さあ、外の世界へ
白雪姫の迫真に迫る説得が功を奏し、図書委員会は急遽予定変更して校外学習を決行することにした。
「皆様、くれぐれもお気をつけていってらっしゃいませ」
図書室を空けてしまうことになるので、番犬ならぬ番山羊として駆り出された白八木さんに見送られることになった。
これだけのために高雅さんが態々本から呼び出したのだ。才能の無駄遣いである。
「じゃあ、図書室に近づこうとする不届き者は全員追い払っておいて」
「畏まりました」
後ろでとてつもなく恐ろしい会話がなされていることには目をつむった。
それよりも他に気がかりなことがある。私の前を歩く白雪姫の格好だ。確かに本から飛び出した時のドレスの格好のままでは浮いてしまうから、フード付きの黒の羽織りを纏っている。
「ねえ、その羽織り、もしかして……」
「これですか? 叔母様から拝借して来ましたの。どうですか?」
「やっぱり……」
サイズが小柄な彼女には合わなくて、ドレスはすっぽり隠れているけれど、その姿がさながら魔女のようでちょっと距離を置きたくなる。
さらに私が引っかかるのは、白雪姫のその薄気味悪い格好だけではない。
「その籠に入ってるのは何……?」
「林檎ですが、こちらにはありませんでしたか?」
いや、むしろ一年中あるポピュラーなフルーツだけど……言いたいのはそういうことじゃなくて……。
こちらの質問の意図がわからないのか、可愛らしく小首を傾げている。その仕草が可憐すぎてその辺の男ならイチコロだ。
「……ザッと何個あるの、これ」
「ええと、そうですね。多めに用意しましたから、50個近くはあるかと」
なんでそんな数の林檎を自前の籠に用意してあるのかということを聞きたいのだけど、肝心の質問ははぐらかされてしまう。
黒衣のローブに、昔話のじじばばよろしく大きな籠を背中に背負った姿は、間違いなく道端で職質を受けそうなそれだ。今からでも止めた方がいいだろうか。
ともあれ支度を整えて、白馬先生を筆頭にこの大人数で学院から西の方面にある公園に向かうらしい。
小人達とハイホーのお歌を歌いながらてくてくと歩みを進めていくと、やがてそれらしい公園の入口が見えて来た。
近所にある普通の公園にしては、立派な石の正門を構えている。そこには公園の名称が彫られていたけれど、画数が多くてなんて読むのかわからない。
「ここは学院が所有する敷地のひとつだ。暦櫻公園――昔、ある建設会社がここの土地を埋めてマンションを建てる計画をしていたが、市民の惜しむ声と自然を重んじる理事長の意向で寄付金を募って公園として再建したんだ」
白馬先生が、そんな眼から鱗の情報を教えてくれた。あの人そんなことまでしてたの。
孫の前ではほのぼのとしている年寄りだから、この大きな公園をお金を出してまで残したなんて話が素直には信じられない。この間なんて電話でお母さんに私の成績のことを愚痴られてしょげてたし。
今では緑豊かな市民公園として再建したという公園の敷地を使って、午後からは気分転換も兼ねて練習を再開するらしい。
正門を潜ると、すぐ目にとまる噴水がある公園の敷地には、他にも子供が楽しめる遊具が完備されているようだ。うずうずしていた小人達が、ブランコやアスレチックの遊具を前にすると一目散に駆け出していく。その後を、白馬先生とドックさんが慌てて追いかける。
噴水の近くに残された私と高雅さんは、特に会話もなくその場にとどまった。
やばい。間が持たない。これは何か気が利くような台詞をスマートに言わなければ。
「あの、高雅さんはベンチで休んでますか?」
肩の怪我を気にかける彼に、ふと公園脇のベンチを勧めてみる。
ここに来るまでの身体への負担を思うと、少しでも高雅さんの身体を休ませてあげることが先決だろう。そう思って何気ない会話を装って提案してみたけれど、彼はそこから動かなかった。
「……いいよ。これくらいなら付き合うから」
そう淡白な返事を返して、彼は噴水の脇に腰を下ろした。そしてこちらの視線を気にかける。
「どうかしたの」
「ふえっ、ええと、小人達ならあっちですけど……」
「あっちは白馬一人でなんとかなるよ。それより君はこっち側に来たかったんだろ」
水を跳ね上げる大きな噴水を前に、高雅さんのそんな言葉が少しばかり意外だった。
「えっ、なんでわかったんですか」
「バカの顔にそう書いてあるから」
「んなわけないでしょ」
またバカにされた。
……けど、私に付き合ってくれるという彼の隠したがりな気遣いに、緊張がほぐれた気がした。彼には一歩及ばない。
そして彼の隣にほんの少し距離をあけて座る。
なんか、落ち着かない。図書室じゃ何とも思わなかったのに、こんな外で彼の隣に並ぶとひらがなの「あ」の字も出てこない。
あっちの顔色を窺おうなんてものなら、また下手に視線を逸らしてしまいそうだ。だから足元に視線を落としてみたり、噴水の音に耳を澄ませたりした。
……あれ、何だろう。心がそわそわしている感じ。高雅さん相手にこんなに緊張するもん?
