん? ちょっと待って一回止めて」
「呼び方はそれで統一しろ。あの女は俺の名前は忘れているから、呼ぶと都合が」
「ちょっと待ってまだ私ついていけてないから」
何が? みたいな顔でクロードはシエラを見る。
「? 何か今ので分からないことがあったか?」
「分からないことしかないんですけど……犬ってあの犬ですか?」
「まあ、一般的な意味の犬と大差ない」
つまりはその犬である。およそ人間への呼称に使う言葉ではない。
シエラは理由を聞くかどうか迷った。
あくまでもそれは、聖女と彼の二人の話だ。シエラが無闇に首を突っ込む話ではない。ひょっとしたらそういう趣味かもしれないし、あんまり首を突っ込むわけにはいかないし、でも。
「……趣味ですか?」
「違う」
かつてない剣呑な響きだった。
・・・
程なくして馬車は王宮に到着する。
遠目からでもよくわかる豪勢な様子に、シエラは思わず息を呑んだ。ゴテゴテとしたーーという言い方は少し悪いものの、金や銀をあしらった豪華な装いだった。
(税金ってこういうことに使われてんのねぇ。なんか複雑な気分)
馬車は王宮の正門前に止まった。門番が慌てたようにビシッと背を正す。
先に馬車からクロードが出た。大きい身体がのっそりと出ていき、大きな手が差し出される。一応主従関係にあるので、ということだろう。
応えてシエラは馬車から身体を出した。王宮の庭園中に植えられている植樹林の香りが心地よい。クロードは仮面で顔が見えないが、あくまでも機械的にシエラに手を伸ばしていた。
そしてそのクロードの手を取って出た瞬間。
「ぉうわっ!?」
聖女らしからぬ声を上げ、シエラはすっ転んだ。足に合わない高い靴と、馬車と地面の高低差によるものだーー思いっきり泥に突っ込んだ。
「殿下、お怪我は」
「大丈夫でs……大丈夫よクロード」
ここはもう王宮の真前。誰が見ているか分からない。立ち上がらせてもらいながら、シエラは恥ずかしそうに笑う。
「あ、はは。やっちゃったわ」
「まあ、最初は慣れないものですから」
「まぁね。でもありがとう。クロードも怪我はない?」
「……」
シエラがそう言うと、クロードは何故か呆気に取られたように黙った。
なんのことはない。転びそうになったのを助けてもらったからお礼を言った。
たったそれだけのことなのに、その時見せたクロードの顔があまりに印象的で、シエラは少しだけ息が止まる。
「クロード? 大丈夫?」
声をかけると、クロードは我に返ってふふ、と笑った気がした。ーー自虐的に。
「その顔から『ありがとう』だなんて。初めて聞いたから」
「はい? いや、それはそうでしょう。私達は今日会ったばかりなんですし」
「そうだな。そして本物が見つかったら終わりになる関係だ」
少し悔やむようなクロードに、シエラは不思議そうに首を傾げた。クロードは聖女を探している。悔やむことなんて何もないはずなのに。