新しく始まる、ぼくの一日
ふわふわのキラキラした、少女漫画の主人公のような少女がいた。
カーディガンの袖口からはほんの少しだけ指先をだし、爪はヌードカラーをムラ無く塗り上げる。真冬の寒い時期、学校指定のスカートは三つ折りにして短く見せる。厚手のタイツを許可されているだけこの学校は随分とマシのように思えた。
前の学校は、ハイソックスが冬場でも着用を義務づけられていたし。
まあ、そもそも、前は男子だったからそこらへんよく分からないけれど。
ただの風邪だと思って、二学期の終わり頃から伏せっていた。
熱も一度だけ四十度近くまで上がったけれど、それだけだった。いやそれが境だった。
熱が引くのと同時に、ぼくの体は男から女に変わっていた。
まるで変身のように。ある日突然知らない少女の体になっていた。
症例としては聞いたことがある。性変性症。それがまさか自分の身に起こるなんて思ってもみなかった。
なんとかなるだろうと思っていたけれど、思ったよりなんともならなかった。
酷く傷ついた心は壊れそうになる直前で、なんとか逃げることで保つことが出来た。
ある日突然、性別一つ変わることで、極端に変わる環境というの自ら体験してみて、思った以上に大変なんだと。物語の中の人物になってしまったかのような感慨を壊れかけの心に抱いたのだった。
「ねえ、大丈夫かな」
ぼくは鏡に問う。
正確には鏡の奥、ぼくに逃げ場を用意してくれた人に。
「大丈夫、可愛いよ」
ぼくとは違う声が、ぼくに降りかかる。
大丈夫イマジネーションフレンズではなく、ちゃんと生きている人だ。
なぜか存在していた許嫁。
その人がぼくの事を可愛いと言ってくれている。
黒髪のすらりとした長身の美人さんだ。
「自信もって! 今日からはあなたの本当の姿を知っている人なんていないんだから!」
明るく、元気よく。ふんわりした柔和な笑みを浮かべながらぼくの後ろに立つ女の子は、ぼくの肩に手を置いていた。ぽんと気軽さを感じさせるような、そんな感じだ。
「そっか……」
少女漫画の主人公のような、守られ系で小動物系な少女が困ったように綺麗な顔を歪める。未だにこの美少女が自分だなんて信じられない。
背は低く、髪はふわふわのロングヘアー。目はぱっちりと大きくて、鼻はすっきりと、そして唇は薄い。絵に描いたような美少女だった。自分でもびっくりだ。
それでも人から聞かされると、元の面影は随分と残っているそうだ。だから、ぼくの名前をだすと「ああ!」と言った反応が返ってきて、そして憐憫を向けられる。
それがイヤで、逃げ出したのだった。
「大丈夫。私も一緒だから」
くるりと、ターンをさせられて鏡越しだった視線のぶつかりが、リアルな物になる。
黒曜石のような綺麗な力強い目が、ぼくを射竦める。そこには憐憫はなく、年に何度か逢う程度の仲だというのに好感度が異次元の数値を示してくれている愛情のような物だけがある。
何もしなかったわけじゃないけれど、そこまで好感度を稼ぐようなイベントがあったのかすらも記憶が怪しいのだけれど、今はその愛情に随分と甘えさせて貰っている。
一か月程度の間、随分と仕込まれた。
そもそも、年に何度か逢うと言ってもここ最近は体を重ねるために逢っているような物だったから、お互いの裸を見せ合うということ自体に抵抗はなかったし、体を重ねることで幾ばくかの安心感もあった。
一か月で、外見の美少女らしさを保つことが自分で出来るようになったのは、彼女の存在が大きい。未だに年相応の服はまだ選べないけれど。
「それは心強いね」
「いつでも、私の所に来て泣いていいから」
「あんなみっともない真似は、あまりしたくない……」
「可愛かったのにー」
それは外見上の事を言ってるわけでは無いと、懇々と説明されて理解した。
彼女はいつも、ぼくのやることなすことを可愛いというのだ。
同い年だというのに。
その普段と変わらない態度に救われた。
ぼくがこんな姿になったのにも関わらず、ぼくを求めてくれる。
それがたまらなく嬉しくて、たまらなく救われて。
親ですら、ぼくのことを腫れ物を扱うような態度だったのに、それがなくて。
それがどれだけぼくにとっての救いだったか、言葉を尽くしても彼女には届かないだろう。
ぼくと同じように、救われた人間にしかこれは分からないだろうから。
「今日から、がんばろう。新しいきみを始めよう」
そういって、ぼくの手を取って彼女は前を歩く。
ほんの少し前までは手を引くのはぼくだったのに。
守られてるなあって。
「絶対、ぼくがまた前を歩くから」
新しい制服、新しいバッグ、新しい靴。
新しい生活圏、新しい学校、新しい人間関係。
前の所から行こうと思えばすぐに来られる場所。
けれど、学生にはその負担はとても重くて、気軽には来ることが出来ない場所。
そんな所から、ぼくの新しい生活が始まる。
社会に出たことのないぼくたち学生は、学校が全てだから。
そこが変わったことで、始まる合縁奇縁。
どうなるかなんて分かるはずがなくて。
でも、ぼくが元々男であったことは秘匿事項で。
知っているのは、ぼくの許嫁の彼女と、それと養護教諭、担任と、後は学校の偉い人達くらいだ。
