香雪
「ありがとう・・・」
そう一言だけ言って、≪彼≫はいった・・・。
微笑みながら、≪彼≫はいった・・・。
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初めて≪彼≫と出会った時と同じように、その日は雪が降っていた・・・。
≪彼≫と過ごした期間は、数年だった・・・。
その『短い時』が、≪私≫にとって『掛け替えのない時』となった・・・。
≪彼≫は・・・とても真っ直ぐで・・・不器用で・・・何処か儚くて・・・危うくて・・・。
そんな≪彼≫を・・・。
≪私≫は・・・・・。
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≪彼≫と初めて出会った日。
宮中に、特に用事があった訳ではなかった。
ただただ、する事も無く時間を持て余していたので、何と言う事もなく出掛けただけだった。
廊下を歩いていると、少し肌寒さを感じた。
ふと庭を見ると、雪が降っていた。
庭には、白い梅が咲いていた。
白い梅の花の上を、雪が舞っていた。
その雪と共に、梅の香も仄かに舞っていた。
その白い梅の中で、≪彼≫は立っていた。
≪彼≫は白い梅を見上げ、微笑んでいた。
≪彼≫が着ていた衣服は唐(※注1)のものに良く似てはいたが、少し倭風の要素が入った衣服だった。
倭(※注2)の人間か・・・?
いや。
遣唐使(※注3)は、ここ何十年も途絶えている・・・。
≪彼≫は、まだ若い・・・。
≪彼≫は、倭の人間ではない・・・。
しかし、唐の人間とも違う・・・。
≪私≫は、『 ≪彼≫ は倭の血を引く人間なのだ』と思った。
その時≪私≫は、『 ≪彼≫ と話がしたい』と思った。
何故だかは、分からない。
いつもであれば、特に気にも留めずにその場を後にしたであろう。
この時、≪私≫は
『 ≪彼≫ の傍へ行きたい』
そう、思った。
単なる気紛れだったのか・・・。
いや。
もしかしたら、雪と共に≪彼≫も消えてしまいそうに見えたからなのかもしれない・・・。
≪私≫は庭に降りて、少し小走りで≪彼≫の近くまで行った。
≪私≫に気付いた≪彼≫は、少し驚いた顔をした。
そして直ぐに深く頭を下げ、≪私≫に拱手礼(※注4)をした。
近くで見た≪彼≫の顔は、まるで少女のようであった。
≪私≫は戯れに、≪彼≫を揶揄いたい衝動に駆られた。
≪私≫は少し驚いた振りをして、≪彼≫を見つめながら言った。
「このような所で、倭の女性に出会えるとは思わなかった・・・」
そう≪私≫が言うと、≪彼≫は本気で≪私≫を睨み付け、走り去って行ってしまった。
≪私≫がこの国の【大夫(※注5)】である事を、≪彼≫は≪私≫の服装から気付いていた。
しかし≪彼≫は、そんな事は気にせずに怒りを露にして去って行った。
≪私≫は、『何と言う無礼な人間だ』と一瞬思った。
それと同時に、≪私≫は≪彼≫に興味を抱いた。
≪私≫は、≪私≫に対して、このような態度を取る人間に今まで出会った事が無かった。
≪私≫に・・・。
いや。
≪私≫ではない・・・。
≪私≫の背景にある【大夫】と言う肩書に・・・。
≪私≫は、【大夫】である≪私≫に対して媚び諂う人間を大勢見て来た。
いつも薄ら笑いを浮かべ、こちらの顔色を窺う宦官(※注6)。
甲斐甲斐しく世話をする振りをして、言い寄って来る召使。
自分達の心は隠し、【大夫】である≪私≫を褒め称え、≪私≫に自分の名を覚えて貰おうと≪私≫の周りを必死にうろつき回る薄汚い人間達。
彼らのその上辺だけの言葉も態度も、≪私≫が【大夫】であるからだ。
≪私≫に、『利用価値』があるからだ。
≪私≫は、彼らの≪私≫に対する全てのものが嘘であると知っていた。
全て、承知の上だった。
彼らの話す美しい言葉も、遜った態度も、≪私≫の目には全て『汚いもの』として映っていた。
だからと言って、それが『何』とも思わなかった。
それが、『悪い』とも思わなかった。
これらは、彼らが生きていく上で身に付けた『処世術』だ。
生きる為にしている事だ。
≪私≫も彼らと同じ立場であったならば、きっと同じ事をするだろう。
それに、彼らの耳心地の良い言葉や態度は、時に≪私≫に優越感を抱かせてくれた。
≪私≫は、彼らの嘘が『嫌』ではなかった。
≪私≫も、彼らを『利用』していたに過ぎない。
≪私≫と彼らは、生きていく為にお互いを補完し合っていただけなのだ。
しかし、あの時の≪彼≫は違った。
≪彼≫の顔にははっきりと、『不快』と書かれていた。
≪彼≫は、≪私≫の周りにはいない人間であった。
感情を素直に表に出す≪彼≫に・・・。
嘘偽りのない≪彼≫の心に・・・。
≪私≫を、≪私≫として受け止めてくれた≪彼≫に・・・。
≪私≫は、≪彼≫にもう一度会いたいと思った。
≪彼≫と、もう一度話がしたいと思った。
≪彼≫を、もっと知りたいと思った。
その前に、≪私≫は何としてでも≪彼≫の機嫌を直さなければならないと思った。
今のままでは、きっと≪彼≫は≪私≫に会ってはくれないだろう。
このままでは、≪彼≫は≪私≫の事など忘れてしまうかもしれない。
そんな事は、耐えられなかった。
だから≪私≫は、直ぐに≪彼≫の事を調べた。
≪彼≫は以前、唐に留学生としてやって来た倭人の息子だった。
≪彼≫の父親が唐に来てから一年後、遣唐使は事実上停止となった。
留学生は、帰国する事に決まった。
しかし、≪彼≫の父親は唐に残る事を選んだ。
そして、どういった事情かは分からないが、≪彼≫の父親は唐に仕える事となった。
≪彼≫も、父親と共に唐に仕えていると言う。
≪彼≫は、≪彼≫の父親が年を取ってから生まれた子供だった。
≪彼≫の母親は、唐の女性だった。
≪彼≫の母親は産後の肥立ちが悪く、≪彼≫が生まれると直ぐに亡くなった。
今、≪彼≫は父親が与えられた小さな屋敷に、年老いて病がちな父親と共に二人だけで暮らしていると言う。
≪私≫は、≪彼≫の住んでいる屋敷を直ぐに見つける事が出来た。
≪私≫は、≪彼≫の気を引くものが何かを考えた。
≪私≫が最初に思い浮かんだ事は、『≪彼≫に、高価な物を与える』と言う事だった。
それ以外に、思い付くものが無かった。
当時の≪私≫には、それしか思い付かなかった。
人間は、高価な物を貰いさえすれば喜ぶものだ。
そう思っていた。
それしか、知らなかった。
≪私≫は、≪彼≫の屋敷に高価な生地を送った。
あの時、≪彼≫が着ていた衣服はとても地味なものだった。
これで、≪彼≫も機嫌を直してくれると思った。
しかし、直ぐに送り返された。
〖不要〗と書かれた紙と共に。
≪私≫は、次に高価な石を≪彼≫に送った。
再び、〖不要〗と書かれた紙と共に送り返された。
次に、高価な果物を送った。
再び、〖不要〗と書かれた紙と共に送り返された。
その後も、≪彼≫が手に入れる事が出来ないであろう高価な品物を送り続けた。
しかし≪彼≫は、一切受け取らなかった。
毎回送り返される品物を見る事が、≪私≫の日課となった。
送り返される品物と〖不要〗と書かれた紙を見る事は、嫌では無かった。
