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香雪  作者: 野口 ゆき
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注釈

注1【(とう)


中国王朝(618年~907年)の一つ。

(ずい)(581年~618年)を滅ぼした李淵(りえん)(隋の皇帝・煬帝(ようだい)(※注17)の従兄弟。唐王朝初代皇帝)により建国。

都は、長安(ちょうあん)(現在の陝西省(せんせいしょう)西安市(せいあんし))。


唐王朝の根底には、『生民論(せいみんろん)(天子が、民の生活を安定させる)』と『承天論(しょうてんろん)(天から命を受けた天子が、地上を統治する)』と言う理念があった。

それを基に、政治は行われた。


唐は、隋の『律令制(りつりょうせい)(皇帝を中心とした中央集権的統治制度)』を受け継いだ。

『律』とは、刑法。

『令』とは、刑法以外の法。

また『律』『令』の補完の為、『(きゃく)』『(しき)』と言う法令もあった。

『格』は、『律』『令』の増補改訂法令。

『式』は、『律』『令』『格』の細則。


中央集権的統治の為、唐王朝は『律令制』に基づき政治制度、刑罰制度、身分制度等を整えた。


『律令制』の根幹をなす3つの制度が、『均田制(きんでんせい)』『租調庸(そちょうよう)』『府兵制(ふへいせい)』である。


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均田制(きんでんせい)


国が民に土地を与え、収穫の一部を国に納める制度。

丁男(ていだん)(21歳~59歳までの男性)には毎年『口分田(くぶんでん)』が与えられ、60歳で半分を返還。

還授(かんじゅ)』の場合、死ぬと全てを返還しなければならなかったが、『永業田(えいぎょうでん)』は世襲が可能であった。

妻や奴婢には班給されず、官人(かんじん)(官吏)には『職分田(しきぶんでん)(官職を辞する時は返還)』『公廨田(くがいでん)官衙(かんが)(役所)の費用に充てる田)』『官人永業田』が支給された。

『口分田』を与えられた農民には、『租調庸(そちょうよう)』や『雑徭(ざつよう)』、兵役の義務があった。

戸籍(土地台帳)や計帳(租税台帳)も作成され、国が農民を直接管理する事が出来た。

しかし労役や度重なる重税、土地所有化(貴族による荘園(しょうえん)(私的所有地)化)、自然災害による土地不足の為に農民は『逃戸(とうこ)(本籍地を離れる)』。

唐王朝は『逃戸』により『客戸(きゃっこ)(土地を持たない小作人)』となった者を戸籍に組み入れようとしたが(括戸政策(かっこせいさく))、結局元に戻す事は出来ず、安定した税金徴収も農民の直接管理も出来なくなる。

8世紀頃から、『均田制』は次第に機能しなくなっていった。


日本はこの『均田制』に倣い、『班田収授法はんでんしゅうじゅのほう』を制定。

日本では戸籍が6年に一度作成されたので、田の支給も6年おき(六年一班)であった。


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租調庸(そちょうよう)


『均田制』で口分田を与えられた丁男に課された租税。

『租調庸』の他にも、『雑徭』があった。


『租』 ・・・ 粟などの穀物2(こく)(約120リットル)を納める義務。

『調』 ・・・ 絹2(じょう)(約8メートル)と真綿(まわた)3両を納める義務。

『庸』 ・・・ 『正役(せいえき)(中央官庁での年間20日の労役)』の代わりに納める税。

        『正役』1日=絹3尺(約1メートル) または 布3.75尺。      

『雑徭』・・・ 地方官庁での年間40日の無償労役。

        『雑徭』2日分=『正役』1日分。

        『庸』を『正役』20日分納めれば、

        『雑徭』も40日分免除された。


農民の『逃戸』により『均田制』が維持出来なくなり、『租調庸』『雑徭』も無実化していった。

その為、『両税法(りょうぜいほう)(夏と秋に税金を徴収)』を制定。


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府兵制(ふへいせい)


『均田制』で口分田を与えられた丁男に課された兵役(徴兵制度)。

農閑期、『折衝府(せっしょうふ)(地方に置かれた軍府。全国に約600置かれた)』に集められて訓練を受け、1年に1~2ヶ月『衛士(えいし)』として首都を防衛。

3年間、防人(さきもり)として辺境を警備した。

『均田制』の崩壊により、『募兵制(ぼへいせい)(兵を募集)』に切り替わった。


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その他、『太政官制(だじょうかんせい)(『太政官』を最高機関として政治を行う)』や『三省六部制(さんしょうりくぶせい)(『三省(『中書省(ちゅうしょしょう)』『門下省(もんかしょう)』『尚書省(しょうしょしょう)』『門下省(もんかしょう)』)『六部(『吏部(りぶ)』『戸部(こぶ)』『礼部(れいぶ)』『兵部(へいぶ)』『刑部(けいぶ)』『工部(こうぶ)』)』による政治制度、『科挙(かきょ)(※注12)』による官吏登用・官僚制度、中央と地方を結ぶ『駅制(えきせい)』等を施行した。


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≪初唐≫(7世紀初頭~)


李淵の子・李世民(りせいみん)(唐王朝第2代皇帝太宗(たいそう))が、唐の礎を築く。

太宗は人の言葉に耳を傾け、善く国を治め、その治世は『貞観(じょうがん)()』と称えられた。

太宗の治世が記された書物『貞観政要(じょうがんせいよう)』は、日本の政治に多くの影響を与えた。


第3代皇帝・高宗(こうそう)の頃、高句麗(こうくり)(現在の朝鮮半島)を征伐し、唐王朝は第一の最盛期を迎えるも高宗自身は政治に興味はなく、皇后であった武則天(ぶそくてん)則天武后(そくてんぶこう))に次第に実権を握られるようになる(垂簾聴政(すいれんちょうせい))。

