追憶 (1)
僕は一体どれだけ生き続けてきただろう。
何度死のうとし続けただろう。
そして、何度死ねなかったんだろう。
なにも食べずとも、なにも飲まずとも、僕は死ななかった。食べようと思えば何だって食べられるし、水だって飲める。だけどただ、その必要がなかった。神さまは、ここから僕を逃してはくれなかった。そして僕は死のうとするのをやめた。だって苦しいだけだから。
もう僕は分からなかった。
神さま、どうして僕だけ罰されなければならぬのですか。
僕が生きなければならなくなったあの日から、罰を与えられたあの日から、かなりの時間が経ったと思う。どうやら人は、季節が何十回か巡ったところで死んでいくようだった。なかには季節が巡ることも知らずに死んでいく者もある。でもひとつだけ言えるのは、皆、いつ来るかわからぬそのときを、それぞれの炎が燃え尽きるそのときを、待っている。
それに比べて僕は。僕の生は、言ってしまえばここにずっとある、湖のようなものなのかもしれない。あの日僕をここから連れ去ってはくれなかった、この湖。どこへも行かず、どこへも行けず、ただただ待つものもなくそこにあり続ける。深く、暗く、火を灯すことすら許されぬまま。
森の中に身を隠しながら暮らす僕が人と関わりを持つことはなかったが、僕はいつでも人の気配を感じていた。生きては死んでゆく、そんな、美しい人の気配を。
僕は自分が人とは到底呼べるものでないことくらいわかっている。もう美しく生きるのを許されないことも。だから人とは会わないようにしていた。なのに。それなのに僕は、あの日あの人と、あの場所で、出逢ってしまったのだ。
その日、散歩から戻ると、僕がいつもいる木の下で誰かが眠っていた。見たこともないくらいに真っ黒な髪の毛が風に揺られ、西の方から差すオレンジ色の光を反射させていた。こんな場所、人が来るようなところではないのに。
僕が困って立ち尽くしていると、その人は目を覚ました。闇を吸い込んできたかのように真っ黒な瞳と目があった。そしてその人は言ったのだ。
「君がここに住んでいるっていう、アルビノの子だね?」
僕は驚いた。人に話しかけられるのは初めてだった。人の言葉を理解はできるものの、自分は話すことができないということを、僕はこのとき初めて知った。そうだ。僕は言葉を発したことがなかったのだ。
「こんにちは。わたし、リンっていうの。君にどうしても一度、会ってみたくて待ってたの。」
驚きの次に僕を襲ったのは、恐怖だった。僕は怖かった。人と目が合うのも、人に語りかけられるのも、人の声をこんなにも近くで感じるのも、全部初めてだったから。僕は全てが恐ろしくて、まるで呪いにかかってしまったみたいに、瞳を動かすことさえできなかった。
それから数秒して、その人は、僕の知る、人の持つ中でもっとも優しい顔を僕に向けた。それを微笑み、というのだということを、僕は後で知ることになる。当然僕は、こんな表情も向けられたことなどなかった。
「ごめんね、怖がらせちゃったね。今日はもう帰るね。だけど明日また来る。必ず。約束ね。」
そう言うと、その人は一度も振り返ることなく、いつも僕が感じている、人の気配のする方向へ歩いて行った。気がつくと、オレンジ色の空はすっかり暗くなっていた。
僕はそれからも、しばらく動くことができなかった。たった今起こった、一瞬の出来事全てが僕にとっては初めてだった。なぜ人がいるのだろうだとか、どうして僕の存在を知っているのだろうだとか、そんなことを考える余裕などなかった。やっとの思いで呪いを解いた僕は、なぜかいつもより暖かくなった木陰に座って、そのまま眠りに落ちていた。
不思議な夢を見た。
僕は、目から柔らかいガラス玉のようなものを零していた。きらきらと光りながら頬を伝うそのガラス玉はとても暖かくて、だけど胸のあたりが少し痛かったような気がした。
零れ続けるガラス玉を、落ちてしまわないように優しくひろったのは、僕のものではない、白くて小さな誰かの手だった。それが誰の手かわからないまま、その夢は光の中に消えていった。
目を覚ますと、オレンジ色だった光はまた白く生まれ変わって、この森を照らしていた。もう朝だった。ふと、左肩に温もりを感じて目をやると、その人が僕の隣で眠っていた。彼女は本当にまたここに来た。僕は昨日、この人が怖かったはずなのに、左肩から感じるその温もりになぜか安心した。そうか。昨日ここがいつもよりも暖かい気がしたのは、彼女のこの温もりのせいだったのだ。人は暖かいのだということを、僕は知らなかった。