寧ろ、楽しみであった。
≪彼≫が書いた〖不要〗と言う文字が、とても愛おしかった。
≪彼≫は何が欲しいのか、どんなものなら受け取ってくれるのか、その事を考えるだけで≪私≫は楽しかった。
≪私≫の『つまらない人生』が、『楽しいもの』になっていった。
数週間経っても、≪彼≫は機嫌を直してくれなかった。
『次は何を送ろうか』と自分の屋敷の廊下を歩きながら考えていた時、雪が≪私≫の目の前を舞い、足元に落ちて消えた。
≪私≫は、≪彼≫と出会った時の事を思い出した。
≪私≫は、庭を見た。
宮中に咲く白い梅より少し遅れて、≪私≫の屋敷にも白い梅が咲いていた。
そう言えばあの時、≪彼≫は白い梅の花を見つめていた。
ああ・・・。
≪彼≫は、きっと梅が好きなのだ・・・。
そう思った。
≪私≫は、白い梅を見つめた。
凛として咲く白い梅が、あの時優しく微笑んでいた≪彼≫の姿と重なった。
≪私≫は庭に降り、白い梅の細い枝を手折った。
≪私≫はその白い梅の枝を握り締め、≪彼≫を探す為に宮中へ向かった。
今までのように誰かに送らせるのではなく、≪私≫は≪彼≫に直接この白い梅を贈りたかった。
≪彼≫が今何処にいるのかは、分からなかった。
宮中にいるのかどうかも、分からなかった。
宮中にいないのならば、≪彼≫の屋敷へ行こうと思った。
何としても、直接≪彼≫にこの白い梅を贈りたかった。
≪彼≫に・・・会いたかった・・・。
≪私≫は、宮中を走り回った。
≪彼≫を見掛けたかどうか、人に聞き回った。
普段では、このような事はしなかっただろう。
いや。
このような事をしたのは、生まれて初めてだった。
息を切らせて走り回るなど、汗をかいてまで誰かを探すなど、自分がそのような事をするとは思ってもみなかった。
いくら探しても、誰に聞いても、≪彼≫の居場所は分からなかった。
≪私≫は宮中で≪彼≫を探すのを諦め、≪彼≫の屋敷へ向かおうと思ったその時、沢山の書物を抱えながら廊下を歩いて来る≪彼≫を見つけた。
≪彼≫は、『あの時』と同じだった。
≪私≫は自分の手の中にある白い梅の枝を、汗で濡れた手で強く握り締めた。
≪私≫は、≪彼≫の許へ走って行った。
≪彼≫は走り寄って来る≪私≫に気付き、明ら様に嫌な顔をして走り去ろうとした。
その表情が、≪私≫は嬉しかった。
あの時と、少しも変わらない≪彼≫が・・・。
≪彼≫が、≪私≫の事を覚えていてくれた事が・・・。
持っていた書物が重かったせいか≪彼≫は速く走る事が出来ず、≪私≫は直ぐに≪彼≫に追い付く事が出来た。
≪私≫は≪彼≫に自分の事を覚えているか確認したくて、少し心配そうに≪彼≫に聞いた。
「私の事を、覚えているか?」
すると、≪彼≫は更に嫌な顔をしながら言った。
「あんなに毎日贈り物を送り届けられては、忘れない方が無理ですよ。
とても迷惑でした」
≪彼≫は、不愉快そうに答えた。
そんな≪彼≫を見て、≪私≫は再び嬉しくなった。
≪彼≫は、≪私≫を覚えていてくれた。
≪私≫は、もっと≪彼≫と話したくなった。
≪私≫は、≪彼≫の腕の中にある沢山の書物を見ながら聞いた。
「何処にいた?」
「貴方には、関係のない事です」
「蔵書室で、ずっと勉強をしていたのか?」
「・・・」
「その書物は、蔵書室から持って来たものか?」
「・・・」
「違う場所で、まだ勉強するつもりなのか?」
「・・・分かっているのならば、聞かないで下さい」
それに対して≪私≫がくすくすと笑うと、≪彼≫は眉間に皺を寄せながら言った。
「何か、御用ですか?」
≪私≫は≪彼≫の不機嫌そうな顔をもっと見ていたかったが、≪彼≫の違う顔も見たいと思った。
早く≪彼≫にこの梅を渡して、≪彼≫の表情を見たいと思った。
≪私≫は、≪彼≫が抱えている書物を≪彼≫から奪い取った。
そして書物を取り戻そうとした≪彼≫に、≪私≫は自分が持って来た白い梅を無理やり手渡した。
≪彼≫は一瞬驚いた顔をし、自分の手の中にある白い梅を見つめた。
≪彼≫の頬は、紅梅色に染まっていった。
≪彼≫は、微笑みながら白い梅を見つめ続けた。
≪私≫は≪彼≫が喜んでくれたのだと思い、≪彼≫の顔を覗き込んだ。
すると≪彼≫は、決まりが悪そうに外方を向いてしまった。
≪私≫は、向こうを向いた≪彼≫に言った。
「・・・嬉しいか?」
≪彼≫は、悔しそうに答えた。
「・・・嬉しい・・・です・・・。
・・・しかし・・・」
「?」
「梅の枝を折る事は、感心しません!!!」
そう本気で怒る≪彼≫を見て、≪私≫は嬉しくて再び笑った。
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その後、≪私≫と≪彼≫は様々な話をするようになった。
≪彼≫は、≪私≫に色々な事を話してくれた。
自分の事。
自分の父の事。
父と自分の祖国である倭の事。
≪彼≫は、一度も倭に行った事がなかった。
しかし≪彼≫は、幼い頃から倭について父親から話を聞かされていた。
≪彼≫はある時、言った。
「父は唐に残る事を選びましたが、本当は父は、『倭に帰りたい』と思っているのではないかと・・・。
だから私は、いつか父を倭に連れて帰りたいと思っています・・・。
そして私も、自分の祖国である倭を見てみたい・・・」
倭についての様々な情報は、唐に暮らす≪彼≫の耳に入っていた。
倭は唐の政や文化を学び、発展した。
しかし、今、倭は私利私欲に塗れ、政治が乱れていると≪彼≫は言った。
だから自分が倭に帰って、倭を『変えたい』と・・・。
『正したい』と・・・。
『救いたい』と・・・。
≪彼≫は倭に帰ったら、【対策(※注7)】を受けるつもりだと言っていた。
【文章博士(※注8)】になって【儒学(※注9)】を教え、倭の人々を育てるのだと。
≪彼≫は、言っていた。
唐の優れたものを、倭に伝えるのだと。
唐で学んだ事を、必ず倭で生かして見せると。
そして、倭を更に発展させるのだと。
『文章経国大業 不朽之盛事
(優れた文章を作る事は、国を治める為の重要な大事業である。
永遠に伝えられるべき不朽の盛事である)』
≪彼≫は、その精神を倭に根付かせたいと考えていた。
≪彼≫の父の家は、代々学者の家系であった。
そして親戚に、神童と称された人がいると≪彼≫は言った。
その神童の祖父も父も、【文章博士】であったと。
その神童と呼ばれた人も、近い将来【文章博士】になるであろうと。
そして≪彼≫は、少し悲しそうに続けた。
「彼には天賦の才能があるだけでなく、努力を重ねる秀才でもあるそうです・・・。
私は凡人なので、人一倍努力しなければ彼のようにはなれないのです・・・」
≪私≫は、苦しそうな≪彼≫の顔を見る事が耐えられず叫んだ。
「君は、凡人ではない!!
君の才能は、彼以上だ!!
彼は、天才かもしれない!!
彼は、秀才かもしれない!!
しかし、人とは本来それだけではない!!
君には、彼以上に素晴らしい才能がある!!
私は、君の事を誰よりも知っている!!!
私は、君の事を誰よりも理解している!!!
