この心を濡らす雨
彼に運ばれた後、礼拝堂内に併設されている医務室で目を醒ます。
こちらを呆れた顔で見る飼い主と飼い猫と目が合った。あまり歓迎はされていないようだ。
あっちはうんともすんとも言わないが無言のしかめっ面が、彼のへの字に曲がった根性をよく表現しているな。
「……おはようございます」
「よく眠れたようだね」
「お陰様でというか……疲れてますか?」
「わかるかい? 君のせいでね」
寝起きから皮肉を投げられるなんてもう何度目だろう。
「まあ、彼女がここにいるのは、大方君の仕業だろうってことはわかるけど」
「ミィア〜」
「開き直るんじゃないよ」
彼の肩に乗っかって悪気もなく返事を返すココに、中指で軽くおでこを弾く。ご主人からのお咎めにココも低く唸って小さな反抗をしている。デコピンで赦されるなんて可愛いものだ。
羨ましくも思いながら主人と飼い猫の仲睦まじい光景を堪能していた。じゃなくて。うっかりなごんでる場合じゃなくて。
「だって、高雅さんが急に図書室からいなくなるから……」
「君の許可が必要とでも言うのかい。バカの先入観で片時も本を読んでいるなんて決めつけないでくれるかい」
いや、大体本しか読んでないじゃんか。この本ニート。
反論すればしかしこの野蛮人に再び眠らされるかもしれない。余計な口は塞ぐようにした。
それにしても礼拝堂だなんて、あの桐嶋高雅からはちょっと想像がつかない場所だったものだから、面食らったところはある。
「じゃなくて、また一人で抱え込もうとしてるんじゃないかって、心配になるじゃないですか。最近の高雅さん、何か変だし……」
あのときのスバルさんへのあたりもやけに強いし、一瞬思い詰めたような顔を見逃さなかった。けれど彼の口はかたい。
「君のそういうところがムシャクシャするんだけど」
「ふえ!? 高雅さんをそんなに怒らせることしましたか!?」
ここまでの何が彼の怒りの沸点に触れたというのか。寝起きの頭が上手く回っていないのがもどかしい。
ベッド脇にこちらを窺う高雅さんの腕が不意に伸ばされると、思わず身構えた。そして彼の涼しげな目が、小動物を捉える。
「……痛むかい」
頭の包帯に触れる彼の手は、大きくてあたたかい。
さっきから少し痛む頭に包帯がされていることに気づくのが遅れた。倒れたときに思いっきり頭をぶつけたようだ。これ以上頭がバカになったらどうしよう。
「あ……この包帯も高雅さんが……」
「急に扉を開けた君も大概だけど、あの破天荒シスターには今後も気をつけなよ。ろくなことにならないから」
態とらしく顔を逸らすのも、彼の根っからの不器用さが垣間見える。不機嫌な素振りで何も言わないけど、ここまで運んでくれた彼の気遣いはしっかり気づいているよ。
そんな彼が忠告をする人物……あのとき一瞬しか見えなかったけど、くりくりとした瞳に丸眼鏡をかけたあの女の人のことだろうか。
「シスター・テレサ……この学院で化けの皮を被っている修道女の名だよ。人の顔を見るなり飛び掛かってくる野蛮な信仰者だ。君も死にたくなければ迂闊に近づかない方がいい」
腑に落ちないような顔で高雅さんは淡々と彼女について忠告をする。
あなたも人のことはあまり言えないだろうけど、彼らが水と油の関係であることはわかった。
白馬先生の他にも高雅さんと対等に渡り合える人がいるなんて……と私も言葉を失っていた。
あの老いぼれ爺さんも物好きだ。右も左も変人ばかりでこれじゃ身が持たないかもしれない。自分のことは棚に上げておいた。
「でもそれなら、どうして態々こんな場所に……あっ、何か神様にお願いしたいことが?」
まさかあの桐嶋高雅に限ってそんなことはないと思っているけど、彼がこの場所に来る理由が今のところは想像もつかない。あのシスターとも仲が悪そうだし。
「そうだね……神って奴が本当にいるなら、そいつにひとつだけ確認しておくことはあるかな」
意外な答えが返ってくる感じでもなかった。想像通りの高雅さんの言葉だけど、ふとした瞬間に彼の顔には翳りが見えるような気がする。それに気づいても、はぐらかされてしまう気がして、こぼれそうになる言葉を呑み込んでしまった。
彼の膝の上でココが退屈そうに寝返りを打った。
ここで目を醒ますまで、どれくらい時間が経っていたんだろう。教室よりも狭い空間で、高雅さんと沈黙した時間を過ごしていると、落ち着かなくなってくる。
「……それで、気が済んだならもう帰れば。白馬が何か言ったのか知らないけど、あんな有象無象がいる場所に戻るつもりはないよ」
そういえば、何か彼に伝えなきゃいけないことがあったんだ。
今朝のおじいちゃんとの一端を思い出し、藁にも縋る思いで彼に訴える。
高雅さんがいれば来月の試験も何とかなるだろうと楽観的に考えていた。まさか彼からあんな返事が返ってくるなんて、バカは1ミリも考えていない。
「……考えさせて」
高雅さんからは意外で、それはあまりにも期待外れな返事だ。置いていかれそうになる思考を引っ張って、白紙の答案のような頭から言葉を絞り出そうとする。
「え……それはいつまで待てば……?」
「……さあね。そもそもこれまでだってお情けで君に付き合ってあげていたんだ。期待されても困るんだよ」
ココを抱き上げて、立ち上がった高雅さんの視線はこちらを冷たい光で貫く。
遠くから、また雨の気配がする。
「……この際だからはっきり言うよ。もう君には付き合いきれない。もうあの場所には来ないでくれ」
昔のように彼から突き放されていくのを、私はまたあの日のように呆然と見ていることしかできない。どうしてそんな言葉をかけておきながら、その背中は寂しそうなのか。
離れていく彼の背中を閉まる扉が阻むまで目で追いかけて、頬の輪郭をなぞるように線がこぼれ落ちた。