疲れと紅茶にはやっぱりこれでしょう? 後編
配置についたところで、桐嶋高雅は私に手順を一通り説明してくれた。
「僕が棚の書物を調べるから、僕が言った事柄をその伝票にそのまま書き記すこと。問題はないね?」
「はい! 肝に銘じます!」
「いや、行動に移してくれないと意味ないんだけど……」
まぁいいよ、そう肩を落として、一冊目の本に手を伸ばす桐嶋高雅のひとつひとつの動きを、一瞬も遅れぬように目で追いかける。
しばらく沈黙が続く。パタンと本が閉じられ、もとの配置に戻される。続いて二冊目の本、三冊目の本、四冊目の本と、そこそこの時間をかけて一冊一冊を丁寧に調べ上げていく。
私はただそれを眺めるだけの役割……。
「あのー、先輩その本さっきから見てますけど、何か問題でも?」
「ああ、今いいところだからちょっと黙って」
「…………」
おいっ、なんだそれ。本の状態じゃなくて、内容かよ! 趣旨が違うよ! なかなか終わらないのは、そういうことだったんですか!?
読書に没頭する彼の手から、すかさず本を奪う。
睨んできた相手に、こちらも白い目を返して本を仕舞う。
「先輩、まずは仕事ですよ」
「…………」
無言で作業に戻ったけれど、その目はどこか残念そうにしていた。あとでゆっくり読んだらいいじゃないですか。
これは私が手伝いに来て正解だったかもしれない。猫ちゃんもそれをわかってて私を連れてきたのかも。
しばらくは滞りなく作業に集中していたので、私は手持ち無沙汰になってしまう。
集中する先輩の横顔を見つめながら、カッコいいなあくらいしか思うことがない。要するに暇だ。ずっと彫刻品なんか見てたって飽きてくる。
「先輩って、図書委員なんですか?」
「……なんで?」
本の状態に目を通しながら、桐嶋高雅が訝しげに眉を顰めた。話が少し唐突だったからか、先輩の反応は鈍い。
「だって毎日ここで本を読んでるし、こんな委員っぽい仕事だってしているじゃないですか。だからそうなのかなーって」
台車の取っ手に腕を回して、前後にゆらゆらと体を揺らしながらそんな風に返した。
「……そんなところだよ。あの爺さんからは、確かに図書室の一端を担わされているから」
そんな曖昧な返事をして、本棚に本を戻す。
そのまま話の先を続けることはなく、先輩は黙々と作業を続けている。
桐嶋高雅がこの図書室に棲み続ける理由を少し探れないかと思ったんだけど、やっぱり口を割ってくれることはない。
彼と他愛ない話をすることは増えたけど、その素性はまだまだ明かされていない。うーん、謎は深まる。
――とかちょっと油断していたら、仕返しのようにパスが突然回される。
「『セブラの冒険記』作者、尾道菀。概要、表紙面の全体的な汚れ、及び紙面の数箇所の破損が見られる。また、36ページ前後の紙面が……」
一言一句を淡々と私に投げかけるが、ちょっと油断していたからあたふたと紙にペンを走らせる。一言くらい声をかけてほしかったよ!
そんなところに、桐嶋高雅のさも不安そうな声が届く。
「……ねぇ、ちゃんと記述してる?」
ひょいっと私の手から書きかけの伝票を奪ってその目で確かめる。その顔が見る間に曇るのを目の当たりにして、やっちまったなあと確信したのは難しくない。
「……ねぇ、君ってバカのくせに古代のギリシア文字が書けたの?」
「あの、一応日本語です……」
か細い声で答えるのだけれど、桐嶋高雅からは哀れみの混じった、ただただ痛々しい視線が返ってくるのみ。
そんな目で可愛い後輩を見なくても……と言いたいところだけれど、私も自分が書き綴った解読不可能な文字の羅列を見て、ふざけたことは撤回した。
気を取り直して、もう一度丁寧に頼み込んでゆっくり読み上げてもらうことにした。
さっきは合図もなく突然のことで、殴り書きだったからああなったのであって、心のゆとりさえあればバカでも難なくこなせるはずだ。
自信に胸を膨らませて、書き直した伝票をもう一度見せる。今回はなかなか上手く書けた気がする。
するとその伝票で前頭部を思いっきりぶっ叩かれる。
「痛ーーーッ!! いきなり何するんですか!?」
ハゲるかと思った! キレがよすぎてハゲるかと思った! ベタだけどおやじにもぶたれたことないのに!!