それに君は、唐で学んだ自分の知識を生かそうと努力している!!
それは、君だけのものだ!!
彼には、ないものだ!!
私よりも、彼よりも、君はずっとずっと優れた人間だ!!」
と≪私≫が大声で叫ぶと、≪彼≫は目を大きく見開き、そして恥ずかしそうに微笑んだ。
≪私≫も自分が一体何と言う事を言ってしまったのかと思い、頬を真っ赤に染めた。
ある日、≪彼≫が≪私≫よりも年上だと言う事を聞いた。
≪私≫は、その事実に心底驚いた。
そんな≪私≫の顔を見て、≪彼≫は屈託なく笑った。
≪私≫も、一緒に笑った。
≪彼≫と≪私≫は毎日のように会い、話をした。
しかし、いつまで経っても≪彼≫は≪私≫に対して敬語を使うので、≪私≫は我慢出来ず≪彼≫に言った。
「君はまるで、晏平仲(※注10)のようだね。
でも私達は朋友(友人)なのだから、君は私に敬語を使う必要はないのではないか?
私に、気を遣う必要などないのではないか?
もう少し、私に気を許しても良いのではないか?」
≪彼≫は、答えた。
「『有子曰 禮之用和爲貴
(有先生が、おっしゃった。礼を行う時、調和は重要である)
先王之道斯爲美
(聖王達の道も、調和を美徳としていた)
小大由之 有所不行
(しかし大小問わず、調和だけで社会秩序が保たれるとは限らない)
知和而和 不以禮節之
(調和だけではなく、礼によってこれに節度を加えなければ)
亦不可行也
(社会秩序は保たれない)』」
≪彼≫は≪私≫に、微笑みながら言った。
それを見た≪私≫は、自然と口にした。
「『夫子の道は忠恕(※注11)のみ(先生の人生は、真心を貫く事のみ)』と言うが、君の道もその通りのようだね・・・」
そう≪私≫が言うと、≪彼≫は顔を真っ赤にした。
そして≪彼≫は、少し恥ずかしがりながら言った。
「初めて貴方に会った時、私は貴方の事があまり好きではありませんでした・・・」
「・・・」
「軽薄で・・・自意識過剰で・・・傲岸不遜で・・・」
「・・・」
「でも貴方と話をしていると、貴方がとても博識で、思慮深く、そして・・・傷つき易い方だと言う事を知りました・・・」
「・・・」
「私は、貴方はとても素晴らしい官僚になると思っています」
「・・・」
「貴方のその知識や優しさを国の為に生かせば、多くの民が救われるはずです」
「・・・」
≪私≫は、何も答える事が出来なかった。
≪私≫は、自分を、この国の為に使いたいなどと思った事はなかった。
学問は、好きだった。
学べば、必ず戻って来たからだ。
学べば、必ず自分のものになったからだ。
得た知識は、生きていく為に、とても便利な『道具』だった。
知識は、自分の為に得たものだった。
優しさも、≪彼≫の前だけだった。
他の人に優しくするなど、≪私≫に出来る訳がなかった。
≪私≫は、≪彼≫の言葉に答える事が出来なかった。
≪彼≫は、黙り込んだ≪私≫を見つめながら続けた。
「たとえ貴方が【大夫】として生まれなくとも、【科挙(※注12)】に合格して高官になれるでしょうね・・・」
【科挙】・・・。
【科挙】を受けるなど、考えた事もなかった。
【科挙】では、詩作力も試される。
≪私≫は、詩を作る事が苦手だった。
自分の心を言葉にするなど、≪私≫には出来なかった。
ずっと心を隠し続けて来た≪私≫に、詩など作れる訳がなかった。
≪私≫は、少し苦笑いしながら答えた。
「・・・私は詩が苦手だから・・・【科挙】に合格する事は・・・出来ない・・・」
すると≪彼≫はニヤリと笑い、困り果てていた≪私≫に言った。
「では、今、詩を作ってみて下さい」
≪彼≫の提案に、≪私≫は戸惑った。
しかし≪私≫は、≪彼≫の言葉に逆らう事が出来なかった。
≪私≫は、期待に満ちた眼差しを向ける≪彼≫に応えたかった。
≪私≫は自分の持っている力全てを振り絞って、謡った。
「一白梅在白雪中
(一輪の白い梅が、白い雪の中にいる)
一白梅看白梅木
(一輪の白い梅が、白い梅の木を見ている)
一白梅散清香気
(一輪の白い梅が、清らかな香りを放っている)
一白梅真正香雪
(この一輪の白い梅こそが、真の香雪である)」
≪私≫は≪彼≫の表情が気になり、少し照れ臭そうに≪彼≫を見た。
≪彼≫は、とても驚いた顔をしていた。
そして直ぐに微笑み、くすくすと笑いながら言った。
「決まり事は、無視なのですね・・・」
「・・・」
「まあ・・・確かに・・・。
これでは、【科挙】に合格する事は難しいかもしれませんね・・・」
「・・・」
そして≪彼≫は、≪私≫の目をじっと見つめながら小さな声で言った。
「けれど・・・型に嵌まらない、素直で自由なこの詩・・・」
「・・・」
「私は・・・好きですよ・・・」
そう言って、≪彼≫は花のように微笑んだ。
≪私≫は、≪彼≫の笑顔を愛おしく感じた。
≪彼≫の笑顔が、≪私≫に教えてくれた。
自分の心を言葉にする事は、こんなにも嬉しい事なのだと。
心を、表に出しても良いのだと。
心を押さえつける事は、とても苦しい事だったのだと。
それ以後、≪私≫に対する≪彼≫の雰囲気が少し柔らかくなっていった。
他にも、≪彼≫と様々な事を話した。
ある日、≪私≫は≪彼≫に言った。
「君は有能で努力家なのだから、この国でもっと上の地位に就く事が出来るはずだ」
すると、≪彼≫は言った。
「『子日 不患無位 患所以立
(先生がおっしゃった。
地位が無い事など、気にする事はない。
自分がその地位に相応しい人間かどうかを気にしなさい)
不患莫己知 求為可知也
(世に認められない事など気にせず、認められるだけの努力をしなさい)』」
≪彼≫は、続けた。
「『子日 不患人之不己知
(先生がおっしゃった。人に知られていないと言う事を恥じる必要はない)
患己不知人也
(自分が、人を知らないと言う事を恥じるべきである)』
立身出世の為に学問を学べば、学問の表面しか理解出来ません。
学問の本質を知り、学ぶ者自身が変わらなければ、学ぶ意味などないのです。
たとえ上の地位に就いたとしても、自分の為に学んだ学問は自分の為にしか使う事が出来ないのです」
「・・・」
「私は、今の地位のままで十分です・・・。
それに私は、まだ上に行ける程の人間ではありません・・・。
努力し続けなければなりません・・・」
そして≪彼≫は、≪私≫の顔をじっと見つめながら言った。
「学べば学ぶ程、この国は、この国の人々は素晴らしいと感じます・・・。
何百年も何千年も前の人々が言った言葉が、今を生きる私達の心に響くのですから・・・」
「・・・」
「もしかすると、どんなに時間が経っても、『人間』と言うものは変わらないものなのかもしれませんね・・・」
≪彼≫は≪私≫以上に、この国を、この国の人々を愛していた。
しかし、この国は≪彼≫を裏切り続けた。
ある日、≪彼≫は悔しそうに≪私≫に呟いた。
「塩に重税を課した事により農民達の負担が増え、彼らは今、飢えに喘いでいます・・・」
「・・・」
「塩は、身体を酷使して働く民にとって欠かせないもの・・・。
生きていく上で、必要不可欠なもの・・・。
それに重税を掛ければ、民はどうやって生きていけば良いのか・・・」
「・・・」