高宗の死後、中宗(ちゅうそう)(高宗と武則天の子)が第4代皇帝となり武則天に対抗するも、即位後54日で廃位。

その後、中宗の弟・睿宗(えいそう)が第5代皇帝となるが武則天の傀儡に過ぎず、武則天が皇帝になると廃位された。

武則天は国号を唐から(しゅう)と改め、恐怖政治を行う一方、『科挙(※注12)』により多くの優秀な人物を官僚として登用し、律令制官僚政治を発展させた。

武則天が老衰すると、廃位させられた中宗が再び皇帝(第6代皇帝)となる。

しかし、中宗は皇后である韋皇后(いこうごう)に毒殺される。

その後、殤帝(しょうてい)(中宗の末子。韋皇后は継母)が第7代皇帝として帝位に就くが、韋皇后の傀儡であった。

中宗の甥である李隆基(りりゅうき)(殤帝の従兄)と武則天の娘である太平公主(たいへいこうしゅ)により韋皇后一族は殺害され、殤帝は李隆基によって睿宗(李隆基の父親であり、殤帝の叔父)に譲位させられる。

睿宗は重祚(ちょうそ)(一度退位した天子が、再び帝位に就く事)し、第8代皇帝となる。

李隆基は功績が認められ、皇太子となる。


≪盛唐≫(8世紀初頭~)


李隆基が、第9代皇帝・玄宗(げんそう)として即位する。

太平公主と争っていた玄宗は、彼女を殺害。

治世の前半は『開元(かいげん)()』と言われ国は安定していたが、後半は楊貴妃(ようきひ)に玄宗が篭絡(ろうらく)され、楊国忠(ようこくちゅう)をはじめとした楊一族の専横が目立ち始める。

乱れ始めた政治は、後の『安史(あんし)(らん)(※注15)』へと繋がる。

唐王朝は乱を鎮圧する為、節度使(せつどし)(軍を指揮する皇帝の使者。藩鎮(はんちん)(地方の軍や財政を統括する組織)とも言われる)を多数地方に派遣。

派遣された節度使は、次第に力を持つようになる。


≪中唐≫(8世紀半ば~)


『安史の乱』により唐は衰退しつつあったが、第14代皇帝・憲宗(けんそう)が唐王朝の権威回復を図る。

強大な実権を握る宦官や節度使の統制強化を行うも、不老長寿の薬と言われた水銀を乱用し、精神に異常をきたす。

また皇太子である李寧(りねい)が早世すると、莫大な費用を掛けて供養を行う。

宦官の虐待や殺害も行い、憲宗は宦官の逆襲により殺害される。

その後、宦官の力が益々強くなる。

第17代皇帝・文宗(ぶんそう)(憲宗の孫)と官僚達は、835年に宦官誅殺を計画するが失敗(『甘露(かんろ)(へん)』)。

文宗は宦官の傀儡となり、四年後病没。


この頃、律令国家の要である『均田制』は崩壊し、荘園が増加。

『府兵制』も行われなくなり、749年に『募兵制』に移行。

『租庸調』は機能しなくなり、780年に『両税法』が施行。

また761年、国が高い値段で塩を売る『塩の専売制(せんばいせい)』を実施。

民が生きていく上で必要不可欠な塩に関税を掛け、国が利益を得るが密売が横行。

その後、唐王朝は塩の密売規制を行い、『黄巣(こうそう)(らん)(※注16)』へと発展する。


≪晩唐≫(9世紀半ば~10世紀初頭)


文宗の弟・武宗(ぶそう)が、第18代皇帝となる。

武宗は国教である道教(どうきょう)を深く信仰しており、他宗派である仏教を弾圧した(『会昌(かいしょう)廃仏(はいぶつ)』)。

また財政も困窮しており、寺院の土地没収や僧を還俗(げんぞく)(俗人に戻る事)させて働かせようと考えた。

ただし脱税目的で僧侶になる者も多く、還俗は脱税を防ぐ為でもあった。


どのような政策を行っても、唐の財政は逼迫し続け、政治も腐敗していった。


藩鎮割据(はんちんかっきょ)(節度使による割拠)による土地併合や営田(えいでん)(田地の直接経営)等で農民は追放された。

また藩鎮は税収を得る為に土地税のみならず塩や茶、酒にまで課税し、農民の暮らしは更に苦しくなった。

唐王朝も農民を救済するどころか専売による税収入を確固たるものにする為、密売を規制する。

その為、農民による多くの反乱が起き(『裘甫(きゅうほ)(らん)(※注13)』『龐勛(ほうくん)(らん)(※注14)』『黄巣の乱(※注16)』)、唐の衰退は加速していった。

反乱を鎮める為に唐王朝は更に各地に節度使を派遣し、彼らが大きな力を持ち独立していく。

五代十国(ごだいじっこく)時代(『五代』(『後梁(こうりょう)』『後唐(こうとう)』『後晋(こうしん)』『後漢(こうかん)』『後周(こうしゅう)』)・十国(『前蜀(ぜんしょく)』『後蜀(ごしょく)』『()』『南唐(なんとう)』『呉越(ごえつ)』『(びん)』『荊南(けいなん) (南平(なんぺい))』『()』『南漢(なんかん)』『北漢(ほくかん)』))に入り、唐は滅亡する。


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注2【()


中国各王朝が、日本を指す際に用いた呼称(日本は、7世紀に『日本』と言う国号に変更)。

倭の国を『倭国』、倭の人々を『倭人』と言った。

『和国』『大和(やまと)』とも言われた。


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注3【遣唐使(けんとうし)


630年~907年(838年以降、50年以上途絶えた)にかけて、日本が唐に派遣した使節。

隋に派遣した使節を『遣隋使(けんずいし)』と呼び、隋が滅び唐が建国してから名称を『遣唐使』に変更した。

当時、日本は『()(※注3)』と称し、唐に対して対等な立場をとろうとしていたが、唐にとって倭は朝貢国に過ぎなかった。


唐の高度で先進的な政治・文化・技術を学ぶ為、また仏教の経典を収集する為、多くの日本人『遣唐使(留学生や医師、学問僧、陰陽師など)』が唐へ留学した。

『遣唐使』として有名な人物は、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)山上憶良(やまのうえのおくら)阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)吉備真備(きびのまきび)円仁(えんにん)等である。