「黙りなよ、このポンコツ以下頭。漢字のひとつぐらい、書けないのかい」
「あっ」
バレたか〜。まあそりゃあバレるよなあ。と読めるもののひらがなだけで埋まった紙面から目を逸らした。
「べ、別に、ひらがなだって立派な文字ですし、大した問題じゃないですよ」
「高校生にもなって漢字と平仮名の違いもわからないと? 僕に手を焼くより、輪廻転生して人生やり直してきた方がいいんじゃない」
「あのですね、私も可能なことならいっそのこと赤ん坊に戻って毎日毎日ばぶぅばぶぅ泣いていたいですよ」
「……見事な負け犬根性だよ」
思わず口から出た本音に、喧嘩を吹っかけた相手も呆れてしまったようだ。私も自分で言ってて悲しくなった。さらに桐嶋高雅が、私の目の前で惜しげもなく伝票の紙を破ってくしゃくしゃに丸め出す始末だ。ばぶぅ。
「伝票に書くのは僕がやるから、君は本の状態を調べて」
最初に比べて勢いを失くしつつも、私は言われた通り本棚へと手を伸ばす。
開いたその一冊目は、見事に虫喰いにやられていた。
ここからが私の腕の見せどころだと、伝票係の彼に向けて意気揚々に報告する。
「先輩、これ虫喰いにやられてます」
「その本の題名と著者は?」
「え? いや、ちょっと待ってくださいね……走る馬……ひっちょう?」
「…………」
「あ、あははー……ち、ちなみに作者はですね……ひんそうのよいこ?」
「ふざけてるの?」
決してふざけているのではありません。お願いですから、その懐に見え隠れしている物騒なブツはどうぞお仕舞いください。
あとから気づいたけど、漢字書けないバカが見ても読めるわけないよねぇー。盲点でした。
ちなみに、桐嶋高雅に渡して漢字を読んでもらったところ『走馬灯』と『品倉良子』と読むらしい。ほえー。
なんてぼんやりしていたら、手の中の本も取り上げられてしまった。
「これ以上惨めになりたくないのなら、潔く帰るんだね」
そんな言葉を言い残して桐嶋高雅はさっさと踵を返し、次の本棚に移動してしまった。
私はそんな背中を見送ることしかできなかった。だってこんなバカは彼の役には立てないことがわかってしまったから。もうおとなしく帰ろうか……。
「ミィアオ〜〜」
「あぶッ!」
声に反応して顔を上げてみたら、顔面に何かが直撃した。鼻が強烈に痛みを覚える。
私は涙に滲んだ目で、どこかの本棚から落ちてきた猫ちゃんに愚痴をこぼす。白猫ちゃんは天使のような毛並みで、私のそばにすり寄って来てくれる。ちょっとだけ慰められてしまった。
しばらくそのまま猫ちゃんのもふもふの毛並みに慰められながら、猫ちゃんが可愛く鳴いたあとに先陣を切って歩き出したから、それについて行くことにした。
白猫ちゃんについて行った先には、図書室の出口ではなく、カフェの設備を備えた給水場だった。私はあの人にコテンパンに言われて、もう帰ろうと思っていたんだけど……。
白猫は態となのか、はたまた本当にわかっていないのか、私をその黄色い眼差しで捉えて可愛く首を傾げてみせる。その姿が可愛いすぎて、はっきり言うにも言えないのでまた困る。
テーブルの上に置かれていたティーセット一式が目に入り、白猫が何かを訴えかけるように私を見つめて鳴いた。
「うん、わかったよ。君の主人のために、今日は私が紅茶の支度をしてあげる」
「ミィア〜〜」
ちょうど持って来ていた袋もあるし、ここは挽回のために一肌脱ぎますか。何より可愛い猫ちゃんのためなら仕方ない。
ティーポットと使いかけの茶葉の袋を用意して、こうしてバカは立ち上がる。幸いにも、茶葉の扱い方は自分でも家で淹れたいと思ってネットで調べたから大丈夫。同じものは残念ながら見つけられなかったけれど。
最後にお湯の給水も終えて、あとは待つだけ。ポット片手にテーブルに戻ると白猫を探す。だけど、白猫の姿はどこにもない。また一匹でどこかに行ってしまったみたいだ。
「これもお皿に移しておこうっと〜」
ちょうどいいお皿がないか辺りを模索してみる。いろんな引き出しや棚を漁るけど茶葉のストックやティーセットしか見当たらない。
あー……白猫ちゃんがいてくれたら良かったんだけど……。どこに行っちゃったんだろう……。
「ミィアオ〜」
手をこまねいていたら、ちょうどそこに猫ちゃんが帰ってきてくれたので、そちらを振り返ろうとしたけれど、鋭い視線が私を突き刺す。
「ねえ、まだいたの……」
ひと仕事終えたのか、台車を引いて猫とともにやって来た桐嶋高雅は、うろうろと探し物をする私に苛立ったような声で言った。
「帰ったんじゃなかったの。どうしてまだここにいるんだい」