「『苛政猛虎(民にとって過酷な政治は、人食い虎よりも恐ろしい)』
今、政治を正さねば、民は苦しみ続けます・・・」
「・・・」
「苦しみ疲れた民達は、再び【裘甫の乱(※注13)】や【龐勛の乱(※注14)】のような反乱を起こそうとするでしょう」
「・・・」
「戦が始まれば国は乱れ、多くの人々が死にます・・・」
「・・・」
「『飢者易為食 渇者易為飲
(飢えた者は、食べ物を選ばず喜んで食べようとする。
喉の渇いた者は、飲み物を選ばず飲もうとする)』
『伐木不自其本 必復生
(木が伸びるのを止めるには、先ずその本を伐らなければまた必ず生ずる)
塞水不自其源 必復流
(水の流れを止めるには、先ずその源を止めなければまた必ず流れる)
滅禍不自其基 必復亂
(禍を滅する為には、先ずその基を無くさなければまた必ず世は乱れる)』
『履霜堅氷至
(霜を踏んで歩く季節を過ぎると、氷が堅く張る季節が来る。
小さな災難の兆候を見逃がしていると、必ず大きな災難に見舞われる)』
『前慮不定 後有大患
(以前から考えを定めておかなければ、後に大きな患いが起こる)』
『其身正 不令而行
(自分が正しい行いをしていれば、命令しなくとも人は従う)
其身不正 雖令不從
(自分が正しい行いをしていなければ、命令したとしても人は従わない)』
見えない所で、何かが起こっているような気がするのです・・・」
「・・・」
「国は今、この国を維持する事しか、自分達の事しか考えていません・・・。
民の苦しみから、目を背けているのです・・・。
見ようとしていないのです・・・」
「・・・」
「民の不平不満が募り、いつかその怒りは大きくなって国に向けられるでしょう・・・」
「・・・」
「その前に、国は民を救わなければなりません・・・」
「・・・」
「何かが・・・起こる前に・・・」
≪彼≫の不安そうで悲しそうな表情を、≪私≫はいつまでも忘れる事が出来なかった。
≪私≫は、≪彼≫の話だけを聞いた。
≪私≫の話など、話す必要などなかった。
≪私≫の話など、話す価値もなかった。
≪私≫の話など、≪彼≫の耳に入れたくなかった。
≪私≫の話は、きっと≪彼≫を汚してしまう。
≪私≫は≪彼≫を、汚したくなかった。
≪私≫は、≪彼≫の話だけを聞きたかった。
≪彼≫も≪私≫に、≪私≫について聞こうとはしなかった。
≪私≫が自分について話そうとしていない事に、≪彼≫は気付いていた。
≪私≫の家は、代々【大夫】の家だ。
しかし【安史の乱(※注15)】以降、貴族の力は衰退し、【科挙】に合格した者の力が強くなっていた。
≪私≫の家も、家を存続させる為に必死に藻掻いていた。
あらゆる手を使って家を保とうとした為、尊厳は地に堕ち、愚かさと醜さが表面化した。
≪私≫の母は、側室(本妻以外に公的に認められた女性)だった。
≪私≫は生まれると直ぐに、乳母に育てられた。
乳母は、ただ≪私≫を育てただけであった。
愛情など、感じた事などなかった。
主人の言い付けだから、仕方なく≪私≫を育てていた。
乳母は常に≪私≫の両親の顔色を窺い、怯えていた。
父の六番目の息子である≪私≫は、父に忘れ去られていた。
母は、そんな父の心を繋ぎ止めようと必死だった。
父も母も、≪私≫には全く興味を示さなかった。
≪私≫は、両親に顧みられる事は無かった。
≪私≫の存在など、忘れているようでもあった。
父や母にとって≪私≫は、
『いてもいなくても、どちらでも良い存在』
だった。
いや。
元々
『いなかった存在』
だった。
かつて、両親の愛情を求めた事もあった。
しかし、無駄だった。
彼らからは、何も返って来なかった。
だから≪私≫は、求める事を諦めた。
求める事を、止めた。
父とも母とも話した事は、あまりなかった。
今はもう、父の顔も母の顔もほとんど思い出せない。
両親の愛情を得られなくとも、欲しい物は金さえ払えば手に入った。
困る事は、無かった。
≪私≫は、恵まれていたのだ。
ただ、裕福な≪私≫に群がる人間の相手をする事は、時々面倒だとは思った。
彼らの言葉は、≪私≫に嫌悪感を与えた事もあった。
しかし自分にとって都合の良い言葉を聞いてさえいれば、それが嘘だと分かっていても、心が少しだけ軽くなっている事に気付いた。
少なくとも、自尊心は保たれた。
何の憂いもなかった。
辛くもなかった。
同時に、何の喜びもなかった。
≪私≫は、何も満たされていなかった。
≪私≫は、何も感じていなかった。
何もかもが、虚しかった。
何もかもが、煩わしかった。
ただ、生きてさえいれば良かった。
≪私≫は
ただ
『生きていた』だけ
だった。
だから、全てがどうでも良かった。
国を発展させようなど、思ってもいなかった。
【科挙】で優秀な人間に地位を奪われると憤る輩もいたが、この国も自分も、どうなろうと関係なかった。
どうでも良かった。
自分の家も、どうなろうと構わなかった。
寧ろ腐った貴族が支配する世の中よりも、有能な人物がこの国を治めれば良いと思っていた。
毎日が、退屈だった。
ただただ、時の流れに身を任せていた。
≪私≫の今までの人生は、『つまらないもの』だった。
生きている事自体が、退屈だった。
『生まれてこなければ良かった』
とは、思わなかった。
しかし、
『生まれてこなくても良かった』
とは思った。
そう、思っていた。
だが≪彼≫と出会い、≪私≫の人生は変わった。
≪彼≫は、≪私≫の人生を変えてくれた。
≪彼≫は、他の誰とも違った。
≪彼≫は損得を考えず、ただただ祖国の発展を実現したいと考えていた。
国の為に、人の為に生きようとしていた。
≪彼≫と一緒にいると、人生は『楽しいもの』だと感じる事が出来た。
『生きる』とは、素晴らしい事なのだと思った。
≪私≫は≪彼≫の真っ直ぐで、素直で、嘘偽りのない誠実な心に惹かれた。
≪私≫は、『本当に欲しいもの』など求めても手に入らないと思っていた。
しかし、≪彼≫は≪私≫の言葉を聞いてくれた。
≪彼≫は、≪私≫に返してくれた。
≪彼≫は、≪私≫に微笑んでくれた。
≪彼≫は、≪私≫に教えてくれた。
そうだ。
≪私≫は、ただただ≪私≫を≪私≫として見て貰いたかったのだ。
≪私≫は、誰かに『見留めて』貰いたかったのだ。
いや。
違う。
それだけではない。
それだけでは、足らなかったのだ。
≪私≫は、それ以上のものをずっと求めていたのだ。
≪私≫は、本当は諦めてなどいなかったのだ。
≪私≫は、ずっと求め続けていたのだ。
見返りを求めない、『無償の愛情』を求め続けていたのだ。
≪私≫は、餓えていたのだ。
≪私≫は、≪彼≫が微笑んでくれるだけで良かった。
≪私≫は、≪彼≫の優しさに何度も助けられた。
≪彼≫の無私の愛情が、≪私≫を救ってくれた。
≪彼≫は、≪私≫を憐れんで≪私≫に微笑んでくれていたのではない。
≪彼≫は、自然に≪私≫を受け容れてくれたのだ。
≪彼≫があまりにも自分の心に素直であったから、≪私≫も≪彼≫の前では素直でいられた。
≪彼≫の前でなら、本当の≪自分≫でいられた。
≪彼≫の前でなら、≪私≫は自分の心を隠さなくて良かった。
≪彼≫の前でなら、≪私≫は自分の心を殺さなくて良かった。
