ティアラノワール高等学院へようこそ
四月。それは出会いの季節。
新学期に入学式、新しい人達との出会いが募る。それは新しい出発の門出を祝う季節だ。
ああ、でも藤澤桃香には関係ないことだった。外の世界は入学シーズンだと言うのに、月曜日の朝もぬくぬくと布団に籠もっているのだから。
え? どうしてかって? そんなの簡単なことだ。
私は高校に入れなかったんだよ!!
こう言ってはなんだが、私の学習スキルは底辺だ。つまりはバカだ。中学の頃は三年間テストで学年最下位の皆勤賞を記録したこともある。周りからは伝説だと讃えられたものだ。
自慢じゃないけど、この壊滅的な頭脳のおかげで、受験した偏差値平均以下の高校にすべて落ちてしまった。この歳にして落第生となり、高校にも行けなくなってしまった。
まっ、別にいいんだけどね。こんな頭じゃ高校に入ったところで長続きしそうにないし。人間諦めることも大事だって言うじゃない。
春休みの延長だと思って、これからのことはゆっくり考えていくことにしよう。
そんなわけで、15歳にして人生の負け組にどっぷり浸かってしまった私は、これからの人生をのんびりヒモ生活で生きていくことを密かに決心していた。
――だけど、そんな能天気な計画もこの日の朝に木っ端微塵に崩されてしまった。
謎のオーケストラ集団の大演奏とともに。
自分の部屋で布団に潜って寝ていたはずなのに、楽器の演奏なんて聞こえてくるはずがない。
もちろん私は布団から吹っ飛んだ。鼓膜が裂けるほど大音量の目覚ましに、寝起きの目をぱちくりさせながら、私の周囲を囲む年の近い娘達に戸惑う。だ、誰!?
「おはようございます。ティアラノワール高等学院吹奏楽部より、あなたを起こしに参りました。藤澤桃香さん」
一人の女の子が頭ひとつ前に出てきて、初夏の風のように爽やかに告げる。
「すみませんが、お時間がないということで、我が学院の理事長の命により、今からあなたを拉致させていただきます」
サラッと物凄く恐ろしいことを言われたような気がする。気のせいか、寝ぼけているのか、これはまだ悪夢の中なのか。
寝起きで通常よりバカな頭が混乱しているところに説明を待たずして、その娘達が一斉に動き出す。
「ちょ!? ななな何をする気ッ!? ちょっと待って! どこ触ってんのよッーーーーー!!?」
朝からよくわからない攻防を繰り広げた後、私は彼女達の宣言通り拉致されてしまったのだった。
手と首に、無情にも冷たい枷を嵌められてしまった私は、力及ばず吹奏楽部を名乗る彼女たちに従う、というか、半ば強制連行というか……しばらくは知らない路地を歩き続けて、白亜の建物の前にたどり着いた。
泣く子も呆れるバカの私でも、あれが校舎だということはわかる。嫌な予感がする。外観は日本の学校というより、どちらかといえば外国で見かけるようなお城みたいで品のある感じ。
無機質な校舎の威圧感に、なんだか気圧されてしまう。だけどこの時は珍しく、私の中である勘が冴え渡っていた。一言で言うならとてもやばい。
隙を見て逃げ出したいけどそんな隙を与えてくれる人達でもなく、吹奏楽部のみなさんとともに鉄柵でできたご立派な裏門を潜る。正門の方はたぶん新入生とかそれを出迎える先輩方がわんさかいて、当然ながらこの格好では通りにくいのだろう。私もこんな拘束された姿を表に晒す気はさらさらないので、渋々だがおとなしくしてついて行った。
校内をそれなりの人数でコソコソ移動していると、シャンデリアやら高価な美術品などが展示されていて、さながら美術館かと目を疑う。私立高校のくせにとドン引きを隠せないが、されるがままに長い廊下を歩いているとようやく足を止めたのは、理事長室と書かれた部屋の前だった。
先に吹奏楽部の人が木製の扉を軽く叩いて、来客を報せた。
「理事長、藤澤桃香さんをお連れしました」
それから彼女が立っていたポジションをこちらに譲ってくる。「さぁ、どうぞ」なんて涼しい笑顔で言われても、こちらとしては本当にいらない親切なんだけどなぁ……。
「……あの〜、この手と首のやつ、そろそろ外してもらえますか?」
促されるまま扉を開けようとして、ふと気づく。私は未だ拘束の身であり、枷を嵌められているのだ。鉄製のそこそこ重い感じの枷を。これじゃあ開けようがないじゃない。
吹奏楽部の人も、今まさに私に指摘されて「思い出した!」みたいな顔で、いそいそと制服のポケットから鍵を取り出す。
忘れてたってあなた……随分と無責任じゃないですか? 結構落ち込みますよ……。
鍵を取り出して、枷を外してもらう。そういえばここに来る間に、随分と人数が減ったような気がする。うちに来た時は確か数十人いただろう吹奏楽部員の人達は、今では枷を外してくれる彼女一人だけだ。
他はどうしたのかと、ふと彼女に尋ねてみたところ、
「入学式の演奏に向けての、最後の音合わせに行きましたよ」
とけろっと教えてくれた。
待て待て待て待て、それってきっと私を拉致しに来ることより重要なことじゃないかな? うちに来るより練習しろよ!!
