桐嶋高雅の秘密
光と共に、何かが飛び出してくる。
本棚の物陰から見ていることしかできなかった私は、きっと鳩が豆鉄砲を食らったような間抜けな顔をしていたことだろう。
私のもとを離れていく白猫は、ご主人のもとにトタトタと四足の足で歩み寄っていく。その人の足元に白猫がすり寄り、彼が気配に気づく。
白猫がたどってきた方向を見れば、唖然とした顔の私がそこに座り込んでいる。身体にうまく力が入らない。夜空のように儚く揺らぐ彼の双眸と目が合う。
今見た光景が信じられなくて、何度も目を擦ったりして自分の目を疑った。きっと何かの間違いだって……。
この頭はついにバグってしまったのだろうか。
「うにゃあん?」
面識のない猫が、彼の肩にちょこんと乗っている。
白猫とは対極の黒い毛並みが、彼に似て人を惹きつけない空気を纏っている。そんな黒猫がこちらを見て、退屈そうに鳴いた。
そんなことは些細なことだ。
だけど、今見たものは……私が見てしまったのは、黒猫が……。
「ねえ」
頭を整理する最中で、邪魔が入る。
その人の声が思考を遮る。
「今の……見たの?」
率直に彼が尋ねてくる。顔を上げると、彼が猫達を引き連れて、こちらまで歩み寄っていた。
だけど、私は素直に頷くべきか悩んだ。そうすることがなかなかできない。
本当に自分の頭がどうかしてしまったんじゃないかと疑うほどだった。けど彼の顔つきは、疑う余地もなく現実であることを物語っている。
嘘だよ、そんな、信じられない。
だって、本から猫が飛び出して来るなんて……。
この目で見たもの――淡い光とともに、一匹の黒猫が飛び出した。
そんなもの小さい頃に思い浮かべた夢物語じゃあるまいし、こんなバカでも科学や人工知能が発達した現代で、人智を超えた現象なんて信じられるわけがなかった。
だけど現に、この目で見た光景がこの身に迫っている。ゆっくりと重い足取りで、彼らはすぐそこまで近づいている。
私がこうして言えることは『桐嶋高雅が、本から猫を出した』ということだ。
さて、これは正直に言ってしまうべきか。また何かの見間違いだとバカにされてしまうのか。
うんうんと唸りながら答えを探していると、私の返答を待ちくたびれた高雅さんに動きがあった。
「ほら、こういうことだよ」
今度は違う本を手に取り、パラパラとページを捲った。そして彼はさっきと同じように、適当な紙面に口づけを落とした。
次の瞬間には、彼の右手に引き摺るほど大きな刀身の鉈が握られている。
「僕を付け回して、ようやく知ることができて君は満足だろう?」
その薄ら笑いを浮かべながら、高雅さんは刃の重い鉈を暗闇に引き摺る。
「これが、僕の……桐嶋高雅の他言無用の秘密だよ」
そんな顔が、見たかったわけじゃないのに……。
「高雅さんが隠したいことって、これだったんですか? まさかキスをして、本から物を取り出せる能力ですか……?」
「そうだよ。君みたいなバカでも、さすがにわかるだろう。今の自分の状況」
持ち上げた鉈の刃先を、こちらに向ける。
彼はそれをいとも軽々と持ち上げて、私の喉元まで引き寄せた。
「……どうするつもりですか?」
「秘密を知られた以上は、タダで返すわけにはいかなくなったしね。君のようなバカは特に口が軽くて信用できない。外部に情報を洩らさないように、ここで君には痛めつけられてもらおうか」
口角は笑っているのに、その目はどん底を見つめるように黒く濁っている。
これが殺気というやつなのか……お気楽にぬくぬくと育ってきた小娘には、全身が痺れたように動けなくなる恐怖を感じることしかできない。
きっと彼は、本気なんだ。
この瞬間に高雅さんのことを「怖い」とはっきり思っただろう。全身が震えていた。怖いのも痛いのも嫌だ。
これから身に起こることを想像して俯いてしまった私は、微かな声を絞り出して言った。
「ふざけないで……」
今も喉元をカッ切ろうとする鈍色が、暗闇から狙いを澄ましている。
それを現実だと受け取るとこの頭は絶望しそうになる。
だけど、今の私はそれ以上に――……。
「これがふざけてるように見えるんだ。バカはお気楽でいいね。何も知らないで……」
「ええ。ふざけてますよ。こんなの」
頭にきていた。理由はよくわからない。
また一方的にやられるだけなんてもう嫌だった。
だから、自分に向けられた刃先を、空いている手で思いきり掴んだ。
少し力を込めただけでも血が滲んでる。それでも離さなかった。
「――っ!?」
「こんなことをして、また高雅さんが辛くなるだけじゃないですか。だから罪悪感感じてこんなところに引き籠もっちゃうんじゃないですか。いい加減にしてください」
まさか自分から刃先を掴むなんて思わないから、高雅さんもそれはそれは驚いていた。
でも、痛みなんかより今は高雅さんのことしか見えない。
「こんなことで私が離れていくと思ってるんですか。バカを舐めないでください。こっちはあなたにこき使われてキスまでされそうになって、頭に来てるんですからね! 課題のひとつでも教えてくれなきゃ気が済みませんから!」
ここまでいいようにされて、溜まりに溜まり込んだあの課題の山をひとつでも終わらさなければ、死ぬにも死にきれないというやつだ。
それにほんとは……こんなことで今までの関係が崩れるなんて嫌だったから。もっと高雅さんのこと、色々聞きたいよ。
「……離して」
「嫌です。高雅さんに負けましたって言わせるまで離してやりません!」
「負けたよ」
だから離して、とあっさり負けを認められた。あれ、なんか思ってた反応と違う。
自分が思っていたよりも鉈の刃先を掴んでいたようで、床にはボタボタと血が垂れている。冷静になるとじんじんと痛み出してきた。ちょっとやばいかも。
「君ほど物分かりが悪いバカは、後にも先にもいないだろうね。僕の能力でも、こんな傷は治せないよ」
まためちゃくちゃな悪口を言われた気がする。でもそれを言う彼の顔は、少し穏やかに見える。
私の手の傷の具合を見て、おもむろに自身のネクタイを解くと、それを傷口に巻きつける。自分の手が汚れるのも構わずに、その人のぬくもりが私を包む。
「高雅さん……?」
「……傷つけるつもりはなかった。けど、この世界で話を聞いてくれる誰かなんて今までいなかった」
掠れた声で、そんな本音をこぼしてくれた。そんな些細なことでも、声にしてくれたことが嬉しくて、彼の手に自分の手を重ねた。
「じゃあ、私がまた毎日ここでお話を聞いてあげますよ。美味しいお菓子と紅茶も用意して」
またこの図書室で、二人の時間をゆっくり過ごしたい。そんな思いを込めた。
あなたには届いているかな?
「君ってほんと生意気だよ。まあ、嫌いじゃない」
呆れたように彼は言う。
自分を縛っていたものがなくなったように肩の荷がおり、その口角は緩んだ。
あっ、笑った。そんな風に笑うんだ。
手の傷は浅くはないけれど、手に届く距離にあなたのそんな表情を見ることができて、その瞬間にこの胸は羽根が生えたように跳ねた。
こうして猫と読書から始まった出会いは、春の嵐を巻き起こしながら雨が上がる頃にようやく収束を迎えたのでした。