素直に自分の気持ちを口に出せるのは、≪彼≫の前だけだった。
今まで、こんなにも心を許せる人はいなかった。
≪彼≫の事を、愛おしいと感じた。
≪彼≫にも、今まで辛かった事があったはずだ。
しかし≪彼≫は、それに対して悔しがったり、怒ったりした事はないようだった。
≪彼≫は苦しみも悲しみも、全て受け容れていた。
≪彼≫には、信念があった。
だから、≪彼≫は強いのだ。
≪私≫は、苦しみや悲しみから逃れようとしていたに過ぎない。
目を背けていたのだ。
苦しみも、悲しみも、もう沢山だった。
だが≪彼≫を見ていると、それらを受け容れようと思うようになった。
目を向けようと思った。
≪彼≫は、≪私≫の憧れとなった。
感情を表に出せる≪彼≫の事が、羨ましいと思った。
≪彼≫は、≪彼≫の全ては、尊く、美しい。
≪私≫は、≪彼≫を信じる事が出来ると思った。
≪私≫は、≪彼≫の全てを守りたいと思った。
≪彼≫は、懸命に生きていた。
『生きる』為ではなく、『生きて何かを成す』為に生きていた。
『 ≪彼≫ の願い』が、いつしか『 ≪私≫ の願い』になった。
ただ≪私≫には、一生懸命生きる≪彼≫が、生き急いでいるようにも見えた。
≪私≫は、怖かった。
≪彼≫が、雪のように一瞬で消えてしまうのではないかと思った。
≪私≫は、初めて≪彼≫に会った時に感じた『儚さ』を時々思い出した。
≪私≫は、怖かった。
≪彼≫と過ごす日々は、とても尊かった。
ある時、≪彼≫が言った。
「倭に・・・帰る事が出来るかもしれません・・・」
遣唐使が再び派遣されるかもしれないと言う噂があると、≪彼≫は言った。
もし派遣されれば、帰国するその船に乗って父親と共に倭に帰りたいと≪彼≫は言った。
≪私≫は、≪彼≫の喜ぶ姿が嬉しかった。
それと同時に、≪彼≫が遠くへ行ってしまう事が、≪彼≫が≪私≫の手の届かない所へ行ってしまう事が悲しかった。
黙り込んだ≪私≫に、≪彼≫は言った。
「もし可能であれば・・・一緒に・・・倭に行きませんか・・・?」
≪私≫は、息を呑んだ。
≪彼≫と共に、倭へ・・・。
≪彼≫は、続けた。
「無理な事であると・・・承知しています・・・。
でも、私は貴方に・・・私の祖国を・・・倭を・・・見て貰いたい・・・。
私は・・・貴方と共に・・・倭を見たい・・・」
≪私≫は、≪彼≫の言葉を反芻した。
『私は貴方に・・・私の祖国を・・・倭を・・・見て貰いたい・・・』
『私は・・・貴方と共に・・・倭を見たい・・・』
≪私≫は・・・。
≪私≫も・・・。
≪私≫も・・・≪彼≫と・・・共に・・・。
≪彼≫と共に・・・≪彼≫の祖国を見たい・・・。
≪私≫は、振り絞るように答えた。
「・・・私も・・・!
・・・君と・・・!!」
≪私≫は、泣いていた。
そんな≪私≫を見て、≪彼≫は≪私≫の手を取った。
そして≪彼≫は≪私≫の震える手を優しく包みながら、とても嬉しそうに笑った。
≪私≫と≪彼≫は、約束した。
一緒に、倭へ行くと・・・。
数週間後、≪彼≫の父親が亡くなった。
≪彼≫の父親は、恋焦がれていた祖国の地を最期まで踏む事が出来なかった。
≪彼≫は、父親を祖国に連れて帰る事が出来なくなった。
≪私≫は≪彼≫の父親が亡くなったと聞いて、直ぐに≪彼≫の屋敷へと向かった。
部屋に入ると、≪彼≫は床に横たわり細くなった父親の手を力強く握っていた。
≪私≫は≪彼≫の傍へ行き、≪彼≫の肩に軽く手を添えた。
≪彼≫は、肩を震わせていた。
≪彼≫は、嗚咽を我慢していた。
≪彼≫の家族は、皆いなくなってしまった・・・。
≪彼≫は、この国で一人になってしまった・・・。
≪彼≫には、もう、誰もいないのだ・・・。
いや。
≪私≫が、いる・・・。
≪私≫が、≪彼≫の傍にずっといよう・・・。
≪私≫が、≪彼≫を守り続けよう・・・。
≪私≫は、≪私≫に身を委ねる≪彼≫の肩を強く抱いた。
≪彼≫の肩は、激しく震えた。
≪私≫はそれに応えるように、更に≪彼≫の肩を強く抱いた。
『 ≪私≫ が必ず ≪彼≫ を守る 』
そう誓った。
誓ったのだ・・・。
誓ったのに・・・。
暫くして、≪彼≫が危惧していた通り反乱が起きた。
【黄巣の乱(※注16)】が、起きた。
************************************************************
「皇帝に、諫言致します」
≪彼≫は、静かに≪私≫に言った。
「何を・・・言っている・・・?
君が・・・皇帝に・・・諫言など・・・出来る訳がない・・・。
君の身分では・・・皇帝に会う事すら・・・許されない・・・」
「しかし、このままでは、この国は滅びてしまいます!!
皇帝の近くにいる官吏達も、分かっているはずなのです!!
分かっているはずなのに、誰も皇帝に言わないのです!!」
「それは、皇帝が諫言を受け容れないと知っているからだ!
諫言しても無駄だと分かっているから、誰も何も言わないのだ!
皇帝が過ちを知ろうとしなければ、臣下は皇帝の過ちを正そうとはしない!
臣下が国を滅ぼしたくないと思っていても、皇帝が聞かなければ意味がない!」
「たとえ皇帝が聞き容れて下さらなくとも、誰かが言わなければならないのです!!
反乱軍を武力によって抑えても、何の解決にもならないのです!!
この乱を、暴力で以て止めてはならないのです!!
今、本当に必要な事は、武力による鎮圧ではないと言う事を皇帝に伝えなければなりません!!
誰も何も言わないのならば、私が言います!!
『君使臣以禮 臣事君以忠
(君主は礼を以て家臣を扱い、家臣は忠義を以て君主に仕えるべきである)』」
「やめろ!!
無駄だ!!
何を言っても、皇帝は聞き容れては下さらない!!
それに、反乱軍は虐殺を重ねている!!
武力で以てしか、最早止める事は出来ない!!」
「分かっています!!
無駄だと言う事も!!
私の言葉などで、この乱を止める事など出来ないと言う事も!!」
「・・・」
「それでも、私は皇帝に知って頂きたいのです!!
たとえ今、反乱軍を武力で以て鎮圧する事が出来たとしても、また再び反乱は起こります!!
反乱が繰り返されれば、国は疲弊し滅びるのです!!
多くの人の命が、奪われるのです!!
根底を変えなければ、反乱の本を正さねば、何も変わらないのです!!
早く伝えなければ、早く反乱を止め、これから国はどうあるべきかを皇帝に気付いて頂かねばならないのです!!」
「・・・」
「『政者正也
(政治とは、正しい行いをする事である)』
『為政以徳
(徳により、政治を行う)』
『君子不以人廢言
(君子は真実の言葉ならば、その言葉を退ける事は無い)』
『天地之性 人爲貴
(天と地の生あるものの中で、人ほど貴いものは無い)』
『導之以政 斉之以刑 民免而無恥
(規制により民を導き、刑罰を以て治めれば、
民は逃れさえすれば良いと考える)
導之以徳 斉之以礼 有恥且格
(徳を以て民を導き、礼を以て治めれば、民はその身を正す)』
『能以禮讓爲國乎 何有
(礼譲を以て国を治めれば、国は治まる)』
私に、倭に様々な事を教えてくれたのは、伝えてくれたのは、この国ではありませんか!?
