騎士様は甘美な薔薇の香りとともに 後編
その後も一悶着はありつつも、空を見上げると夕刻が近づいてくる。
生命線が縮むほど賑やかで楽しいお茶会は、あっという間にお開きとなる。これで憧れの騎士様ともお別れだ。なんだか物寂しい。
そんな私の内情などまったく推し量ることもなく、終始騎士様にイライラさせられた高雅さんがこちらに片手を差し出した。
「さっさとそこの彼を跡形もなく消し去りたいから、その本渡しなよ」
きっとこれを逃せば二度と彼のことは出してもらえないだろう。だってあの高雅さんだもん。
鈍い音を立てる時計の針が、刻々とお別れの時間を告げようとする。
呆然と立ち尽くす私の傍らで、騎士様は少し困った表情ながらその唇から高雅さんへの言葉を紡ぎ出す。
「散々な言われようですね。そんな言い回しをしなくとも、つまりは僕をもとの世界へ還してくれるというのでしょう? いえこれは……もしやツンデレ?」
「黙れ」
その一言に高雅さんの殺意がより一層高まったのは気のせいではないだろう。肌がピリピリする。彼の肩に乗る黒猫も、それを感じて毛を逆立てている。
いくらか血の気が増したその高雅さんからさっさとしろと目で催促される。これで本当に騎士様ともお別れなのだと思うと、名残惜しく騎士様の衣装の袖を引っ張る。
「ほ、本当にもう行ってしまうんですか?」
「モモカ。私も貴女と離れるのは忍びないですが、いずれまた……。それにこうして貴女と話している間にも、彼がこっちを睨んでます」
彼が言う通り高雅さんの視線は大抵怖いけど、騎士様を前にそんなことはどうでもいい。
こうして触れられることも奇跡だというのに、もう少しだけそばにいたいという欲が出る。もう少しだけ騎士様への愛を語らいたい!
「あ、あの高雅さん! 一生のお願いです! もう一日だけ騎士様と一緒にいさせてください!」
懇願するように高雅さんの前で手を合わせると、すっかり不機嫌な高雅さんから無言で睨み返される。
しかし騎士様のためならこんなことじゃめげない!! お勉強も死ぬ気でがんばるから!! ――とさながら親におもちゃをお願いする子供だ。
「……なんで」
「も、モモカ!?」
捨て身を覚悟でこれでもかと高雅さんに頼み込んだけど、そこに声を上げたのは意外にも騎士様だった。
しかもそれを見て高雅さんはやけに機嫌がよくなるではないか。
「いいよ。それ、僕が特別に許可してあげよう」
「うにゃ」
メデューサの呪いが突如として解けたように、彼は二つ返事で了承した。隣の黒猫ちゃんも。
「本当ですか! 高雅さん!」
「ちょっと待ちなさい!」
私は手を叩いて喜んだ。
けれどそれも横から騎士様に待ったをかけられる。
連載が始まって苦節四年……初期から密かに騎士様のヒモ生活を応援し、その軽やかなヒモ生活に憧れ、実際に自分が春からヒモになるとは思わなかったけど、騎士様を見習ってがんばろうと思った矢先だったのに……。
日頃高雅さんには貶されるけど、騎士様はそこまでバカと一緒にいるのは嫌かなあ……。
「貴方は私を存在ごと消すおつもりですか!」
「そうだよ」
「ふえ?」
舞踏会に行けなくて屋根裏に籠りそうなシンデレラのように落ち込んでいたら、何やら違う話が飛び出している。しかも私だけ置いてけぼりのようだ。
「こちらへ来るにも色々と厄介な規律がありましてね。この世界との均衡を保つためにも、僕達がとどまることができる時間には制限があります」
彼らが現実世界を行き来することを「契約」というらしい。ぼんくらには頭が痛い。
「契約は概ね24時間ほど……ですが、書界とこちらでは流れる時間も異なるので、確実なことは言えませんが」
「しょ、かい……?」
「僕達がいる世界をそう指します。何せあちらは現実世界との創造性とリンクしているので、時間軸が常に不安定なのです。こちらの世界の人々の感受性とは豊かなもので、新しい物語を紡ぐこともあれば、受け継がれる民謡もあり、いつしか忘れられてしまう記憶もあります」
それは仕方のないことかもしれないと、騎士様は悲しそうに言った。
そんなところがまたこの母性本能をくすぐられてしまう。ついつい目がとろけてしまうと言えば、高雅さんと黒猫にこれまた白い目で見られそうだ。
「僕達の世界は人々の想像や記憶から成り立つのです。物語の増減が激しい故に、こちらとの時間の流れにズレが生じることは仕方がないのでしょう。そして書界との契約を破れば、ペナルティがあります」
その書界とは異世界みたいなものだろうか、と騎士様から語られる内容に一生懸命追いつこうとしていたけど、そんな話は彼から聞かされていなかった。
ガバッと首を大きく回して高雅さんの顔を見ようとしたら、その人にはさらっと目を逸らされた。こいつ確信犯だ。
「こちらに長くとどまり続けることは、向こうの世界に歪みを生じさせてしまいます。だから僕達の存在は、この世に長くとどまることを許されません。この歪みは大きくなれば、やがて物語の時空をねじ曲げ、僕達の存在を消滅させてしまうこともあるでしょう」
