桃香の読書の時間
副題を追加しました!
「……さっきの、どういう意味ですか」
「何?」
白馬先生がそそくさと逃げた後の図書室は、なんだか微妙な空気が流れる。
もしや、もうすでにあれを忘れられている? 自分から思わせぶりなこと言っておいて、なんか酷い。大真面目にこっちが考えていたのがバカみたいじゃないか。
そんなことを言えば「はじめからバカだろ」って言われるのがオチなので言わないけど。
「さ、さっきの、私のためがどう、とか……」
「ああ、それ」
「ちょ、ああって! ちょっと!」
カウンターで再び読書に興じる彼に、こっちはブクブクと紅茶を泡立てながら打ち明けるか迷ったというのに。
テーブルの下では猫ちゃんズが遊び疲れたのかぐっすり眠っている。
「図書室が使えなくなれば、君の勉強も見てあげられなくなるだろ」
諦めかけながら紅茶を啜っていたら、高雅さんからは意外な反応が返ってくる。バッと顔を上げたら、優しい高雅さんの顔がこちらに微笑みかけるわけでもなく、私はそんな人を見て小さく吹き出した。
「人の顔見て何ヘラヘラしてるの?」
「へへっ……まさかあの後講師のこと引き受けてもらえるなんて思わなくて、怪我の功名ってやつですね」
「あんなバカなことされたら、他にやり方もない。君のことだから、あれくらいじゃどうせ諦めてくれないと思ったんだよ」
「ありがとうございます。高雅さん」
いつもこんな風に皮肉ばかり言う人だけど……。
ちょっと捻くれてるから素直な言葉が選べないだけだって、知ってるよ。
「……まったく。どいつもこいつも能天気にヘラヘラしてる」
またそっぽを向いてしまった。
あれ? もしかして照れてるのかな?
「暇ならこれでも読んでおきなよ」
そう言ってそっぽを向いた彼が、こちらに投げてきたのは『白雪姫』の児童書。
見たところ難しい漢字もなく、ルビも振ってあるから私でもスラスラ読めるだろう、とのことだ。口は悪いけど、そんなとこにもきちんと目を通してくれている。
それに白雪姫と言えば指折りの名作童話。小さい頃に絵本で何度も読んだことがあるし、白雪姫は一番好き。7人の小人と楽しそうに暮らして、魔女の毒で死んじゃっても運命の王子様のキスで目を醒ますなんて、とってもロマンティックで素敵……!
「それ、今日の宿題だから。夢見てないで一言一句その腐りかけの頭に叩き入れなよ」
ちょうど夢見ていたところだと言うのに、高雅さんが釘を刺す。
宿題も出されてしまったので、これ以上彼に心を見透かされるのは耐えられず、起きたばかりの猫ちゃん達にお別れを言ってこの日はお暇することにした。
「ただいまー」と一言、玄関で靴を脱ぐと部屋に閉じこもり、お気に入りの音楽をスピーカーで聞きながら早速白雪姫の読書に入ってみる。
これもあの読書の魔人こと高雅さん効果なのだろうか、読書感想文だって真面目に取り組まなかったのに、気づけば高雅さんの真似をしてちょくちょく本を手にとっている。恐ろしや、高雅さん効果……肝心の頭の方は、まだ効果を実感できていない。
さてと本のページをめくり、比較的大きな字で書かれた本文に目を通していく。
この本自体はそれほど分量があるわけではないが、問題なのは私が普段あまり本を読んでいないことだ。児童書もコミック本二冊程度の厚さだし、内容も回りくどい表現や言い方はしていない。
しかしこれ、果たして今日中に読み終わるのだろうか? 宿題はそれだけではなく、さらにこの内容を一言一句覚えろって? うん、無理だろ。世の中の人の頭があなたのように都合よくできているわけじゃないんだし。私はその平均以下の頭だし。
どれだけ彼への愚痴をこぼしたところで、宿題をしてこなければシメられるのは確実である。槍千本はさすがにこの身体が持たないので、何も言わずにおとなしく読書をしよう。
その内容は記憶の中の物語と大きく変わりはない。
綺麗な白雪姫は継母に妬まれて殺されそうになるけど、心優しい猟師に助けられて、その後は7人の小人達と出会って、彼らと楽しい生活を送る。
ページの間に挟まれたモノクロのイラストには、小さな小屋の中で白雪姫と小人達が仲良くテーブルを囲んでランチをしている姿が描かれている。
小人ってそのままに、身長がみんな小さくて可愛い。こんな絵に書かれた空想上の人達が、高雅さんの魔法のような力で、現実に出て来るんだからすごいことだよね。
じっとモノクロのイラストを眺めてみる。
絵の中ではピクリとも動かない登場人物たち。
私はその時ふと心に湧いた物心というか、そういう感じの好奇心から目をそっと閉じて顔をページに近づけると、そうして本のイラストに軽く唇を合わせた。
すると――
…………特に何も起こらなかった。
まぁこれが普通なんだけど、なんだろう……この虚無感……。
心にぽっかりとした何かができた気がして、しばらく空虚な思いに浸った。
バカらしい、イラストから実体が飛び出してくるなんて……本人にこんなこと言ったら秒も待たず瞬殺されるから、ここだけの話にしておくけども。
物語も終盤、毒林檎を食べてしまった白雪姫は命を落としてしまう。小人達が白雪姫の死に嘆く中、そこに通りかかる白馬に乗った王子様が白雪姫を見て彼女に一目惚れする。
王子様は悲しみに暮れる中、彼女の薄く開いた唇にそっと口づけを落とした。そして奇跡が起こる。王子様からのキスで、白雪姫は奇跡的に息を吹き返したのだ。そして、命を助けてくれた恩もあり、二人はお城でめでたくパッピーエンドを迎えるのでした――。
意識が半分虚ろだ。けど、どうにかストーリーは最後まで読み終わった。何回も寝そうになったけど、本当によくやったと思う。
いつもなら睡魔が襲ってきたらあっさりポックリなんだもん。
時刻はもう夕飯の支度時、窓から見える茜色の空は、少しづつその色を濃く熟していく。外から聞こえてくる子供たちの笑い声やカラスの鳴き声が、ぼうとした頭に心地よく響いてより一層眠気を誘った。
これもあのスパルタ講師の指導の賜物だろうか。和解の日から図書室でたまに勉強を見てもらっているが、あの鬼畜の所業は人間のやることではない。何度も猫ちゃんに泣きついた。答えを間違える度に、ハリセンで頭をすっ叩くのはいただけない。
手の中の白雪姫の本に視線を落とせば、ラストシーンで二人が幸せになる内容がそこには綴られていた。
キスで白雪姫を目覚めさせた王子様か……まるでキスの魔法みたいだ。
それはなんだか高雅さんとよく似ているような……あの高雅さんと物語の王子様が似ているなんて何の冗談。さすがに無理がある。
本を閉じて枯れた声を漏らす音は次第に小さくなり、やがて微かな寝息を立てていた。