何故、その思いに背くのですか!?
何故、その教えを守らないのですか!?
何故、その精神を継がないのですか!?
何故、その言葉を実行しないのですか!?
何故、人を信じないのですか!?」
「・・・」
「貴方も、分かっているはずです!!
この乱が、何故起こったのか!?
この乱の根底にあるものが、何か!?」
「・・・」
「この乱は、単に黄巣と王仙芝によって起こされた反乱ではありません!!
唐の悪政に苦しむ民が、唐王朝への憎しみが起こした反乱なのです!!
黄巣は、圧政に苦しむ民の不満を利用したに過ぎないのです!!
これは、民による反乱です!!」
「・・・」
「飢饉や自然災害により皆が苦しんでいたにも拘わらず、国は何もしませんでした!!
救おうとしませんでした!!
寧ろ重税や徴兵により、更に民を苦しめました!!」
「・・・」
「国は人々を守るどころか、苦しみを与え続けてきたのです!!
この乱は、腐敗した国が招いたものです!!」
「・・・」
「これは、私の責任でもあります!!」
「!?」
「私に、もっと力があれば良かったのです!!
この国を救う事が出来る位の力と地位があれば・・・!!
倭にばかり目を向けず、目の前にあるこの国を守るべきだったのです・・・!!
私が・・・もっと早く・・・皇帝をお諫めしていれば・・・!!
救えた命が・・・あった・・・はずなのに・・・!!
私の・・・せいで・・・!!」
「君のせいではない!!
君が言った通り、この国はとうの昔から腐敗していた!!
腐敗したこの国の皇帝は、諫言など決して受け容れない!!
君がいつ皇帝を諫めようとも、皇帝は断じて君の言葉などに耳を傾ける事は無い!!
皇帝が諫言を聞き容れなくなった時点で、この国は亡びる運命だったのだ!!
隋の煬帝(※注17)も諫言を受け容れず、隋は滅んだ!!
だから、何だと言うのだ!?
国とは、新しい王朝が出来、繁栄し、腐敗し、乱が起こり、破壊され、滅びるものだ!!
その繰り返しだ!!
それが、世の常だ!!
この国も、長い歴史からすれば一瞬の事に過ぎない!!」
「たとえ一瞬の事でも、私にとっては何よりも尊く掛け替えの無いものなのです!!!」
「この国は、君が守る程の価値はない!!
君の命は、こんな国の為に棄てるべきではない!!
この国は、今、狂っている!!
期待しても無駄だ!!
信じても無意味だ!!」
「・・・」
「君は、倭の為に成したい事があったのではないのか!?
倭を発展させたいと、だからこの国で多くの事を学び、倭に持ち帰りたいと言っていたではないか!?
この国の知識を、倭に伝えたいと言っていたではないか!?」
「・・・」
「君の命は、倭の為に使うべきだ!!」
「私は、この国が、この国の人々が好きなのです!!
もう、間に合わないかもしれない!!
でも、まだ間に合うかもしれない!!
私は、この国を救いたい!!
腐敗してしまったこの国を、守りたい!!
私が、倭が、今まで受けて来た『恩』を返したい!!
私は、倭は、多くの事を貴方達から学んだ!!
私は、この国が進もうとしている誤った道を正したい!!
貴方達は、国のあるべき姿、人とはどうあるべきかを私達に教えてくれた!!
文化を、政を、法律を、道徳を私達に教えてくれた!!
今、倭が在るのは、この国の・・・貴方達のおかげなのです!!」
「君は、【諫官(※注18)】ではない!!
君に、この国を救える力など有りはしない!!
況してや・・・!!」
≪私≫は、言葉に詰まった。
≪彼≫を傷つける言葉など、言いたくなかった。
しかし、言わなければ≪彼≫が死ぬかもしれないと思った。
どんな手を使っても、≪彼≫を止めなければならないと思った。
だから・・・。
だから≪私≫は・・・言わなければならないと思った。
≪私≫は拳を握り締め、≪彼≫の目を見据えて叫んだ。
「況してや君は、この国の人間ではないのだ!!
たとえこの国の血が半分流れていたとしても、君の心は倭にある!!」
嫌だ!!
「君は、この国の人間ではない!!
だから、気付いていないのだ!!
君は、何も分かっていないのだ!!
この国の恐ろしさを!!
この国は今、国の為に皇帝が在るのではない!!
皇帝の為に、国が在るのだ!!」
やめろ!!
「『侍於君子有三愆
(君子に仕える時にする過ちが三つある)
言未及之而言 謂之躁
(言うべきで無い時に余計な事を言う【躁】)
言及之而不言 謂之隱
(言うべき時に必要な事を言わない【隠】)
未見顏色而言 謂之瞽
(君子の顔色も見ないで自分勝手に言う【瞽】)』
君が今、行おうとしている事は【躁】と【瞽】だ!!」
嫌だ!!
言うな!!
「『信而後諫 未信 則以爲謗己也
(君主に仕えるのならば、先ず君主から信頼され、
その後、諌めるべきである。
未だ信頼されていないのに君主を諌めようとすると、
君主は自分を謗っているのだと思い聞き容れない)』
『信じて諫めざれば之をおもねりへつらう』と言う!!
正諫(※注19)は、太宗であったから聞き容れられたのだ!!
【貞観政要】は、太宗と魏徴(唐の諫臣)との信頼関係があったればこそだ!!
皇帝と君との間に、信頼関係など存在しない!!
信頼関係など無いのに、諫言などすれば・・・君は・・・!!」
嫌だ!!
言いたくない!!
≪彼≫を、傷つけたくない!!
「『忠言逆耳
(人は、忠告の言葉を受け容れ難い)』
『事君數 斯辱矣
(君主に諫言し過ぎると、それがどんなに正しくとも君主に疎んじられ
辱めを受ける事になる)』
正しい事を言ったとしても、受け容れられるとは限らない!!
忠言の度が過ぎれば、何をされるか分からない!!
諫言したが為に殺された人間は、数多いる!!」
やめろ!!
言うな!!
≪彼≫を守ると誓った≪私≫が、≪彼≫を傷つけるのか!?
「世は、【晏子春秋】や【貞観政要】の通りにはいかない!!
世の中が、正しいものだけで出来ている訳ではない!!
君の言っている事は、綺麗事に過ぎない!!
夢を見るな!!
現実を見ろ!!」
嫌だ!!
お願いだ!!
言わせないでくれ!!
「今の皇帝は、太宗ではない!!
皇帝は、君の言葉など聞かない!!」
やめろ・・・!!
やめろ・・・!!
やめろ・・・!!
「倭などと言う小国の血を引く君の言葉に、大帝国である唐の皇帝が耳を貸すと思うのか!?
倭など朝貢国、唐の属国に過ぎない!!
君の祖国は、君は、唐の召使でしかない!!」
やめろ・・・!!
いや・・・!!
言わなければ・・・!!
言わなければ!!
言わなければ・・・≪彼≫は・・・死んでしまう・・・!!
≪彼≫を・・・死なせたくない・・・!!
≪彼≫を・・・生かしたい・・・!!
「今は、人心が乱れている!!
諫言などすれば、何をされるか分からない!!
君の命など、虫けら程度にしか思われていない!!
この国は、簡単に君の命を棄てる!!」
言わなければ・・・!!
言わなければならない・・・!!
≪彼≫と出会う前の≪私≫に戻れ!!
自分の心を隠していた≪私≫に戻るのだ!!
「君以外にも、この国には倭の人間が沢山いる!!