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≪犬上御田鍬≫


推古天皇(すいこてんのう)(第33代天皇。聖徳太子(しょうとくたいし)の叔母)の御代、小野妹子(おののいもこ)の後を継ぎ、614年『遣隋使』として隋へ派遣される。

翌年、百済(くだら)(朝鮮半島)の使いを連れて帰国。

そして第34代天皇・舒明天皇(じょめいてんのう)の時代、630年に薬師恵日(くすしえにち)(医人)と共に第1次『遣唐使』として唐へ派遣される。

2年後、高表仁(こうひょうじん)(太宗の使者。倭国との意見の対立から、633年に唐に帰国)、霊雲(りょううん)(学僧)、(みん)(学僧)、勝鳥養(すぐりのとりかい)新羅(しらぎ)(朝鮮半島)の送使と共に帰国。


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≪山上憶良≫


702年、第八次『遣唐使』として渡唐。

帰国後は聖武天皇(しょうむてのう)(第45代天皇)に仕え、国守(こくしゅ)国司(こくし)(地方役人)の長官)に任じられる。

筑前守(ちくぜんのかみ)(筑前国=福岡県)を退官した後、74歳で病死。

儒教や仏教に傾倒しており、『貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)』『防人歌(さきもりのうた)(北九州防衛の為に徴兵された農民を憐れんで詠んだ歌)』『子を思う歌』等、彼の作る和歌は貧しい人々に寄り添った抒情的で慈愛に満ちた歌が多い。


万葉集(まんようしゅう)


憶良(おくら)らは(いま)(まか)らむ()()くらむ それその(はは)(われ)()つらむそ』

(憶良めは、もうお(いとま)致しましょう。家では子供達が泣き、妻も私を待っているでしょうから)


また、730年に大伴旅人(おおとものたびと)大宰府(だざいふ)(九州)の長官である大宰帥(だざいし)。歌人)の邸宅で開かれた『梅花(ばいか)(うたげ)』にも出席している。

『梅花の宴』で歌われた32首の歌は『万葉集』に掲載されており、その『万葉集』の『醍詞(だいし)(序文)』を書いた人物が山上憶良とも言われている。


初春令月しょしゅんのれいげつにして 氣淑風和(きよくかぜやわらぎ) 梅披鏡前之粉うめはきょうぜんのこをひらき 蘭薫珮後之香らんははいごのこうをかおらす

(初春の正月の空気は清く風は和らぎ、梅は鏡の前で白粉(おしろい)を付ける女性のように白く美しく咲き、蘭はお香のような芳香(ほうか)を放つ)


この『醍詞』が、新元号『令和(れいわ)』の由来である。


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≪阿倍仲麻呂≫


717年、第九次『遣唐使』として唐に渡る。

『科挙(※注12)』に合格または推挙により、唐王朝に登用される。

玄宗に寵愛され、何度か皇帝に帰国を申し出るが許されなかった。

753年、阿倍仲麻呂は吉備真備や唐の高僧である鑑真(がんじん)と共に船に乗って帰国出来る事になった。

しかし暴風の為に、阿倍仲麻呂の乗った第一船は座礁し漂流(他の船に乗っていた吉備真備と鑑真は、無事日本に到着)。

安南(あんなん)に漂着したものの、襲撃され、何とかして長安まで戻る事が出来た。

命は助かったものの、阿倍仲麻呂の帰国は絶望的となった。

結局日本に戻る事が出来ないまま玄宗・粛宗(しゅくそう)代宗(だいそう)の三代皇帝に仕え、73歳で生涯を閉じた。

彼は李白(りはく)(唐の詩人)とも親交があり、詩の才能もあった。

彼が作った詩は、『百人一首』にも選ばれている。


(あま)(はら) () りさけ() れば 春日(かすが)なる 三笠(みかさ)(やま)()でし(つき)かも』

(天の原を遠く見渡した月は、私の故郷・春日の三笠山の上に上る月と同じなのだろうか)


最期まで、望郷の念は消えなかった。


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≪吉備真備≫


阿倍仲麻呂や僧・玄昉(げんぼう)法相宗(ほっそうしゅう)の僧)と共に、第九次『遣唐使』として渡唐。

身分は低かったけれど天才的頭脳を持っていたので、若くして『遣唐使』として入唐が許された。

734年に玄昉と共に帰国するまで、唐の政治や文化、兵学や天文学など多岐に渡る学問を学んだ。

唐で得た知識のみならず、吉備真備達は唐から『経書(けいしょ)儒家経典(じゅかきょうてん))』や『史書(ししょ)(歴史書)』など多くの書物を持ち帰った。

聖武天皇は、唐からの帰国者を重用した。

吉備真備達は、瞬く間に出世した。

738年に橘諸兄(たちばなのもろえ)右大臣(うだいじん)に就任すると、吉備真備と玄昉は補佐役として活躍した。

衰えつつあった藤原氏の勢力復活を目論む藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)は二人を排除する為、740年に大宰府で反乱を起こした(『藤原広嗣の(らん)』)。

しかし乱は失敗し、藤原広嗣は処刑、連座(れんざ)(本人だけでなく、家族も処分)により藤原式家(ふじわらしきけ)藤原四家(ふじわらよんけ)藤原南家(ふじわらなんけ)』『藤原北家(ふじわらほっけ)』『藤原式家』『藤原京家(ふじわらきょうけ)』の一つ)も処分されて藤原氏は衰退した。

その後、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)(藤原南家)が台頭し、吉備真備と玄昉は左遷される(橘諸兄の勢力が衰えていた為)。

