そばにいるよ
焦らしに焦らした展開。
甘く仕上がっているでしょうか。
太陽が傾いている。
早くあの人を探さなければ、この胸がはやるのを必死に抑える。
商店街や公園を隈なく探してそれでも見つからなくて、偶然河川敷を通りかかった時に、ようやく見慣れた人を見つけることができた。
「高雅さん……」
息を切らしながら、自然とその人の名前をこぼしていた。
ぼんやりと土手に佇む彼の姿は、やっぱりどこか虚ろだった。そして深いオレンジ色がかかる水面に、彼が一歩でも足を踏み出せば今にも吸い込まれてしまいそうだ。
「――ダメです! 高雅さん!」
はやる気持ちを抑えられず、私は彼を引き止めるために土手の坂を転がる勢いで駆け下りた。そして実際に足を滑らせた。
思わぬ声に振り返った高雅さんは、そのまま自分のもとに猛突進してくる後輩に一瞬気を取られた。
咄嗟に彼は身構えたけれど、すでに遅かったらしい。
「――――っ!?」
オレンジがかる空に、盛大な水飛沫が跳ね上がる。なんとか高雅さんに抱きとめられたけれど、そのまま二人仲良く水中ダイビングをしてしまった。
浅瀬だから溺れる心配はないけれど、制服のまま二人ともびしょ濡れだ。
案の定全身水に濡れた高雅さんに睨まれる。
「……何のつもり?」
濡れた髪を邪魔そうに掻き上げる彼に、そんなつもりはなかったのだと一生懸命に弁明する。
結局引き止めるどころか、二人で川に飛び込んでしまったけれど。
「こ、高雅さんが、身を投げ出すと思ってつい……」
「早とちりもいいところだよ。君のせいで死ぬかと思った」
丹精込めた皮肉まで投げられてしまった。
へこむ。こんなはずじゃなかったんだけど……。
「……白馬はどうしたの」
「白馬先生とは、一度合流しました。白馬先生の後押しで、高雅さんを探しに来ました」
「……あのお節介教師」
憎々しげに、彼はその悪口を噛み締めている。そして不意に左肩を抑える仕草を見せる。
――そうだ。肩を怪我してるのに、腰まで水に浸かる身体は、お互い着ている服までぐっしょり濡れている。少し微風が吹くだけでも、肌寒い。
「す、すみません、怪我してるのに……」
「僕に触るな」
その一言に、ピリッと身体に電気が流れるような感覚がした。
彼のもとへ伸ばそうとした手は行き場をなくしてしまった。
「どうして……」
「……」
二人の距離は手に届きそうなのに、心の距離はそれを許してくれない。それが寂しかった。
「……昔の夢を見たんだ」
彼の輪郭から滑り落ちる水滴のように、ポツリと呟かれた。
それは、あの時のことを言っているのだろうか。鋭い高雅さんのことだから、きっと盗み聞きしたことも、察してるのかもしれない。
「……正直昔のことを思い出す度に何度も死にたくなったよ。何冊の本を読み漁っても、答えなんか返ってきやしない」
そんな本音をこぼす高雅さんは、どこか遠くの景色を眺めている。過去のページをめくる彼に目の前にいる私の存在などは眼中にないようで、この胸が詰まる。息が苦しい。
「疲れたんだ。この能力に囚われることも、自分自身を責め続けることも……こんな化け物が死んでも、誰の記憶にも残らない」
弱音を口にする高雅さんなんて、初めて見る。
きっとその心は憔悴しているんだ。そんなところに水まで被るような真似をさせて、彼になんてお詫びすればいいんだろう。
「そんな、悲しいこと言わないでください」
「……君にはわからないよ。単純で、苦労も知らない。あの人の温室でぬくぬく育った君なんかに、僕の気持ちなんか」
彼は自暴自棄になりながらそんな刺のある言葉をこちらに向ける。
またそうやって、この手はあなたが作り出す壁に阻まれてしまうのだろうか。難攻不落の鉄壁に、立ち向かうことなど無謀なことなのだろうか。
「――……わかりませんよ。だから何なんですか!?」
何も掴んでいない拳を握りしめる。
あなたのように特別な能力もなければ、頭も足りない。あなたはそれを拒むのかもしれないけど、バカには正直羨ましい。
「そりゃ、白馬先生に比べたら、私なんてあなたのこと何も知りませんよ。それでも今はあなたのそばにいたいと思うんです。辛いことがあるなら相談してほしいし、もっとあなたのことが知りたいんです。それだけなんです」
その壁をぶっ壊すためにこの手も血だらけにして、そこそこ頑張ったんだ。だから一度はあなたの笑顔を見ることができたんだ。
