この陳腐な世界で
久々の朝投稿です。緊張。
遠賀原さんの話を引き摺りながらも、ひとまずは高雅さんの元へ戻ろうとしたら、そこへ小さな男の子がタタタッと駆け寄っていく。幼稚園くらいだろうか。
「わあ! 猫だ! 猫ちゃんが二匹もいる!」
彼の肩と足元にいるココとナッツを見つけて、純粋な目は満天の星空のようにキラキラと輝いている。
しばらくそうしている男の子にも、高雅さんはうんともすんとも言わない。まるで石像のようだ。
そんな飼い主の代わりに、彼の足元にいたナッツが、サービス精神旺盛にその男の子のもとに近づこうとしている。
「うにゃあ」
「猫ちゃんがこっちに来てくれた!」
高雅さんは特にそれを咎めることはなく、男の子に頭を撫でられるナッツは嬉しそうだ。それくらいの許容の広さは彼も持ち合わせているらしい。
きっとその男の子には、無愛想な彼がサーカスのお兄さんにでも見えているのだろう。
日常で猫をこんな束で操る男子高校生もそうそういない。
「どこ行ったんだ! タケル!」
「あ! お兄ちゃん!」
少しして、男の子の保護者らしき人が現れる。よく見るとここの制服を着ている。
男の子のお兄さんらしき人物が、どうやら男の子を探していたようだ。
「勝手にどっか行っちゃダメだろ。どうしたんだよ。その猫」
「そこのお兄ちゃんの猫なんだよ」
男の子が抱きかかえる黒猫に反応したその男子生徒が率直に尋ねると、男の子が出店の前にいる高雅さんと肩の白猫に視線を送る。
「早く返してくれない。その猫、僕のなんだけど」
すると、男の子を見つけて安堵していたばかりの彼の顔が、みるみると血相を変える。
まるでこの場ではありえない現象を目の当たりにしたかのように、その目がカッと見開かれる。
「あ、あんたは……桐嶋高雅……!? どうしてお前がこんなところに……!?」
その男子生徒は、どうやら高雅さんのことを知っているようだった。そんな顔に見える。
そして人垣の中で人目も憚らず、彼の名前を叫んだ。突然のことだ。たくさんの人が足を止めて、彼らに注目する。
その人は、咄嗟に前に出るとまるで自分の弟を庇うように、高雅さんのことを睨みつける。
「うちの弟に何かしたのか!?」
一方的にそんなことを言って、警戒心を剥き出しにする。そんな光景を目の当たりにして、この頭が混乱する。
「……何のことかな。僕はただ、そこにいる猫を返してほしいんだけど。君の弟には興味ないよ」
「な、なんだと……!」
ヒートアップする彼らの言い合いを、傍から呆然と眺めた。遠賀原さん達や、通りかかった人達も同じようだ。
「ふざけるなよ! お前のせいでどれだけの人間が傷つけられたと思ってんだよ! あんたみたいな奴が来るところじゃないんだよ!」
心にもない言葉で、その人は高雅さんを責め立てる。
高雅さんの方も、いつものように言い返せばいいのにそうしない。軽く受け流すことも……ただそこで立ち尽くしている。傍らにいるココも、不安げな視線を彼の方に向ける。
「何とか言えよ」
「……」
彼らの間にどんな確執があるのかこの頭には想像もできないけれど、だんまりな彼を見ているとじれったさを感じた。いいように言われるなんて、いつもの彼らしくもない。
それにじれったさを感じていたのは、喧嘩を吹っ掛けた相手も同じようだった。
何も言わない高雅さんにぶつけていた感情を、今度は別のところにぶつけようとする。
「なんだよ。こんなの!」
「あっ! やめてよお兄ちゃん!!」
男の子が抱いていたナッツを片手に持ち上げると、小さい身体は土の地面に乱暴に叩きつけられる。
それを目の当たりにして、沈黙していた高雅さんも黙ってはいられなくなり、殺気を込めた視線を男子生徒に向けた。彼が刹那的に発したそれに、男子生徒も一瞬身を引く。
「あれ……桐嶋高雅ってもしかして図書室の……」
「なんかヤバい先輩って聞いたけど……あの人と関わった人達が、もう何人も怪我したって」
「だから図書室に隔離されてるって話だよ」
次第にこの場を囲む周囲からも、高雅さんへの心ない噂話が広まっていく。彼を責めるようなそんな空気がじわじわと伝染するのも、見ていられなかった。
それもこんな人達の言葉じゃなくて、彼の口から直接聞きたかった。彼が図書室に引き籠もる理由も、彼の暗い過去も……。
「こんな猫くらいしか、話し相手もいないのかよ。だったらこんなところにいないで、ずっと図書室に引っ込んでたらいいじゃないか」
野次馬が騒がしい最中、男子生徒のその一言が、この鼓膜に響き渡る。