752年、第12次の『遣唐使』の『遣唐副使』として吉備真備は再び入唐する事になる。

鑑真を、倭に招請(しょうせい)する為(戒律(かいりつ)(修行者の生活規律)の伝播(でんぱん)が目的)であった。

鑑真は五度も渡海を試みたが、いずれも失敗。

渡航により視力を失いながらも、753年、とうとう来日に成功。

鑑真は日本に戒律を伝え、日本の仏教に大きな影響を与えた。

吉備真備は、鑑真の日本招来の任務遂行の一役を担った。

しかし功績を上げ帰国した吉備真備は母国での活躍の場は与えられず(未だに藤原仲麻呂の勢力は衰えていなかった為)、大宰府に左遷された。

大宰府に左遷されても、吉備真備はその知識や経験を基に大宰府防衛強化を成功させ出世。

その頃、藤原仲麻呂の後ろ盾であった光明皇后(こうみょうこうごう)(聖武天皇の皇后。藤原仲麻呂の叔母)が逝去し、藤原仲麻呂の勢力は衰えていった。

藤原仲麻呂を疎んでいた孝謙上皇(こうけんじょうこう)(聖武天皇と光明皇后の娘)は藤原仲麻呂に対抗する勢力として、吉備真備を重用。

吉備真備は孝謙上皇の下で活躍し、その後起こった藤原仲麻呂の反乱(『藤原仲麻呂の(らん)』『恵美押勝(えみのおしかつ)(らん)』)を唐で学んだ兵法によって鎮圧。

乱後、吉備真備は従二位(じゅにい)・右大臣まで出世し、771年に辞職を願い出、775年に死去(享年81歳)。


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≪円仁≫


天台宗(てんだいしゅう)の僧侶であり、最澄(さいちょう)の弟子であった円仁は、836年と837年に『遣唐使』として入唐を試みたが失敗。

838年に唐に到着したものの短期留学僧であった為、旅行許可が下りず、目指していた天台山に入る事が出来なかった。

円仁は滞在延期を唐王朝に願い出るも許されず、唐に弟子二人と共に不法滞在する事にした。

不法滞在中に色々と助けてもらった在唐の新羅人に五台山(ごだいさん)山西省(さんせいしょう)の東北部にある霊山)を紹介され、円仁は天台山は諦めて五台山で学ぶ事を決意。

五台山に到着した円仁は温かく迎えられ、其処で多くの事を学んだ。

その後、更なる修行の為に長安へ向かい、金剛界(こんごうかい)大日如来(だいにちにょらい)智慧(ちえ)は金剛石のように強固で揺らぐ事は無いと言う事)、胎蔵界(たいぞうかい)(大日如来の慈悲が、人が本来持っている悟りを育てると言う事)などの法を受けた。

仏典を携えて帰国しようとした時、武宗により『会昌の廃仏』が行われた。

多くの寺院や仏像は破壊され、仏典は焼き払われた。

僧は還俗させられ、外国人僧は強制帰国された。

円仁も無理やり還俗させられたが、帰国直前に剃髪。

円仁が帰国する際には、多くの唐人や新羅人が送別してくれた。

無事、比叡山(ひえいざん)(天台宗総本山)に到着した円仁は、『伝燈大法師位(でんとうだいほっし)』『内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)』『天台座主(てんだいざす)』に次々と任命された。

第三世『天台座主』となった円仁は、天台宗『山門派(さんもんは)大乗仏教(だいじょうぶっきょう)衆生救済(しゅじょうきゅうさい)を目的とした)の宗派の一つ)』の祖となった。

864年、死去(享年71歳)。

亡くなってから2年後、『慈覚大師(じかくだいし)』と言う大師号(だいしごう)(朝廷から贈られる諡号(しごう)(贈り名))が清和天皇(せいわてんのう)(第56代天皇)より与えられた。


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その他、真言宗(しんごんしゅう)の開祖・空海(くうかい)弘法大師(こうぼうだいし)高野山金剛峯寺こうやさんこんごうぶじを建立)、天台宗(てんだいしゅう)の開祖・最澄(さいちょう)伝教大師(でんぎょうだいし)比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじを建立)、橘逸勢(たちばなのはやなり)(『三筆(さんぴつ)嵯峨天皇(さがてんのう)・空海・橘逸勢)』の一人)も、804年に第十八次『遣唐使』として唐に渡り、日本の仏教文化の発展に貢献した。


また717年、阿倍仲麻呂と共に渡唐した倭の留学生・井真成(せいしんせい)は唐留学中、734年に病により死去(享年36歳)。

玄宗は井真成の死を悼み、『尚衣奉御(しょういほうぎょ)(皇帝の衣服を担当する従五品上(じゅごほんのじょう)(当時、唐の位階は一品(いっぽん)から九品(くほん)まであり、五品以上が皇帝との謁見が許された。九品に官僚を分ける制度は、日本の冠位十二階(かんいじゅうにかい)の基となった)の官』を追贈し、葬儀は官費によって行われた。

彼の遺体は滻水(さんすい)(西安近くを流れる川)東岸の原に墓誌(死者の経歴や哀悼の言葉などが刻まれた石板)と共に埋葬され、お墓も建てられた。

その墓誌には、


『形旣埋于異土魂庶歸于故鄕

(その身は異国の土に埋むるとも、魂は故鄕に帰らん事を願う)』


と刻まれた。


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『遣唐使』派遣の回数は諸説あり、12~20回位と言われている。


『遣唐使』の航路は、『北路(北九州→朝鮮半島→遼東半島(りょうとうはんとう)山東半島(さんとうはんとう))』『南路(五島列島(ごとうれっとう)から東シナ海を横断)』『南島路(薩摩(さつま)(鹿児島県)の坊津(ぼうのつ)から東シナ海を横断)』の三つがあった。

しかし、663年の白村江(はくすきのえ)の戦い(倭と百済連合軍 対 唐と新羅の連合軍の戦い。倭と百済の敗北)や676年の唐と新羅の戦いにより、比較的安全な『北路』は使えなくなった。