あなたを苦しめた暗い過去があるなら、今度はその壁を壊せるようにバカなりにがんばろうと思うから、あなたにはもっと前を向いて生きてほしい。
「だから……そんな悲しいこと言わないでください……」
「桃香……」
水に浸かる身体が震えるのも気にならず、不明瞭になる視界に彼の姿だけを見つめる。
黒檀色の瞳には、誰を映しているのかなんてわからないけれど、後ろばかり見てないで少しくらいこちらを振り向いてほしいものだ。
何のために痛い思いまでしたのかわかったもんじゃない。
すっかり冷え切った身体に、おもむろに触れるその人のぬくもりは予想外のものだ。
水音が鼓膜を揺らし、水面に水滴が跳ねる。その人の手がグイッと腕を掴んだと思うと、この身体は彼のもとに引き寄せられる。
――冷たい河川の水に浸かりながら、気がつけば高雅さんに抱きしめられていた。それも息が詰まるくらいには、しっかりと。
「高雅さん……?」
「……少しだけ、このままでいさせて」
囁くような擦れ声が、耳元で甘えてくる。
疲弊した身体は寄りかかるように、彼に抱きしめられて火照りそうな私の身体に被さる。
彼が一人で背負うものの重みを感じているようで、複雑な思いがぐるぐるする。
ひとつ答えにたどり着くのならば、ぎこちない動きを見せながら彼の背中にそっと手を添える。
「ほんと……あの老いぼれに似て変わり者だよ。こんなどうしようもない奴に、この世界で光を見せてくれるんだから」
この肩に顔を埋める彼の髪が、少しくすぐったい。
ちょっとでも気を抜いたら、心臓が破裂しそうだ。いつもより余計に頭が回らない。
きっと彼の愚痴に付き合った時間はそれほど長くはないけれど、先にこちらの身が持たなそうだ。
もうちょっとそばにいたいとは言いましたけど、これはちょっと展開が早すぎやしませんか……!?
「このまま誰かに見つかるまで、こうしてようか。桃香」
「ふえええっ!? ああああのちょっと落ち着きましょう高雅さん……!?」
「嘘だよ。君ちょっと汗臭いし」
あっさりと彼の方から手を離され、挙げ句の果てにはもてあそばれるし、汗臭いと小言を言われる。こっちがちょっと泣きたくなった。
すっかりいつもの調子に回復したような彼は、こっちを置いてさっさと川から上がろうとしてるし。こんなしょっぱい仕打ちってある!?
結局また彼に振り回されてしまったことに頭を抱えていたら、彼が背を向ける間際に呟いた小言は、波音を立てる水面にかき消されてしまった。
「お前らどうしたんだその格好!?」
公園に戻ると、白馬先生に第一声で心配された。
それは言わなくとも、川にダイブして二人とも頭までびしょ濡れだ。少し高雅さんの機嫌が斜めなのもそれだ。さっきよりも白馬先生へのあたりがキツい。
白馬先生や小人達を相手にする高雅さんはいつもの機嫌が悪い高雅さんだけど、私の方はすぐに切り替えられるわけもない。
「桃香、どうかしたのか?」
ボーッとしていたら、白馬先生に目敏く指摘された。肩を組まれ、あっちで小人達と戯れる彼に聞こえないよう声のトーンを落とされる。
「高雅と何があったんだよ。言ってみろ」
「えええ……」
生徒の色恋沙汰に、こんなにグイグイ入り込もうとする教師がいるのか。
別に高雅さんとどうこうなんて期待していないけど、これには少し返事を迷ってしまう。まだ彼の温度が、この身体から抜けていない。
「桃香」
名前を呼ばれただけなのに、この胸がやけに敏感に高鳴る。
「さっきのことは、白馬には内緒だよ」
しーっと人差し指を立てて、高雅さんが悪戯っ子のように言う。
どうやらこちらの会話は筒抜けのようらしい。白馬先生は口をすぼめながらつまんなそうにしていた。
夕暮れまで捜索はしたけれど、結局白雪姫を見つけることができなかった。
白馬先生が必死に頭を下げるけれど、仕方ないと一旦は学校に引き返すことにした。日が沈むのも近いし、先に小人達を休ませようとのことらしい。小人達はすっかり遊び疲れて噴水の前でぐったりしている。
白馬先生と高雅さんは再び白雪姫を探すために外に出るということで、一旦は茜色の空をバックに白い校舎を見上げる。
身体の力が抜ける感覚は、まるで長い旅に出ていたようだ。そうして見慣れた図書室の扉を叩く。
「あら、みなさん。随分と帰りが遅かったのですね」
「……」
そこには朗らかな笑顔の白雪姫が、帰りを歓迎している。
じゃなくて、思わずそのまま図書室にスライディングするかと思った。いやなんで白雪姫がいるの?