募る不満は次から次へと湧き出るが、こんなおかしな人達にぐちぐち言っても仕方ないし、それよりもようやく手枷が外れたことの方が嬉しかった。鳥籠の鳥が羽ばたく瞬間のような解放感を噛み締めていると、そこには忽然と吹奏楽部の人はいなくなっていた。怖えええ。
さて長くなったけど、ようはこの扉の向こうにいる人が主犯格ということだ。今日の私冴えてる!
これまでの鬱憤を吐き出すように力強く両扉を開けた。そして部屋の奥で寛いでいるその姿を見つけると、私は大声で問い詰めた。
「一体全体どういうことなの! おじいちゃん!」
部屋の真ん中にどっしり構えた椅子に腰掛ける白髭の爺さん。
この学校の理事長――夏目清蔵――私の母方の祖父である。
「桃香よ。わしは可愛い孫に会えて嬉しいぞ。この学院の制服も、よおく似合っておる」
うんうんと、二回ほど頷いてみせる。私の第一声などガン無視だ。孫が自分の学校の制服を着てくれたことに至極ご満悦の様子だった。
まあ、彼女達に無理矢理着せられたこの学校の制服は、私もそこそこと可愛いと思っている。我ながら似合っているとも思う。けど今はそんなの関係ねぇ!
「ねぇ、おじいちゃん。こんな日にうちに吹奏楽部の人達まで寄越して、私にこんな格好させるって……」
頭に冴え渡る嫌な予感を確かめようとすると、その前に落ち着いて話をしようと来客用のソファーに座らされた。
「私、おじいちゃんの学校に入る気はないから」
あらかじめ、そう釘を刺した。できればこれ以上、余計なことにならないことを祈る。
「桃香、お前……志願した高校全てに落ちて、今や世間から見捨て奈落のドン底生活を送っているそうではないか」
今、一番突かれたくないことを、よりにもよって一番突かれたくない人物に言われてしまった。
遅かれ早かれバレてしまうことは避けられないけど、こんな強引な手段に出るとは思いもしなかった。
「私もおじいちゃんなら、可愛い孫娘のために一肌脱ぐことにしたまでだよ。それに孫が落第生というのも、この学院の理事長という看板に傷がつくだろう」
本音が後半にポロッと漏れたが、おじいちゃんは気にした素振りもなく、急に真面目な顔になって宣言した。
「そこで特例として、藤澤桃香を我が学院に入学することをここに許可する」
あああ。もう最悪だ。逃げとけばよかった。
私立ティアラノワール高等学院。一応は日本の都内にある、私立高校だ。
学校の名前や校舎の様式は、西洋文化が好きなおじいちゃんの影響を受けているけど、「ティアラノワール」の名前の由来は本人曰く生涯の謎らしい。
別に欧米文化が多様に含まれているだけなら、私だって入学を拒むことはしない。むしろ孫の特権として、コネで祖父のこの学校に入ることも簡単なことだ。それはつまり、落ちこぼれの落第生にならずに済むってこと。
けど、私があえて最初からそうしない……いや、したくない理由がこの学校にはある。
会話の冒頭に釘を打ってまで、二度とない負け組からの脱却を拒んでまで、私が落第生を選ぶ理由……。
実は、これも至極簡単なことである。
何故なら、私の祖父が建てたこの学校が――
都内でも、偏差値トップクラスの超エリート進学校だから。
例えば、一匹のか弱い小羊が、何万もの狼の群れの中に放り込まれたら、果たしてその小羊は生きて帰れるだろうか。
例えば、五流高校の受験に失敗した負け犬が、一流の頭脳を持ったエリート達と一緒に一流の勉強をして、果たしてその残念な思考回路は無事でいられるだろうか。
もしも私に回答権が回ってきたなら、答えはノーだ。
たとえ私のことを思ってくれたことでも、私は受け入れることはできない。私はまだ死にたくはない。
しかし、見かねたおじいちゃんが、これまた私に助言する。
「入学といっても、まだ仮入学だ。それにお前には特別な講師を用意しておる。安心せい」
「特別な講師……」
響きはなんとなくいい気がするんだけど、要するにまた勉強しなきゃいけないってことでしょ? そんなの、たまったもんじゃない。私はこの世で勉強が一番嫌いなんだ。嫌いなやつとどうやって仲良くなれと言うんだ。馬鹿にも分かりやすく説明をプリーズ。
だけどその時、閉ざされていたはずの扉が勢いよく開いて、この学校の制服を着た図体のやけに大きな男子生徒が計三名、妙に暑苦しい熱気を纏って入ってきた。だから誰だよ!
おじいちゃんはその三人の暑苦しさに嫌な顔ひとつせず、相変わらずの笑顔で彼らを迎えている。
「おお、やっと来たか。それじゃあよろしく頼むよ」
暑苦しいその男子生徒の一人がそれに応える。
「ハッ! 我々ボランティア委員会、まもなく入学式が始まるということで、藤澤桃香殿を回収しに参りました」
――はッ!? 私を回収!? って、私はゴミか!!
すかさず突っ込んでみたものの、私はその暑苦しい奴ら……もといボランティア委員会の方々に、またもや拉致されてしまったのである。
抵抗はしてみるものの、無駄にある筋肉はピクリともしない。ボランティアの人がなんでこんなにマッチョなのよー!?
「桃香、図書室に行けば自ずと会える。まあ、がんばりなさい」
私がマッチョ連中に連れ去られる間際、おじいちゃんがにこやかな顔で何かを言ってたけど、そんなの知るか。扉が閉まる瞬間まで、おじいちゃんの憎たらしい顔を睨みつけた。