その為『南路』『南島路』を使うようになったが、この航路は危険であり難破が増加した。

『遣唐使船』は4隻の船から構成されていたので『よつのふね』とも言われ、一隻の船に乗る人々は約100~170人だった。

『遣唐使』は元日に皇帝に謁見する必要があった為、『遣唐使船』は天候の悪い六月や七月に出発せねばならず、暴風雨により遭難や水没に見舞われる事が多かった。

悪天候や船の大型化、過剰積載により、四隻全てが無事に到着する事はほとんどなく、バラバラに漂着したり、何隻かは沈没したりもした。

命懸けの航海であり、生存率は五割とも言われている。

『遣唐使』は大陸に着いてからも地方都市で査察を受け、様々な書類を長安に提出し、一行が倭からの正規の使者だと認められなければ、長安に入る事は許されなかった(1~2か月程掛かった)。

長安へ向かう事が出来る『遣唐使』は20~40人で、残りは揚州(ようしゅう)江蘇省(こうそしょう))等に留まって技術を学んだり現地の人々と交流した。

長安へ向かった『遣唐使』は、約一万キロ以上を陸路で行った。

長安に着くと、『遣唐使』は倭から持って来た献上品を皇帝に奉じ、皇帝からは下賜品を賜った。

献上品は銀、綿製品、織物、瑪瑙(めのう)椿油(つばきあぶら)、和紙等で、下賜品は絹製品、陶磁器、薬品等だったと言われている。

また倭からの国書奉呈や、留学生の配属や前回の留学生の引き取り等も行われた。

滞在は約1~2年で、唐に滞在する『遣唐使』には唐から布や綿などが支給された。

場合によっては、『遣唐使』の滞在の延長も許された。

『遣唐使』は帰国の際、皇帝から国書を託された。

また『遣唐使』は、多くの質の高い品物(書物、作物、楽器、香料など様々なもの)を唐から持ち帰り、倭唐折衷の独自文化発展にも貢献した。

奈良の『正倉院(しょうそういん)』には唐から持ち帰ったものだけでなく、倭が唐から学んだ技術によって作ったものが数多く収められている。


『遣唐使』は比較的厚遇されていたが、755年の『安史(あんし)(らん)(※注15)』以降、唐王朝は衰退し、『遣唐使』は冷遇されるようになる(唐による官費支給や留学期間の制限)。

一方、倭では『遣唐使』以外の海外渡航を禁止され、航海技術が低下。

内紛や唐の衰退、唐への留学に疑問を持った倭は、838年から唐への渡航を止めた。

途絶えていた『遣唐使』を派遣する計画が持ち上がったが、唐の衰退や晩唐に起こった『裘甫の乱(※注13)』『龐勛の乱(※注14)』『黄巣の乱(※注16)』により弱体化した唐王朝から学ぶものはないとして、遣唐大使として任命された菅原道真(すがわらのみちざね)により、894年『遣唐使』廃止が決定。

907年の唐の滅亡により、実質的に『遣唐使』派遣は廃止となった。


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注4【拱手礼(きょうしゅれい)


中国の伝統的な挨拶の一種。

右手の拳を左の掌で包み、胸元に持っていく。

右拳は『武』を表し、右拳を左の掌で包む事により敵意が無い事を示す。

感謝や敬意を表すと言われる。

凶事や祭礼の際、また女性は逆にする事がある。


似ているもので『抱拳礼(ほうけんれい)』と言うものもあり、こちらは左手の親指を曲げて四本の指を真っ直ぐ伸ばし、右拳に左掌を当てる。

左の掌は『徳』『智』『体』『美』を、また親指を曲げる事によって『謙遜』を表す。

右拳は『武』を、左の掌は『文』を表し、『文』が『武』を制している事を意味する。

『四指礼』とも言われる。

少林拳(しょうりんけん)等で使われる。


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注5【大夫(たいふ)


貴族の事。

また、『科挙(※注12)』出身の高級官僚。


諸侯の臣下の身分には『(けい)』『大夫』『()』があり、『大夫』は『上大夫』『中大夫』『下大夫』に分かれていた。

特に、『上大夫』の事を『卿』と称した。


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注6【宦官(かんがん)


去勢(きょせい)した男性官吏。

異民族や奴隷などが去勢され、宮廷に仕えるようになった事が始まり。

次第に皇帝や寵妃に重用されるようになり、権勢を振るうようになる。

その為、自宮(じきゅう)(自ら去勢する事)する者も現われた。

主な仕事は、宮廷や後宮(こうきゅう)(皇后や妃が住む宮殿)の掃除や料理等の雑用や管理など。

陰では諜報活動や裏工作等も行い、私腹を肥やす者もいた。

『宦官』の権勢の高まりは政治の腐敗を招き、唐王朝滅亡の一因となった。


『下級宦官』は『上級宦官』に虐げられる事もあり、また『下級宦官』は年を取ると解雇され乞食となって餓死する運命であった為、『上級宦官』に媚び諂い伸し上がろうとする者が多数いた。

この『宦官』の出世欲の為に国政は乱れ、(しん)のように滅亡した王朝もあった。


去勢は命懸けであり、医療が整っていない時代では去勢を受けた人間の三割が死んだ(切断による感染症)。

庶民階級で官僚になる為には『科挙(※注12)』を受けて合格するか、『宦官』になるしかなかった。

自分の命を棄てでも家族を救う為に、やむを得ず『宦官』になった者もいた。


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注7【対策(たいさく)


平安時代の官吏登用国家試験。

献策(けんさく)』『方略試(ほうりゃくし)』『秀才試(しゅうさいし)』『文章得業生試もんじょうとくごうしょうし』とも言う。

文章博士(もんじょうはかせ)(※注8)』が『策文(さくもん)(漢文で書かれた問題)』を出し、『文章得業生(文章生試に合格した『文章生(もんじょうのしょう)』の中でも優秀な二名)』が答える試験の事を『対策』と言った。