皆が呆然と白雪姫に目を向けていると、その本人はシートを広げた上に腰を下ろしてチクチクと縫い物をしている。
能天気そうにこちらを見ては「まあ、高雅様とモモカ様はどうしてそんなに濡れていらっしゃるのですか? 風邪を引いてしまいますわ」とお花畑なことを言っている。
「あ、あら……高雅様、何やら怒っていらっしゃいますか?」
「まあね」
巣から引っ張り出され、彼女を探すために走り回って挙句ずぶ濡れという惨事を被った彼の機嫌はいつもより悪いことだろう。
白雪姫の表情は若干引きつりながらも、彼に問い質されてしまったので、渋々という感じでこれまでの奇行の背景を説明してくれた。
「モモカ様はドレスをお持ちになってないようでしたので、舞台用の衣装をと考えておりました。しかし私はこちらの世界の住人ではありませんので、材料をどう調達するか困りまして、仕方なく林檎を売り捌くということにしました」
あのドン引きする量の赤い林檎は、どうやらその衣装の材料費を集めるために用意したものらしい。
彼女はにこやかな笑顔であの数を売り捌いたことを報告し、上機嫌そうだった。白雪姫、恐ろしい子。
「うふふ。せっかくの晴れの舞台なんですもの。主役のモモカ様には、素敵なドレスを着て舞台上に上がってほしいですわ」
無邪気に振る舞う白雪姫は、林檎のように頬をほんのりと染め、川に濡れた私の冷たい手を取りながらそう言ってくれた。
白雪姫……今まであなたを誤解してたよ。
そりゃその笑顔に騙された男の人の数を思うと胸が痛いけど、その気持ちは素直に嬉しいよ。何より私の演技指導に嫌気が差したのではなくてよかった。
「白雪姫……私、もっと上手くなりたい! もっとあなたの愛の鞭にしごかれたい!」
「その意気ですわ、桃香様! 目指すは真っ赤なレッドカーペットですわ!」
二人は熱い抱擁を交わした。
今ならどんな愛の鞭にも耐えられる気がする。そう、今なら彼女と二人でカンヌのレッドカーペットも目指せるかもしれない。完全に頭がバグってる。
「……これただの学園行事なんだけどな」
「野暮だよ。白馬。バカは放っておくのが一番」
白八木さんが持ってきたタオルでさっさと自分の身体を拭く高雅さんが、隣の白馬先生に助言する。
「その愛の鞭とやらはまたの機会にお預けだよ。今回は見逃してあげるけど、次はないからね」
口調は穏やかだけど、少し素っ気ない。
白雪姫が反省しても、彼はまだ怒っているらしい。それだけ彼女のことを心配したんだろう。
そう咎めて、白雪姫の手を取ると、自分の口元に引き寄せて挨拶のようにキスをする。白雪姫は淡い光とともに消えていく。
そんな光景はこの瞬間初めて見たものではないのに、この胸にちくりと小さな針が刺さる。
「あれ……」
「君もぼんやりしてないで、さっさと身体拭けば。主役が風邪を引かれたら元も子もない」
私にはそんな素っ気ない言葉を放り投げて、いつもの自分の席に踵を返す。
白八木さんがタオルを差し出してくれたけれど、私の機嫌はその日どこか悪かったようで、白馬先生や小人達を少し心配させてしまった。