「あの……怒ってるんですか?」
「君の聞き分けのなさに、ほとほと呆れているだけだよ」
さいですか。怒ってるんじゃなくて、呆れられているのですか。桐嶋高雅の機嫌を損ねていないことは幸いだけど、それも全然良くはない。
「……何、お茶の用意をしてくれていたの?」
テーブルに並んだ食器を見て、彼は見当をつけたらしい。ちょうどいいやと、私も彼らの方に向き直る。
「そこの白猫ちゃんにちょっと頼まれて。先輩も一休みしませんか?」
持って来たお手製の包みを見せて先輩のもとに近づき、私は一息の休息をと彼に提案する。
「何、その見慣れない包みに入ってるもの」
「これはですね、紅茶に合うかと思って焼いてきたんですよ」
得意気にそう答えて、中身を開けて桐嶋高雅にそれを見せつける。少し意外そうな反応を見せた。
「へぇ、クッキーかい」
「ふふん! なんと私の手作りですよ!」
「君のことだから、毒でも入ってそうだ」
「入れるか!」
とことん舐められている。私がムキになって言い返そうとするが、桐嶋高雅は肩に乗った猫を手なずけながら悠々と言葉を紡ぎ出す。
「そうだね……仕事も少し片付いたし、僕も一息入れようと思っていたところだ。今日はお言葉に甘えて、君に頼まれてもらおうかな」
そう言ったかと思うとそれが頼みの合図のように、私の頭をくしゃりと撫でて席に着いた。
ああ、こんなちょっとしたことでやる気がもりもり出ちゃうんだから、バカって損だな。よし、がんばろう。
こうして即席のお茶会が幕を開けた。
テーブルまでお皿に盛り付けたお手製のクッキーを、猫ちゃんの相手をしている彼のもとに持っていく。彼の膝の上で甘える白猫ちゃんと、見守る飼い主の素敵な一枚……これほど目に入れても痛くない光景はない。目が癒される。
「毒……入ってないみたいだね」
「まじで疑ってたんですか」
一口を食べた彼からは、味の感想よりも嫌味なコメントが返ってくる。そんなことが聞きたいんじゃないんです。
猫ちゃんは気に入って食べてくれているようだ。私の心の拠り所は君だけだよ。
「あ……猫ちゃんにあげた首輪、ちゃんと付けてくれているんですね」
そのこの頭をなでなでしながら、この間猫ちゃんにあげた首輪を見て、その話題を振る。
視線を向けられた彼は何故かバツが悪そうな顔だ。
「……別に。その猫が気に入っていたみたいだから、付けてやったまでだよ。僕は知らない」
「ほお〜? 先輩こそ天邪鬼なんですか? もっと素直になったらどうなんですか?」
「僕はいつだって素のままだよ」
そうやって目線をずらして、テーブルの上のお菓子をまた摘んだ。そういうところですよ。ほんと素直じゃない。
でもまあ、お口に合ったのなら作ってみた甲斐があるもんだね。本当に甘いものは好きなんだ。たまにはこういうのもいいかな。
「そういえば、君がさっき泣きべそをかいて騒いでいたのは何だったの」
桐嶋高雅が思い出したように少し前のことを掘り返す。私のあられもない姿を桐嶋高雅に見られてしまったことのようだ。情けなくて本当のことなんか彼には言えない。
「ああ……あれは猫ちゃんを探していたんですよぉ」
「……あ、そう」
私のヘタクソな言い訳は見透かされていそうだけど、桐嶋高雅は興味もなさそうに相槌を打った。それもなんか寂しい。
「ま、まあ、幽霊とか、そんなものはきっといないですよねえ……」
「まあ、そういう話もここでは聞かないことはないよね。ある日に血塗れの生徒が目撃されたとか……」
えっ、そんな話おじいちゃんから聞いてないんですけど!? そんなの聞いちゃったら、明日から学校に来られないじゃんかあああ!
もうこの世の終わりだと、私は嘆く。それくらい幽霊やオカルトに対する免疫がない。血塗れの生徒の幽霊が真夜中の図書室を彷徨っている姿を想像しただけで、布団に包まりたい。
「ふっ……心配はいらないよ。僕のテリトリーを侵害する不届きな奴らは何人も生きて帰すつもりはないから……」
あっ、幽霊よりこの人の方が怖かったわ。
「……さっさとその手を離さないと、その猫が化けて出ることになるよ」
「あっ」
彼に言われて、はたと気づく。あまりの身の恐怖に、そばにいた白猫ちゃんを抱き寄せて、私の腕で危うく押し潰してしまうところだった。
慌てて手を離したけれど、猫ちゃんが目を回している。きゃあああ、気を確かにいいぃ!!
「……知らないままの方が幸せなこともある」
猫ちゃんの蘇生にあたふたする姿を見つめて、彼は不意に冷たく言い放った。その微かな呟きは、耳元に届くこともなく、ひとときの喧騒に消えてしまう。