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注8【文章博士(もんじょうはかせ)


『大学寮(官僚育成機関)』の教官。

『文章生』を教授する長。

唐名は、『翰林学士(かんりんがくし)』。

『対策』に合格しなければ『文章博士』になる事が出来ず、728年から約230年の間で合格者は65人と言われている。

『大学寮』四学科の内『文章道(もんじょうどう)文選(もんぜん)等の漢詩を教授)』を担当。

定員は一名だったが、『紀伝博士(きでんはかせ)(史記、漢書、後漢書を教授)』との統合により二名となった。

他にも、天皇や東宮(とうぐう)(皇太子)の侍講(じこう)(学問を講じる事)や漢詩の作成、文章の執筆も手掛けた。


菅原道真(すがわらのみちざね)を輩出した『菅原氏』『大江(おおえ)氏』『藤原南家』『藤原式家』『日野(ひの)家(藤原北家に属する家)』の五家系が交互に『文章博士』の任に就き、貴族の世襲化が定着していた。


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注9【儒学(じゅがく)


孔子を祖とした儒家(じゅか)(儒者)の学問。

孔子の思想、道徳である『仁』、政治理論(倫理政治)を規範とし、『四書五経(ししょごきょう)(儒教の経書)』を備え、中国学問の基礎となった。


『四書』・・・『論語(ろんご)』『大学(だいがく)』『中庸(ちゅうよう)』『孟子(もうし)

『五経』・・・『易経(えききょう)』『書経(しょきょう)』『詩経(しきょう)』『礼記(らいき)』『春秋(しゅんじゅう)


『儒学』は宋代で『朱子学(しゅしがく)』、明代で『陽明学(ようめいがく)』と発展していった。


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注10【晏平仲(あんぺいちゅう)


中国・春秋(しゅんじゅう)時代の『(せい)(紀元前11世紀~紀元前3世紀)』の宰相。

『斉』の霊公(れいこう)荘公光(そうこうこう)景公(けいこう)の3代に仕えた。

小柄な風貌であったが、君主に対しても臆する事無く諫言し、君主のみならず民達にも尊敬の念を抱かれた。

同じく『斉』の宰相であった管仲(かんちゅう)と共に、名宰相と言われた。

また狐の毛皮で出来た衣服一着を約30年間着続けるなど、清貧を貫いた。

晏子(あんし)とも称され、彼の言行録『晏子春秋(あんししゅんじゅう)』には君主に対する諫言の説話が記されている。



【論語】


晏平仲(あんぺいちゅう) 善與人交(よくひととまじわる) 久而敬之ひさしくしてこれをけいす

(晏平仲は善く人と交わった。付き合いの長い者に対しても、敬意を払った)


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注11【忠恕(ちゅうじょ)


儒教における人間の二つの『徳』。


『忠』・・・誠実

『恕』・・・思いやり


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注12【科挙(かきょ)


隋(6世紀終わり)~(しん)(20世紀初め)まで行われていた、中国の官吏登用試験。


『科挙』とは、『科目による選挙』を意味する。


隋以前まで、政府の要職は門閥貴族による世襲によって独占されていた。

隋の初代皇帝・楊堅(ようけん)文帝(ぶんてい))により『科挙』が導入され、家柄身分関係なく優秀な人材を試験により官吏に登用する事になった。

しかし『科挙』を受けるには莫大な費用も掛かり試験も難関であった為、幼い頃からお金と時間を掛けて勉学に勤しまねばならなかった。

受験資格に制限はなくとも(女性や商人、前科者は受験出来なかった)、結局、富裕層が受験する事が多かった(『科挙』を受けられない場合、『宦官』となって官吏になるしか道が無かった)。

たとえ『科挙』を受験出来たとしても競争率が高く、試験は大変難しかった為、一生合格しない者も数多いた。

その為、精神を病んだり、自殺する者もいた。

試験中にも自殺する者もいて、試験会場に幽霊が出ると言う噂も立った。

賄賂や試験中に不正を行う者もおり、死刑に処される事もあった(実際に、集団処刑もあった)。

無事合格して官僚となっても教養こそが何よりも尊いものと考え、現実問題から目を背け、政治経済社会に対しては無関心である者が多く、次第に政府は機能しなくなっていった。


『科挙』を導入し広く人材を起用するようになったが、貴族の官僚世襲(『任子(にんし)(高級官僚の子弟が、自動的に官を授けられる)』)は変わらず残っていた。

その為『科挙派(科挙合格者)』と『門閥派(門閥貴族)』の間で争いがあり、政治が混乱した。


≪唐王朝≫

六科(りくか)(『秀才(しゅうさい)』『明経(めいけい)』『進士(しんし)』『明法(めいほう)』『明書(めいしょ)』『明算(めいさん)』)』の六つの科目があった。

『秀才』が最も重んじられていたが次第に廃れ(不合格になると処罰される為、受験生が減少)、『明経』と『進士』の二科目が主な科目となった。

しかし『明経』は単なる暗記能力を試す試験であった為に、『経義(けいぎ)(経書の内容)』『詩賦(しふ)(詩作)』『(さく)(論文)』を中心とした試験である『進士』が重く見られるようになった。

受験倍率も『明経』十倍に対して、『進士』は百倍であった。


『科挙』では『儒学』の試験が出題された為、『儒学』や『儒教』が官吏の必須教養となった。

また太宗が詩を好んだ為、『科挙』にも詩歌が導入され、唐詩(一句が四言、五言、七言から成る)が発展した。

≪初唐≫では力強い詩、≪盛唐≫では華やかであり少し影のある詩(王維(おうい)李白(りはく)等の詩人)、≪中唐≫では落ち着きと自由な詩(白居易(はくきょい)韓愈(かんゆ)柳宗元(りゅうそうげん)等『進士』出身の詩人)の詩、≪晩唐≫では王朝の衰退に伴い感傷的な詩が多い。