用意された新しい戸籍。死に物狂いで物にした外見に沿ったキャラクター。
そんなハリボテを武器、ぼくは今日から新しいぼくを始める。
……まあ、見た目ガチャでURを引いているのでイージーモードだというのは、許嫁談だし、ぼくもそう思う。儚げな美少女を装っていれば問題はたぶん無いとおもう。
ただ、見た目のふわふわキラキラした感じとは裏腹に、中は随分と荒んでいる。正直ちょっとくらいの人間不信は許して欲しい。ちょっとで済むかは知らないけれど。
「じゃあ、頑張って」
校門の前で彼女と別れて、ぼくはこれから一人、教室へと向かう。上官は担任だけど、担任は昼行灯を絵に描いたような人物で、ぼくの素性を知っても「ああそう」とそれだけだった。大変だねとも頑張ってねも無かった。それがまた随分と気が楽になる。
時季外れの転校生は、これから一日随分ともみくちゃにされた。
休み時間は女子からひっきりなしに質問攻めに遭い、男子からは好奇の……どちらかというと、ヤれるかヤれないかという値踏みにも近い視線に晒された。
つらかった。
キャラクターを演じてる間は心を殺せたけれど、ふとしたときに我に返って死にたくなった。
性変性症の発症者が短命なのは、きっとギャップに耐えきれず自殺してしまうのだろう。
そんな悟りを開くレベルだった。
一人で家路につき、玄関をあける。
許嫁の彼女はまだ、帰宅していなかった。あの見た目でそれなりに何でも出来るのだからそれはそれは学校でも重宝されているようで、帰りが遅いときはままある。
すとんと玄関に腰掛けて、そのまま廊下に寝転がった。
行儀が悪いけれど、今のぼくに靴を脱いで自分の部屋まで戻る気力はなかった。
「はあ……」
大きな溜息とともに、視界がじわりと滲む。
外見だけしか見られないというのは、これほどまで辛いとは思わなかった。
指先だけちょこんと出した計算された萌え袖、小さく手を振る回数、振り幅。笑顔の作り方、口の端の吊上げ方、微笑むときの目の閉じ具合。
そのどれも気を抜けばすぐにでも崩れ去る砂上の楼閣だ。
美少女の外見を維持するのも大変だった。
これはぼくと彼女とで話し合って決めたことだったから、異論は無い。
異論は無いけれど、外見に沿ったキャラクターを演じるというのは、これほどまで辛いのかと。中身をほんの少しも見せられないというのは、大変すぎた。
ぼくの今日一日の努力をすぐにでも褒めて欲しい。
それくらい心がすり減った。
壊れかけの心に、これは随分と致命傷だった。
今のぼくの弱さを見せられる彼女に甘えたいと、そう思ってしまっている。
涙の跡を床にこぼさないように、腕を目元に当てる。
学校指定のコートのざらついた肌触りが、涙を吸い上げてくれているのが分かる。
化粧は殆ど必要無く、崩れる心配もない。
精々が、彼女とお揃いのリップを塗っている程度だ。
声を押し殺して泣く。
がちゃりと玄関の開く音がして、ほんの少しだけ転た寝をしてしまっていた事に気付いた。
あまりに心が死にかかりすぎて、強制的に意識が落とされたようだ。
差し込む日が茜から宵へと変わっていた。
「あ、おかえり」
体を起こして、彼女を迎え入れる。
「ただいま、一日おつかれさま。私が早く帰って来れたら良かったのにね……」
「人気者は辛いね」
くらく、おたがいのかおは、よくみえない。
取り繕ってなんとか元気な振りをして見せる。
けれども、ぼくが、玄関で力尽きているのは姿を見れば一目瞭然だ。
彼女が大きく一歩、入り込んでくる。
いつもはそっと閉める玄関の取っ手を離して、踏み込むと同時に膝を折る。
優しく抱きしめられた。
「だいじょうぶだった?」
「全然大丈夫じゃなかった……」
耳元で、ぼくいじょうに泣きそうな声で彼女が聞いてくるから、ぼくは正直に答えた。
大丈夫じゃなかった。思った以上に辛かった。
「ごめんね……つらかったよね、様子見に行けたらよかったのに……」
「この姿になって、向こうの学校に一日行ったときも感じたけど、見た目がいいって大変だね……きみも随分苦労したんじゃ?」
「それはもう慣れたから。でもあなたは初めて尽くしのところで一人で、何も表に出せない状態で、絶対大変だって、思ったから。とても心配だったの」
その心配が胸に染みる。
同情や憐憫じゃないということが、わかるから。
「……失礼を承知で、お願いがあります」
「なに?」
ゆっくりと体を離して、宵闇の中でも見える彼女の目を見る。ほんの少しだけ目尻に涙が浮かび、鼻は寒さなのか分からないけど少しだけ赤らんでいる。
「その大きなお胸を少しだけお借りしてもいいですか」
ぼくの声は震えていた。
見知った顔が、声が、ぼくのことを心配してくれている。
その安心感から、緊張の糸がもうほんのこより一つ分程度しかないのだ。
「ん、いいよ」
彼女が両手を広げて、ぼくを迎え入れてくれた。
その胸の中でぼくは泣いた。
一人の寂しさ、キャラを演じる辛さ、新しい環境の心細さ。
今日一日で体感したありとあらゆる悲しみを彼女の胸の中にぶちまけた。
こうしてぼくの新生活の一日目は、不安から始まり涙で終わるのだった。
一杯泣いてしまったせいで、随分とお腹が減ってしまった……。