もしも光があるなら
この瞬間の胸にあるものに言葉があるとすれば、この心は答えを導き出せるだろうか。
あなたが前を走るこの瞬間の景色を、いつかは忘れてしまう日が来るのかもしれない。そんなことを思う。
いつかあなたという存在が、光の速さでこの手には届かない場所へ行ってしまうような気がして。
そんなことを考えると、この胸は苦しい。
そんな「いつか」が訪れる日が来るのなら、私はきっと後悔するのだろう――。
青葉が擦れる音に紛れて、遠くからはパレードの賑わいがこの耳に届く。
まるで人目を避けるようにようやく足を止めたのは、表の喧騒からは一線を引いた静かな場所だった。
校内の辺鄙な場所にある中庭に、人の気配はないようだ。もう少し中庭の奥に進むと、白亜の礼拝堂の建物が見える。
木陰が重なり合う芝生の上には、初夏を感じさせる木漏れ日が水面のように揺れている。そこまで来ると彼が足を止めたので、私もその背中を何も言わずじっと見上げていた。
「君は自分の立場をわかっていない」
こちらに彼の表情を隠したまま、開口一番に説教をされてしまった。さっきはつい出しゃばったことを言ってしまったかもしれないけど、高雅さんもあんなに好き勝手言わせるなんてらしくない。
「あの老いぼれに君の面倒を頼まれたけど、あの場で君が僕を庇う必要はない。余計なお世話だよ」
どうやらこんな格下のバカに庇われたことが、彼のプライド的には気に入らないらしい。
きっとその言葉の裏には、少しばかりこちらを心配してくれたんだろうけど。
「私が嫌だっただけです。高雅さんのこと、あんな風に言われるのが」
高雅さんに「余計なことをするな」と釘を刺されても、バカは納得できない。
今日くらいは外の空気を吸って、あなたといろんな景色を見たいと思ったのに、それを台無しにされたこともすごく残念だった。
「……別に、慣れてるから。あれくらいは。それに君もこの目で見ただろう。桐嶋高雅という人間が、外の奴らにどう思われているか」
高雅さんがそう言うように、昔何かがあったことは事実なんだろう。
実際に私もこの目で彼の凶暴性を目の当たりにしたことがある。だからその事実は、まだ全貌はわからないけれど、案外すんなりと飲み込むことができた。
「僕といれば、君も同じ目で見られる。嫌なら僕から離れたらいい。止める権利はないから」
ようやくこちらを見てくれたかと思えば、また真面目な顔つきをする。
「君みたいな人間は、本来表舞台にいるべきだ。こんなつまらない奴の相手をするより」
「高雅さん……」
瞬間的にこの間の水中ダイビングのことが、掘り起こされる。散々だったけど、振り返ればそこそこいい思い出になった。
そうやって自分から人を突き放して、人と関わることを諦めてきたんだ。
こんなことを何度繰り返すのだろうか?
「高雅さんはバカなんですか?」
顔色ひとつ変えずにこっちがそう言えば、高雅さんは少し意表を突かれたような顔をする。
そしてバカにバカと罵られ、若干不服そうな顔をする。そこは律儀に反応しないでほしい。
「嫌ならとっくに学校なんか辞めて、家でヒモ騎士読んでますよ。前にも言ったじゃないですか。バカを舐めないでください。高雅さんが淹れてくれる紅茶も、図書室でダラダラしたり本のみんなとわいわいする時間も好きですよ。ココとナッツに出会えたのも、高雅さんの能力のお陰です」
芝生の上の二匹は、二人の周りを囲んで静かにこの場の成り行きを見守ってくれている。
桜が満開の日に、白猫が突然現れて、図書室で彼と巡り合わせてくれた真意は今もわからないけれど、別にそんなことには拘らない。
「外の声なんて関係ないです。私がどうしたいかなんです。そりゃ白雪姫やらされるのは今も嫌だけど、高雅さんが喜んでくれるならバカも全力でがんばりますよ!」
今度こそ、大船に乗ったつもりで、本の世界を心の拠り所にする意地っ張りな彼を振り向かせることができたなら嬉しい。
まあ、こんな社会の落ちこぼれでも役に立てることがあるなら、がんばるしかないじゃん。
こんな能のない奴でも何も考えずに生きてるんだから、適度に息抜きをすることも大事なんじゃないかな。
そんな思いも込めて、精一杯彼に笑顔を作る。
「……君みたいな底抜けにお気楽なバカは、他に見たことがないよ」
いや、それどういう意味だよ。バカにもわかりやすく言ってくれと頼みたいところだ。今のところバカにされたことしか伝わらない。
こんなバカが励ますためにそこそこがんばってるんですから、少しくらい褒めてほしいものだ。
あとでまた猫ちゃんズに愚痴るのが目に見える。
「……悔しいな。よりにもよってこんなお花畑の奴に」
吐き捨てた吐息のように、そんなことをぼやく。
何がそんなに悔しいことなのか。簡単には口にしてくれない彼の思考を読もうなんて無謀にも考えていたら、その人の口元は不意に緩んだ。こちらに向けられる眼差しは、普段と比べるとほんの少し穏やかに見える。
やけにその人との距離が近いと思えば、彼の腕がおもむろにこちらの身体を引き寄せて、今度は頭の後ろまで彼の手にしっかりと固定される。
一瞬頭がスリープして、彼の息遣いやにおいにだんだんと脈が速くなる。
「けど……こうして君を抱きしめていると落ち着く」
今度は近すぎて、彼の表情は見えない。
この辺りに人気はないけれど、彼にこの身体を抱きしめられる理由が特に見当たらない。
彼の心臓の音まで聞こえるんじゃないかって、この胸は早鐘を耳元で打ちつける。ちょっと汗臭くないだろうか。朝はあんなにはしゃいでしまったし。
そばにいる二匹も、こちらを見上げて興味津々のようだ。そんな彼らの好奇の目にも耐えられず、彼が何を考えてこうしているかもさっぱりわからない。
「……桃香」
人目に隠れてこんなことになっている状況がなんだかうまく飲み込めなくて、身体の熱が上がっている私に高雅さんがそっと囁く。
抱きしめる力を緩める気配は、まだない。