唐詩は、『近体詩(きんたいし)』『個体詩(こたいし)』の二つに分かれる。

『近体詩』は字数、句数、韻の踏み方など厳格な規則があったのに対し、『個体詩』は型も規則もなく自由な詩であった。

韓愈と柳宗元は自由な詩を復活させようと、『古文復興運動』を行った。

『近体詩』には『絶句(ぜっく)』と『律詩(りっし)』『排律(はいりつ)』がある。

『絶句』は、『起句』『承句』『転句』『結句』から成る。

『律詩』は、一首が八句から成り立っている。

第一・二句を『首聯(しゅれん)(起)』、第三・四句を『頷聯(がんれん)(承)』、第五・六句を『頚聯(けいれん)(転)』、第七・八句を『尾聯(びれん)(結)』と言う。

『排律』は『長律(ちょうりつ)』とも言い、一首が十句以上から成る。

そして、『頷聯』『頚聯』に対句を用いる。

『近体詩』は、『平声(ひょうしょう)』で『押韻(おういん)』する事が原則である。

『平声』とは『四声(しせい)(『(ひょう)』『(じょう)』『(きょ)』『(にゅう)』)』の一つであり、平らかな音調である。

『押韻』は偶数句の末尾で行ない(七言詩では第一句の末尾でも踏む)、最後まで同じ韻を踏まなければならない(『一韻到底(いちいんとうてい)』)。


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注13【裘甫(きゅうほ)(らん)】(859年~860年)


浙東(せっとう)(現在の浙江省(せっこうしょう))で起こった農民反乱。


貧しい人々を救済する為、裘甫は反乱軍の首領として戦った。

反乱軍は連戦連勝を重ね、次第に大きな勢力となっていった(始め100人であったが、3万人にまで膨れ上がった)。

しかし、唐王朝によって起用された文官・王式(おうしき)によって鎮圧。

裘甫は捕まり、長安で殺害。


乱は鎮圧されたが、農民蜂起の前兆となった。


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注14【龐勛(ほうくん)(らん)】(868年~869年)


武寧(ぶねい)江西省(こうせいしょう))藩鎮の軍人・龐勛を首領とした民衆反乱。

南詔(なんしょう)(チベット・ビルマ語族王国)による侵攻に対処する為、三年を期限に桂州(けいしゅう)広西(こうせい)チワン族自治区)に派遣されていた兵八百人が何時まで経っても徐州(じょしゅう)山東省(さんとうしょう)南東部と江蘇省(こうそしょう)長江(ちょうこう)揚子江(ようすこう))以北の地域)への帰還を許されず反乱を決行。

兵は長江を下り、徐州で民から過酷な徴税を行っていた観察使・崔彦曽(さいげんそう)らを討伐。

徐州を陥落。

それにより龐勛軍は唐政府に対して不平を持っていた民や豪族達を吸収し、乱は民衆反乱へと発展。

しかし龐勛軍による兵の強制連行や略奪が目に余り、民達は離反。

龐勛軍は二万にまで減り、討伐軍を率いた康承訓(こうしょうくん)李国昌(りこくしょう)により龐勛軍は追い詰められる。

戦の中で龐勛は死亡し、乱は終結。


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注15【安史(あんし)(らん)】(755年~763年)


節度使である安禄山(あんろくざん)が起こした乱から、『安禄山の乱』とも言われる(安禄山が殺された後、盟友の史思明(ししめい)が反乱軍を指揮したので二人の姓を取って『安史の乱』と言う)。


安禄山は玄宗と楊貴妃に取り入り寵愛されていたが、宰相・楊国忠(楊貴妃の又従兄(またいとこ))は自分の出世に邪魔な安禄山の排除を目論む。

命の危険を感じた安禄山は、范陽(はんよう)河北省(かほくしょう))にて挙兵。

安禄山は同羅(とんぐら)(モンゴル)と契丹(きったん)(満州から中央アジア)の兵約15万人を率いて洛陽(らくよう)河南省(かなんしょう)。長安と並ぶ中国王朝の首都)を陥落させ、『大燕聖武皇帝だいえんせいぶこうてい』と名乗り『(えん)』を建国。

安禄山の謀反を知った玄宗は安禄山を討伐しようと鎮圧軍派遣を何度も試みたが、楊国忠が有能な人物を排斥していた為、唐には無能な人物しか残っておらず連戦連敗。

長安に差し迫って来た安禄山の兵に恐れをなした玄宗は楊貴妃、楊国忠と共に(しょく)四川省(しせんしょう))へ逃亡。

逃亡した兵達は、反乱軍の元凶となった楊貴妃や楊国忠ら楊一族を処刑。

玄宗は退位し、皇太子・李亨(りきょう)粛宗(しゅくそう)として即位。

粛宗は反乱軍鎮圧の為に、兵を指揮する事になる。

一方、安禄山は病により失明。

安禄山は次第に狂暴化した為、皇太子である安慶緒(あんけいしょ)により暗殺。

安慶緒が『燕』の第二代皇帝となるが、安禄山と共に戦ってきた史思明はこれに反発し軍から離反。

史思明は唐に降伏するが、唐が自分を抹殺しようとしている事を知り降伏を撤回。

その後、史思明は洛陽にいた安慶緒を殺害し、『大燕皇帝』を名乗る。

しかし史朝清(しちょうせい)(末子)を後継ぎにしようとした為、長男の史朝義(しちょうぎ)に殺害される。

史朝義は史朝清らも殺害し、自ら『大燕皇帝』と名乗る。

唐では玄宗、粛宗が死去し、代宗(だいそう)(粛宗の長男)が即位。

唐はウイグルと手を結び、洛陽を奪還。

史朝義は敗走し、自決。


この8年に及ぶ反乱により、唐は衰退していく。

また乱の終結後、反乱軍鎮圧の為に地方に派遣した節度使は次第に管轄地域で軍事、民政、財政の権力を握るようになり民を苦しめていった。

それが、『裘甫の乱(※注13)』『龐勛の乱(※注14)』『黄巣の乱(※注16)』に繋がる。


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注16【黄巣(こうそう)(らん)】(874年~884年)