彼らが、唐に棄てられようとする君を救おうと思うか!?
君を、守ろうとするか!?
この大国を敵に回してまで、君を助けようとするか!?
もしかしたら彼らは皇帝に諫言しようとする君を倭にとって邪魔な存在だと、危険な存在だと思うかもしれない!!
彼らに虐げられるだけならまだしも、場合によっては殺されるのかもしれないのだぞ!?」
≪私≫の傍にいなくても良い・・・!!
≪彼≫が、生きてさえいれば良い・・・!!
≪彼≫に、生きていて貰いたい・・・!!
たとえ≪私≫の言葉で≪彼≫を傷つけようとも、
≪彼≫に生き続けてもらいたい・・・!!
「抑々、皇帝は君の存在さえ知らない!!
君など、その他大勢に過ぎない!!
この国にとって、君はその程度の存在だ!!」
お願いだ!!
行くな!!
逝かないでくれ!!
≪私≫を残して逝かないでくれ!!
「君は!!!
君はこの国にとって、いてもいなくても、どちらでも良い存在だ!!!
いや!!!
寧ろ、この国には不要な人間だ!!!
いらない人間だ!!!
君は邪魔だ!!!
早く倭に帰れ!!!」
ああ・・・!!
もう駄目だ・・・!!
これ以上は・・・!!
もう・・・!!
もう・・・!!
「今まで・・・何の為に此処で学んできたのだ・・・?
倭の為では・・・なかったのか・・・?
今まで得た知識を・・・倭で生かさなくて良いのか・・・?
全て・・・無駄にするつもりなのか・・・?」
すると、ずっと黙っていた≪彼≫がゆっくりと口を開いた。
「・・・その生かす時が・・・『今』なのです・・・。
私は・・・この国を・・・守りたいのです・・・。
この国を・・・信じたいのです・・・。
この国に・・・思い出してもらいたいのです・・・。
私は・・・この国を・・・諦めたくないのです・・・」
≪彼≫が静かに呟くと、遠くから叫び声が聞こえて来た。
目には見えないが、大軍が押し寄せて来ている。
≪私≫は、≪彼≫の腕を捕まえた。
≪私≫は、≪彼≫を死なせたくなかった。
≪私≫は、≪彼≫を失いたくなかった。
≪私≫は、絶対に≪彼≫を放してはならないと思った。
≪私≫は、≪彼≫の腕をきつく握り締めながら叫んだ。
「黄巣軍が、直ぐ其処まで来ている!!
皇帝も身を隠し、逃げる準備をしているだろう!!
皇帝は、もう何処にいるか分からない!!
君は、皇帝を見つける事は出来ない!!
早く、一緒に逃げよう!!」
すると≪彼≫は俯きながら、小さな声で言った。
「私は確かに・・・この国の人間では・・・ないのかもしれません・・・。
私は・・・中途半端な存在・・・なのかもしれません・・・」
「・・・」
「私は完全なる唐の人間にも、完全なる倭の人間にも・・・なれないのかもしれません・・・」
「・・・」
「私は・・・『どちらでもない存在』・・・です・・・」
そう呟くと≪彼≫は顔を上げ、≪私≫を見つめながら叫んだ。
「私は、『どちらでもない存在』です!!!
しかし同時に、『どちらでもある存在』なのです!!!
私は、どちらの為にも生きていく事が出来ます!!!
私に流れる唐の血と、倭の血で、どちらの国の為にも生きていく事が出来る!!!」
「・・・」
「私は倭に・・・祖国に帰り、祖国の為に生きたいと言いました!!!
しかし、私に流れる血の半分は唐の血なのです!!!
この国は、私の祖国でもあるのです!!!
私の祖国は、唐は・・・【貞観の治】を成し得た国なのです!!!
私は・・・私の・・・貴方の・・・この国を・・・唐を・・・守りたい・・・!!!」
「・・・」
「私は・・・倭に様々な事を教えてくれた唐に・・・戻ってもらいたい・・・。
唐を・・・守りたい・・・。
私の祖国である唐は素晴らしい国なのだと、私は倭に伝えたい・・・。
倭は、唐のように素晴らしい国なのだと知ってもらいたい・・・。
私は・・・私の二つの祖国を・・・守りたい・・・」
ああ・・・!!
駄目だ!!
このままでは≪彼≫は逝ってしまう!!
≪私≫を残して、逝ってしまう!!
≪私≫は、≪彼≫の腕を更に強く握り締めた。
≪彼≫を、絶対に放してはならない。
≪私≫は、≪彼≫に求めた。
「・・・お願いだ・・・。
・・・やめてくれ・・・。
・・・私は・・・君に・・・比干(※注20)のようになって欲しくないのだ・・・」
「・・・」
≪私≫は、もう自分の気持ちを抑える事が出来なかった。
≪私≫は、叫んだ。
「私は・・・!!!
私は・・・君さえいれば・・・このような国どうなろうが関係ない!!!
君さえいれば良いのだ!!!」
「・・・」
「私は、君の傍にいると誓ったのだ!!!
私は、君を守ると誓ったのだ!!!
私は、君を死なせたくない!!!
私は、君を死なせはしない!!!!!」
「・・・」
「もし・・・それでも・・・君が行くと言うのなら・・・私も・・・!!!
私も・・・君と共に・・・!!!」
すると≪彼≫は、≪彼≫の腕を握り締める≪私≫の手に優しく自分の手を重ねながら呟いた。
「・・・駄目ですよ・・・」
「・・・」
「・・・貴方には・・・生きてもらいたい・・・」
「・・・」
「私の・・・代わりに・・・」
≪私≫は悲しそうに呟く≪彼≫を見つめながら、涙声で言った。
「どうして・・・。
どうして・・・君が・・・命を懸けなければならないのだ・・・?」
すると≪彼≫は、襟元から何かを包んだ真っ白い布を取り出した。
その包みの中には、一本の枝が入っていた。
それは、かつて≪私≫が≪彼≫に贈った梅の枝だった。
≪彼≫はその枝を見つめながら少し悲しそうな、そして嬉しそうな顔をして囁いた。
「・・・梅を・・・。
・・・貴方から・・・梅を・・・受け取ったから・・・」
「・・・」
「嬉しかった・・・」
そう言って、≪彼≫は優しく微笑んだ。
そして≪彼≫は自分の腕を握る≪私≫の手を握り、微かな声で言った。
「済みません・・・」
そう言うと、≪彼≫は全身で≪私≫の手を振り解いた。
≪彼≫の温かい涙が、振り払われた≪私≫の手に落ちた。
≪彼≫は、身を翻して走って行った。
≪私≫は、≪彼≫を追い掛けようとした。
≪私≫は雪に足を取られ、倒れた。
≪私≫は直ぐに立ち上がり、≪彼≫を追い掛けた。
しかし、もう既に≪彼≫の姿は≪私≫の目の中から消えてしまっていた。
≪彼≫は、行ってしまった。
≪私≫の手の届かない所に、≪彼≫は行ってしまった!!
≪私≫は、≪彼≫の手を放してしまった・・・!!
決して、放してはならなかったのに・・・!!
≪私≫は、自分の手に落ちた≪彼≫の涙を見つめながら呟いた。
「違う・・・!!
違う・・・!!!
そうではない・・・!!!
そのような事をさせる為に・・・私は・・・君に・・・梅を贈ったのではない・・・!!!
私は・・・!!
私は君に・・・喜んで貰いたかったから・・・!!
君の喜ぶ姿が・・・見たかったから・・・!!
君が・・・梅の花に・・・似ていたから・・・!!
だから・・・君に・・・梅を・・・贈ったのだ・・・!!
君に命を棄てさせる為に・・・君に梅を贈ったのでは・・・ない・・・!!