その相手を睨んでいる高雅さんを見れば、冷静な意識でなんとか拳を抑えようとしている。これだけのことを言われても、彼だってこの場で大事にはしたくない。
全部私のせいだ。彼も望んではいなかったのに、何も知らずに、こんなところに無理やり彼を引っ張り出したから。
今となれば、彼は自分自身の立場をちゃんと弁えていたのかもしれない。
だから自らあの場所に閉じ籠って、自身の殻に閉じ籠って、そして誰も近づけないようにしていたんだ。自分の存在が、また誰かを傷つけてしまうことを恐れて。そのことを彼が一番よくわかっているから——。
だから、彼の拳が振り上げられようとする間際、二人の合間にこの声が割り込んだ。
「い……いい加減にしてください!」
「なんだよ、あんた」
遠賀原さん達の出店の隅っこで何もできず縮こまっていた奴が、今更なんだと思うだろう。
それでももう黙って見ていることなんてできなかった。彼の足元にも及ばないポンコツだけど、ポンコツなりにまだできることがあるんじゃないかって思う。
「高雅さんだって、誰かを傷つけたいわけじゃなかったのに、そんな言い方ないじゃないですか。何も知らないあなたにそんなこと言われる筋合いあるんですか」
「あんたこそ、こいつのなんだよ」
彼らの間に突然割り込んできたビビりまくりな女子生徒の声に、喧嘩の相手が訝しげな目でこっちを見る。そりゃ入りたての一年が、いきなりしゃしゃり出て何だという話だ。
でもそんなことは入学式に彼と出会ってから、ずっと自問自答してきたことだ。そしてその答えは、今も出せずにいる。
そんなことはいちいち聞かれなくても、こっちだって色々考えてるんだよ。どうしたらあの人の心の氷を溶かしてあげられるんだろうって。
いくら考えたところで、結局のところは今の自分にできることなんかなくて悔しいことばかりだ。
「……繋がりなんて、なんだっていいじゃない」
もう投げやりだ。やっぱり自分の学の無さに無力さを痛感する。
でもこんなことに、ひとつの正解なんてあるのだろうか。
あんなに毎日腐るほど本を読んでいる彼でも、見つけられない答えだってあるんだ。
「先輩も後輩も、あの日のことが偶然でも運命でも、どっちでもいいですよ。そんなのバカには。もっと単純に、もっとその人のことを知りたいと思っちゃったんです。外からどんなことを言われても、こんな落ちこぼれを拾ってくれた人の言葉を信じたい」
あなたがまた独りの殻に閉じ籠ろうとするなら、それを止められるのなら、ない頭でも精一杯がんばるよ。あなたにこの声を届けるよ。もうあんな辛い表情を見たくはないから。
「少なくともあなたよりは、高雅さんのことをわかってるつもりですよ。だから彼をそんな風に言われるのが嫌なんです。高雅さんに、謝ってください。ナッツにしたことも」
彼への暴言も、ナッツへの仕打ちも、ただ一言謝ってくれたらそれでいい。
たったそれだけのことだったんだけど、頭の足りない奴の言葉は、どうやら簡単には伝わらないようだ。
「ふざけんのか。あんた、好きな男がいいように言われて悔しいんだろ」
「なっ……ち、違います!」
別にこの関係は、そんな甘いものじゃない。
遠賀原さん達にも朝からからかわれたけど、外から見ているほど彼との付き合いは綱渡りの上を歩くように不安定で、単純明快なものじゃなくて、ふとした瞬間に千切れてしまうものなんだと頭の片隅で思う。
「黙って見ていれば、どいつもこいつもバカばっかりだね」
嘆息した後に、その声が間に入る。
こんなにあなたのために誤解を解こうとしているのに、なんて反応だ。思わずその人を凝視する。
「……別に何とでも言ってくれて構わないよ。君の話はすべて事実だからね。言い触らすのなら勝手にすればいい」
自分へ向けられる言葉には今まで無抵抗だった彼が、それを言っておもむろに私の前に出る。
きっと真っ赤になって何も言えずにいる私を庇ってくれたのだろうと情けなくもなりながら、胸に溢れるものを噛みしめる。いつかこの背中が背負うものを、こんな未熟な自分が受け止められる日なんて来るのかなんて、わからない。
「けど、そこの勝手に熱くなってるバカは関係ない。このバカまで巻き込むなら、僕は手段を選ばない。今ここで血の惨劇を見せてやることも構わないけど、君にその覚悟はあるのかい」
それが本気だと、表情が強張る相手を睨めつける彼の目が物語る。
その男子生徒と、周りの人達は呆然と高雅さんを見ていたけれど、やがては振り向いた彼の方からこの手を力強く引っ張られる。
そして群がる人垣を分けていきながら無愛想な彼のエスコートに引っ張られるままに、或いは目的もなくどこか遠くへ駆け出していく二人を止める者達はいなかった。