塩の密売人であった黄巣と王仙芝(おうせんし)が、山東省と河南省で起こした乱。


『安史の乱(※注15)』以降、逼迫した唐財政を補う為(『均田制』に基づく『租調庸』崩壊による税収減少)、758年に唐王朝は塩や鉄の専売制を実施。

唐王朝は塩や鉄を高く売る事によって税収を(まかな)おうとするが、同時に裏取引で塩を安く売ろうとする塩の密売が横行。

専売で税収の(ほとん)どを占めていた唐王朝にとって、密売は邪魔な存在でしかなかった。

塩密売の取り締まりが強くなった事により利益を得られなくなった塩の密売人である黄巣と王仙芝は、唐に不平を持ち反乱を決行。

唐は官職を与えて、二人を懐柔しようとした。

王仙芝は受け容れたものの、黄巣は拒否。

この為、軍は分裂し黄巣が軍を率いる事になる(王仙芝は、唐の謀略によりその後殺害される)。

広州(こうしゅう)広東省(かんとんしょう))に入った黄巣軍はイスラム商人やユダヤ商人を殺害し、莫大な資金を得る。

黄巣軍はその資金を元手に、また腐敗した唐王朝の討伐に呼応した民達を率いて(塩を安く売る黄巣は、民達にとっては『義賊(ぎぞく)』であった)皇帝の住む長安を目指す。

命の危険を察知した第21代皇帝・僖宗(きそう)は、四川へ逃亡。

880年、長安に入った黄巣は皇帝に即位し、国号を『(さい)』とした。

しかし元々塩の密売人であった黄巣に政治を取り仕切る能力も無く、残っていた唐の政治家達も殺害していた為、国としては全く機能していなかった。

それにより、民衆の心は黄巣軍から離れていった。

その間、僖宗はトルコ系沙陀族(さだぞく)の族長・李克用(りこくよう)に援軍を求め、黄巣軍が占拠している長安へ向かう。

唐の兵を率いた李克用軍により黄巣軍は投降し、黄巣も長安から逃亡。

李克用軍は長安に火を掛け、多くの唐の文化財が失われた。

唐に投降した黄巣の部下・朱温(しゅおん)は、唐軍と共に黄巣軍討伐へ向かう。

黄巣は山東へ逃げようとしたが途中で部下により殺害され、『黄巣の乱』は終結。


『黄巣の乱』後、唐は20年程続いたが、李克用と朱全忠(しゅぜんちゅう)(朱温)の対立が激しくなる。

李克用は朱全忠の力を抑えきれなくなり、朱全忠が実権を握る事となる。

朱全忠は自らが皇帝となる為、『宦官』五千人以上を殺害。

904年、朱全忠は第二十二代皇帝・昭宗(しょうそう)を殺害。

907年、朱全忠は第二十三代皇帝・哀帝(あいてい)(908年、朱全忠により毒殺)の禅譲(ぜんじょう)を受け皇帝となり、『後梁(こうりょう)(五大最初の王朝)』を建国。

これにより、約290年続いた唐王朝は、滅亡。

しかし、『後梁』も923年に李克用の子・李存勗(りそんきょく)の立てた『後唐(こうとう)』により滅ぼされる。


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注17【煬帝(ようだい)


隋の第2代皇帝。

在位は、604年~618年。

本名は『楊広(ようこう)』であったが、暴君であった為『煬帝』と言う諡号を唐によって付けられた。

煬帝を貶め、唐の正統性を示す為に付けられたとも言われている。

煬帝の行った大運河建設は民に大きな負担を強いたが、唐はその事業を受け継ぎ唐王朝に繁栄をもたらした(南北の人と物資の往来が活発化)。

現在も、華北(かほく)(中国北部)と江南(こうなん)(長江の南岸)を結ぶ幹線として利用されている。


倭の聖徳太子(しょうとくたいし)が『遣隋使』小野妹子に託した国書


日出處天子ひいづるところのてんし 致書日沒處天子しょをひぼっするところのてんしにいたす 無恙(つつがなきや)

(太陽の昇る国(倭)の天子から、太陽の沈む国(隋)の天子に書を送ります。

 お元気ですか?)


これを読んだ煬帝は、大激怒。

隋(皇帝)の諸侯の一人に過ぎない倭王からの対等外交要求は、煬帝を怒らせるのに十分であった。

しかし当時、隋は高句麗と険悪な関係であった為、倭を敵に回す事が出来なかった(聖徳太子は、それを見越して国書を送った)。

隋は、倭の要求を呑まざるを得なかった。

倭はその後、『王』ではなく『天皇(すめらみこと)』を名乗るようになり、隋と対等である事を世に示した。


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注18【諫官(かんかん)


(かん)(『前漢(ぜんかん)(紀元前206年~8年)』と『後漢(ごかん)(25年~220年)』の二つの王朝)から(げん)(1271年~1368)まで置かれた、君主を諫め忠告する為の官職。

諫議大夫(かんぎたいふ)』とも言う。


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注19【正諫(せいかん)


五諫(ごかん)』の一つ。

『五諫』とは、『正諫』『降諫(こうかん)』『忠諫(ちゅうかん)』『戇諫(とうかん)』『諷諫(ふうかん)』の事。


『正諫』・・・正面から諫める事

『降諫』・・・一度君主の言を受け容れてから諫める事

『忠諫』・・・真心を以て諫める事

『戇諫』・・・愚直を以て諫める事

『諷諫』・・・遠回しに諫める事


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注20【比干(ひかん)


甥である(いん)(紀元前17世紀~紀元前11世紀)の第30代王・紂王(ちゅうおう)の傍若無人な行為を諫めようと諫言したが、紂王は聞き容れず比干を殺害。

その後、紂王は(しゅう)武王(ぶおう)に討たれ、殷は滅亡。

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