私は・・・ただ・・・君の事が・・・!!!」
『君の事が・・・』
本当に・・・?
本当に、それだけだっただろうか・・・?
≪私≫は≪彼≫に、自分の思いを、自分の叶えられないものを託したかったのではないだろうか・・・?
本当は≪私≫自身が欲していた、自分では成し得ない、恋焦がれていた理想の世界を、白い梅と共に≪彼≫に託したのではないだろうか・・・?
≪私≫は、≪彼≫に自分の願いを託したのではないだろうか・・・?
自分の叶えられない『願い』を・・・。
自分の『生』を、≪彼≫に託したいと思ったのではないだろうか・・・?
≪私≫は・・・。
≪私≫は・・・。
≪私≫は・・・。
いや。
今は、そんな事を考えている場合ではない!!
≪彼≫を探さなければ!!
≪彼≫を救わなければ!!
≪彼≫を守らなければ!!
≪私≫は、≪彼≫を探した。
走って。
走って。
走って。
走って。
走って。
走って。
走って。
走って。
走って。
走って。
走って。
走って。
走って。
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走って。
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走って。
走って。
走って。
走って。
走って。
走って。
走って。
走って。
走って。
走って。
走って。
走って。
そして、やっとの事で≪彼≫を見つけた。
≪彼≫は、血塗れで倒れていた。
その手の中には、梅の枝があった。
梅の枝は、折れていた。
真っ赤に染まったその梅の枝を、≪彼≫は力強く握り締めていた。
≪私≫は、≪彼≫に駆け寄った。
≪私≫は≪彼≫を抱き起こし、必死になって≪彼≫の名を呼んだ。
≪彼≫はうっすらと目を開け、微笑んだ。
そして手に握った真っ赤な梅の枝を≪私≫に差し出しながら、小さな声で言った。
「ありがとう・・・」
そう一言だけ言って、≪彼≫は逝った・・・。
微笑みながら、≪彼≫は逝った・・・。
≪私≫は、梅の枝を握り締める≪彼≫の手を握った。
≪私≫は、冷たくなっていく≪彼≫の身体を抱き締めた。
命を懸けて守ろうとした国に殺されたのに、≪彼≫は最期に
『ありがとう』
と一言だけ言った・・・。
≪私≫は、≪彼≫の細い真っ赤な身体に自分の顔を埋めた。
≪彼≫は、唐を止める事が出来なかった。
≪彼≫は、倭に帰れなかった。
≪彼≫の望むものは、一つも実現出来なかった。
それでも、≪彼≫は笑って逝った。
≪彼≫は、幸せだったのだろうか・・・?
自分の信念を貫き、生き、死ぬ事が出来て・・・。
≪彼≫は、≪彼≫の夢を叶える事が出来なかった・・・。
≪彼≫の願いは、一つも叶わなかった・・・。
≪彼≫の・・・。
いや・・・。
まだだ・・・。
まだ・・・叶える事が出来る・・・!
≪彼≫は≪彼≫の愛する二つの祖国を、この国で愛し続ける事が出来る・・・!!
≪私≫ならば、≪彼≫の願いを叶える事が出来る・・・!!
≪私≫が、≪彼≫の願いを叶える・・・!!
≪私≫が、≪彼≫の夢を叶えてみせる・・・!!
≪彼≫を・・・この地に・・・!!
≪私≫は、真っ赤に染まった≪彼≫の遺体を抱き上げた。
≪私≫は、≪彼≫の為の場所を探した。
≪彼≫が、静かに眠る事が出来る場所を・・・。
≪彼≫が、求めている場所を・・・。
≪彼≫の愛したこの国を、見渡せる場所を・・・。
≪彼≫の愛した海の向こうにある国を、見つめ続ける事が出来る場所を・・・。
≪彼≫の愛した梅を、見続ける事が出来る場所を・・・。
≪私≫は≪彼≫を抱きかかえながら、≪彼≫の為の場所を必死に探した。
必死に探した。
必死に探した。
必死に探した。
その時、≪私≫はこの先に小高い山がある事を思い出した。
其処には、一本の大きな梅の木があったはずだ・・・。
≪私≫は、直ぐに山を目指した。
近くまで来ていた黄巣軍を避けながら、≪私≫は必死に走った。
≪彼≫を抱き締めながら、必死に走った。
もうこれ以上、≪彼≫を傷付けたくなかった。
もうこれ以上、≪彼≫を悲しませたくなかった。
もうこれ以上、≪彼≫の目を汚したくなかった。
≪私≫は、必死に走った。
必死に走った。
必死に走った。
必死に走った。
そして≪私≫は、何とか≪彼≫と共に山の頂上まで来る事が出来た。
≪私≫は、梅の木の下まで≪彼≫を連れて行った。
≪私≫は、≪彼≫と共に梅の木を見上げた。
梅は、咲いていなかった。
≪私≫は、腕の中にいる≪彼≫に囁いた。
「来年、きっと花が咲く・・・。
君は永遠に、梅の花を見続ける事が出来る・・・」
≪私≫は≪彼≫を横たえ、その梅の木の下を掘って≪彼≫の遺体を埋めた。
土の中の≪彼≫の顔は、初めて出会った時と同じように美しかった。
≪彼≫は、優しい笑みを浮かべていた。
≪彼≫は、これから梅と共に咲き続けるのだ・・・。
≪彼≫の愛した梅と共に、永遠に生き続けるのだ・・・。
≪私≫は≪彼≫を、≪彼≫が愛したこの国に残してあげたかった。
しかし、これ以上≪彼≫に醜いこの国を見せたくなかった。
≪彼≫を、汚したくなかった。
此処からならば、汚れたこの国はあまり見えない。
このずっと先には、海の向こうには、倭がある。
≪彼≫のもう一つの祖国である倭がある。
≪彼≫は、ずっとこの国で、梅と共に、二つの祖国を見守り続ける事が出来る。
その後、黄巣軍の侵入と唐政府の反撃により都は燃えた。
≪私≫の家も燃え、家族もどうなったか分からない・・・。
≪私≫は≪彼≫が守ろうとした、≪彼≫が愛したこの国を棄てた。
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唐は、滅んだ・・・。
≪彼≫の愛した国は、滅んだ・・・。
≪彼≫は、誰に殺されたのかを言わなかった・・・。
この国に殺されたのか、それとも≪彼≫のもう一つの祖国に殺されたのか・・・。
≪彼≫は、言わなかった・・・。
代わりに言った
『ありがとう』
と言う言葉が、優しく微笑んだ≪彼≫の顔が、≪彼≫の最期の本当の気持ちなのだろう・・・。
≪彼≫を守る梅の木は、毎年、白い花を咲かせる。
香り高い、雪のように白く美しい梅の花。
≪彼≫の好きだった白梅が、真っ白い雪と共に空を舞う。
≪彼≫は、≪彼≫の愛したこの国でずっとこの先も生き続ける・・・。
≪彼≫の愛したもう一つの祖国を、見つめ続ける事が出来る・・・。
梅の花となって、≪彼≫はこの国を舞い続ける・・・。
≪私≫は、≪彼≫の傍にずっといられる・・・。
≪私≫はこの命が尽きるまで、君と一緒にいよう・・・。
君の傍を、離れはしない・・・。
≪彼≫の夢は、叶った・・・。
≪彼≫の願いは、叶った・・・。
≪私≫の願いも、叶った・・・。
≪私≫は、≪彼≫から受け取った白梅の枝を握り締めながら誓った。
雪と共に、梅の香りも舞った。
この国で、君と共に・・・。
君と出会った、君と過ごしたこの国で、君と共に・・・。
永遠に・・・。
永遠に・・・。
≪私≫は、≪彼≫の名を呼んだ・・・。
「道仁・・・」
真っ白い『香雪』が、空を舞った・・・。