内心では戸惑いつつも、その相手はきっと私のことなんかより帰ったら読みたい本のリストでも考えていることだろう。そう思うことにした。
――なんてちょっとうわ言を考えていたら、背後から近づく気配に気づくのが遅れた。
冷たくてかたい感触が、ピタッと顔に触れる。
「ひゃ……!?」
びっくりするくらいか細い声が出る。
思わず手近な高雅さんの腕に抱きつきそうになるのをグッと堪えて、ジュースの缶をこちらへ差し出す白馬先生に振り返る。
「ハハッ。いい反応だぜ」
「は、白馬先生!」
「まあまあ、怒んなって。これやるよ」
水滴がついてひんやりと冷えた缶を差し出されて、おずおずと受け取った。これで休日登校のツケを返したつもりのようだが、こんな子供騙しには素直に騙されてやらないんだから。飲むけど。
「高雅も――」
「いらない」
高雅さんは差し出された缶を受け取ることもせず立ち上がると、白馬先生が来た方向にさっさと歩いて行ってしまう。
「え、あの高雅さんどこへ……」
「俺の交代で小人達の面倒見に行ってくれたんだろ。世話係の小人だけじゃ、少し心細いしな。あいつのことなら心配いらねえさ」
そういうことなら、高雅さんの後を追いかける必要はないだろう。伸ばそうとした手を引っ込める。
私よりも長い付き合いの白馬先生がそう言うなら、きっと間違いないはずだもん。高雅さんの行動パターンなんて、私にはちっともわからない。
「はあ、どうすんだよこれ。奢ってやったんだから受け取るくらいしろよな、ったく」
「……あ、じゃあ今からでも渡して来ましょうか」
「いいよ。どうせこんな自販機の安い缶は飲まねえだろうし。味にうるさい奴だから、自分で淹れたもんしか飲まねえけど……」
図書室ではお気に入りの紅茶にしか手をつけない人だけど、やっぱりこだわりは強い人らしい。
そういえば、最近は作るお菓子も手加減して、高雅さんに度々小言を言われている。今日のお昼もあんまり食べてくれなかったし、もしかして飽きられてるのかな。
「……フッ。正直、びっくりしたんだぜ。あの高雅が、人が作ったもん普通に食ってるんだから。あいつがあんなに甘いもん好きなんて知らなかったし」
彼に渡し損ねた缶のプルタブに指をかけ、炭酸の音がプシュと跳ねる。
それを横目に見ながら、ポカンと口を開ける私がいた。白馬先生はクスリと可笑しそうに喉をくつくつと鳴らしている。
「ふえ……?」
「心配すんな。桃香が作ってくれるもんならあいつはなんだって嬉しいだろうよ。ただああいう奴だから、わかりにくいんだけど」
肩を竦めて、彼はそんなことを言う。
バカの意図を汲んで、彼なりに慰めてくれたのだろうか。白馬先生はいい先生だ。お世辞でも嬉しかった。
じゃあ、今度はもう少しがんばろうかなと思えた。高雅さんが思わず手を伸ばしたくなるような、とびきりの甘いものを。