今はその切ない目元に伏せられた彼の真意が、痛いほどわかる。つい母性本能がとか言ってる場合じゃない。
「そ、そんな……」
「こればかりはこの僕にも為す術がありません。僕の命綱は今も彼に握られていますから」
――と騎士様は、その綺麗な顔に憎らしげな表情を湛えて本の主人に向ければ、その睨まれた相手は不敵な笑みを送り返している。
「高雅さん! どうして教えてくれなかったんですか!」
「バカに全部教えたところでパンクするのがバカだろう。君の講師として君の記憶力の限界に配慮したまでだ」
「で、でもそんな大事なこと……とにかく早く騎士様を元に戻してください!」
「嫌だね」
埃を叩くようにパッと突っぱねられた。
続けて高雅さんは溜まりに溜まった鬱憤をここで晴らしたいようだ。
「個人的に彼は気に入らない。特にあの男に似て歯の浮くような台詞ばかり並べて虫唾が走るよ。僕へのこれまでの侮辱を悔い改めながら忘却の砂漠に消え去るがいい」
「ああ、僕はこの現実という監獄に閉じ込められたまま、打ち切りという最期を迎えるのですか……城に預けた妹のジョセフィーヌもさぞ悲しむことだろう……」
「高雅さん!!」
すっかりご機嫌ななめの高雅さんは聞く耳持たずだ。しかしこのままではお城に妹を残したまま、騎士様が砂漠の砂と化してしまう。
「このままじゃ来月のヒモ騎士の続きが読めなくなります! 拗ねてないで騎士様を返してください!」
「僕には関係ない。あと僕は拗ねてない」
ここまで意地を張る高雅さんもなかなか珍しい。余程騎士様のスタイリッシュさに嫉妬しているのだろうか。
そんなことを口にしたら余計に拗ねてしまうので、口が裂けても言わないが。
「そ、そこまで言うなら、私だって白雪姫の舞台を降りますからね!」
口から出まかせに出たそんな言葉は、意外にも頑固な彼に刺さったらしい。むしろ逆鱗に触れたかもしれない。目で人を殺すあれだ。
「……君までふざけるの。どれだけ僕の機嫌を損ねたら気が済むんだい」
「ほ、本気ですよ。私だって嫌々白雪姫をやる羽目になってるんですから、これでおあいこです。高雅さん」
しかし、私も引き下がるわけにはいかない。来月の連載がかかっている。
そもそも無知な私が何も考えずにお願いしてしまったのがいけなかったんだ。騎士様のために、ここでヒモの意地を見せなければいつ見せるんだ! 桃香!
「モモカ……」
「……こんな男は勝手にくたばっていればいいけど、君が舞台を降りるのは都合が悪いからね」
どんな脅しも怯まない姿勢で高雅さんに楯突けば、床に頽れる騎士様をじと目で睨みながら、渋々と言うように高雅さんは頷いた。
それを聞いた途端、身体の力がどっと抜けた。言ってみたけれど、やっぱりぶたれるかもってビクビクした。
いつまでそこでへたり込んでいるんだと高雅さんに詰め寄られながらも安堵の涙を流す騎士様に、名残惜しいけれど最後の言葉を交わす。
「たとえ物語が完結しても、私は騎士様のことを忘れたりなんかしません。これからもずっとあなたを応援していますから!」
きっとバカだから、この思いはどんな言葉にしても伝わりきらない。落ち込んだ時はあなたの存在に救われたことを。
それでも騎士様は最後に笑ってくれた。
「ありがとう。モモカ」
騎士様を無事にもとの世界に返せば、もう放課後だ。
窓の夕焼けを見て、黒猫ちゃんが目を細める。
「どいつもこいつも生温い。誰かのためにそこまでするなんて、僕にはわからないな」
騎士様に冷めた口づけを交わした高雅さんはすっかり拗ねてしまった。もとの席で足を組みながらぐちぐちと何か文句を言っている。
「そうですか? 好きな人のためなら、きっと何だってできますよ。高雅さんにはそういう人はいないんですか?」
「……さあね」
軽くあしらわれてしまった。
あーあ、やっぱり機嫌悪くなっちゃった。明日は高雅さんの機嫌が直るもの持って来よう。
「でも、あの、わがまま聞いてくれてありがとうございました。ついはしゃいじゃったんですけど、本当に高雅さんのおかげです」
そう言って彼のご機嫌を窺いながら、いそいそとそのテーブルに座り直す。
でもその言葉は方便じゃなくて、心から彼に感謝していた。高雅さんの能力はきっともっとたくさんの人を幸せにできると思う。
「……僕は少しばかり君を見縊っていたのかもしれない」
私をぼーっと見つめる疲れたような顔も艶めかしい。そしておもむろに彼のすらりと長い腕が、こちらに伸びる。
「こ、高雅さん……? ブフッ!」
「……こんな猿に僕は何を期待したんだろうね」
「うにゃ〜」
高雅さんがボソボソと何を言っているかはわからない。とりあえずは私の顔面を潰さんばかりのその手を離してくれ。
しばらく私の顔面で散々遊んだ後に、フッと鼻で笑って席を立つと黒猫ちゃんとともにどこかへ行ってしまった。またもてあそばれた。
この日は白馬先生の気持ちが少し推し量れた。