8 医者の息子と誤解に誤算
「ねえナキア、おかしなところはないかしら? 髪は崩れていない?」
「ええ、何の問題もありませんわ」
昨日とよく似た会話を繰り返し、そわそわと落ち着かない心を鎮めようと試みる。
大きくうなずくナキアに見送られて向かう先は、王都の東側に位置するヘネシー邸だ。
いつものお出かけとは異なり、邸宅内にお邪魔するとあって、今日は道中のみカイル同伴となっている。
馬車から降りた私を、ヘネシー卿はご家族総出で迎えてくださった。
「ようこそおいでくださいました。こちらは妻のアイーダと息子のセドリックです。ご挨拶を」
奥様は柔和な笑みをたたえた美人だ。
私より2つ年上と伺っているご子息は、柔らかそうなブルネットの髪に、眼鏡の奥には碧眼が覗く。
ヘネシー卿はやはり謙遜されたのだろう、利発そうな子だ。
「主人からお話を伺い、楽しみにしておりましたの。どうぞおくつろぎくださいね」
「よろしく、リーゼリット嬢」
「お招きありがとうございます。このような機会を賜り、家人も大変感謝しておりました。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
簡単に屋敷内を案内された後、ヘネシー卿の執務室へと通された私は、その蔵書の量に圧倒されてしまった。
ここだけでなく書斎にもあるとのことだから、ヘネシー卿の医学への造詣は海よりも深いのだろう。
どっしりとした応接ソファへと案内され、ふるまわれたお茶をいただきながらお聞きした話によると。
診療や手術といった医術は西方諸国、薬学は南方から海を渡って入ってきているらしい。
学んでおくべき言語は主に3つ。
一つは全く異なるものだが、残りの二つは文法や単語が似通っているのでわかりやすいだろうと。
入門用の読本をぱらぱらと拝見したが、残念ながらすぐにマスターできるような代物ではなかった。
また、病院に勤務するのは主に医師・事務員・看護師、それに修道士だという。
修道士が在籍しているのは病院の前身が修道院だったことに由来しており、現在も奉仕活動の一環として介護を担っているのだと。
それから、麻酔もちゃんと使用されており、簡単な開頭術や心臓手術も行われているらしい。
前世であった人工心肺の代わりに、低体温循環停止という方法を用いているのだとか。
祈祷や迷信に頼るだけだったり、麻酔なしで足を切り落とすような環境でなくて本当良かった。
ただやはり手術後の感染症になる方も多いようだ。
清潔・消毒の状況をふまえて、次の検証にはぜひ盛り込みたいところだな。
あれこれ聞きまくってしまったが、嫌な顔一つせずに答えてくださる。
ヘネシー卿、マジ紳士だ。
こんなに親切にしてくださるのは息子さんのためもあるだろうけど、私を医者の道に進ませたいと思っているからなんだろうか。
効果実証の草案を見れば私が医者以外に興味を持っていることが丸わかりなんだけど……かといってヘネシー卿以外につてなどないのだ。
気を悪くされてしまわないか内心ドキドキしながら、草案をヘネシー卿に見ていただいた。
「これはおもしろい。全部リーゼリット嬢が?」
「統計手法については先生をつけていただいております」
「ふむ。あなたの年齢で公衆衛生学にも造詣が深いとは驚きましたな」
おお……ぜんぜん嫌な顔していない。
人ができすぎている……
「まだ不勉強のところも多いので、今日のお話は大変参考になりました。こちらはまだ草案ではございますが、対象病院の選定にご助力いただけますと幸いに存じますわ」
「同程度の規模の病院で、外科患者の多い病棟ですな。リストアップしておきましょう」
どっしり構えて大きく頷く様が本当に頼もしい。
ありがたい……図書館での出会いに心から感謝だ。
「セドリック。どうだ、大変に素晴らしいご令嬢だろう」
「……はい」
ヘネシー卿の言葉に、その存在を忘れていたことに気づく。
奥様は時折相槌を打ってくださっていたけど、ご子息はまるで置物のように静かだったからすっかり意識から抜けていたわ。
ヘネシー卿の言葉にも短く返事をするのみだから、もともとおとなしい子なのかもしれないが。
私から少しくらい話を振るべきだったか……
夢中になっていたとはいえ、ちょっとよろしくない態度だったかしら。
今更ながらにこにこと愛想を振りまきあがいてみたが、ご子息は口元をわずかに上げるだけだ。
お、おう……
「さて、私はそろそろ失礼します。少し仕事を残しておりまして。お招きしたというのにあまり時間が取れず申し訳ないですが、どうぞ構わずゆっくりしていってください」
「十分ですわ。貴重な時間をありがとうございました」
慌てて立ち上がりお礼を言うと、ヘネシー卿も腰を上げ、柔らかく微笑む。
「セドリック、おまえに与えた教材があったろう。それをリーゼリット嬢に見せて差し上げなさい」
ご子息にも穏やかに声をかけられ、書斎へと退室されたのだった。
今度はセドリック様の部屋に案内され、2人並んでソファに腰かけて教材とにらめっこしている。
何か話しかけるべきかとも思ったけど、何にも思いつかないし、時間は有限なのだ。
次こちらにお邪魔する機会があるかもわからないのだから、今はただただ集中したい。
こういうところが私の良くない部分なんだろうけど、性分だからもう仕方ないわ。
30分ほど経った頃だろうか。
隣からばさりと音がしてそちらに目を向けると、セドリック様が読んでいた本を投げ出したようだった。
「……もう何度も読んで覚えてるから」
「まあ、さすがヘネシー卿のご子息ですのね」
「はっ、……君、父様から聞いてないの? 俺が出来損ないの息子だって」
突然の荒んだ物言いに、思わず目を瞬かせてしまう。
この様子だと、どこかで父親の言葉を聞いてしまったのだろうか。
安易な否定はこの場合、逆効果になりかねないな。
「たいていの親は謙遜をするものですわ。私もお父様から何と言われているか怖くて窺えませんもの」
なるべく穏やかに返してはみたが、セドリック様の表情は硬いままだ。
「僕に君のような優秀さも熱意もないってことくらいわかるよ。……君みたいな子をよこして、当てつけのつもりなのかな」
「本の内容を暗記できるほど熟読するには、優秀さや熱意がなければ叶いませんわ。ヘネシー卿は私にお声をかけてくださったのも、セドリック様のよい復習になると考えてのことだと思いますの」
不信感や懐疑心が色濃く滲む、探るような目がこちらをひたりと据える。
思いっきり警戒されてるわ。
この状態で私が何か言ったところで響くものはないだろうけれど、少しでも心が軽くなるのなら。
そう思い、言葉を重ねる。
「もし本当にヘネシー卿がセドリック様を出来損ないだとお考えでしたら、こうして私に紹介したり二人での学習の機会を設けるでしょうか。対外的な親の言葉など鵜呑みにする必要はございません。セドリック様が思うよりもずっとヘネシー卿はご期待なさってみえ……」
「君に何がわかる!」
ぐっと胸倉を掴まれた拍子に、手にしていた本がばさりと落ちる。
とっさのことにバランスを崩し、ソファの肘置きへと倒れこんでしまった。
驚き仰ぎ見たセドリック様の顔は、怒りではなく苦痛に歪み、今にも泣きそうだ。
胸倉を掴んだままの腕は小刻みに震えている。
ああ……必死になって蓋をしてきたものを、私がこじ開けてしまったのか。
よく知りもせずに言葉を紡ぎすぎたのだ。
かけるべき言葉も見つからず押し黙っていると、溢れた涙がほろりと流れた。
私に見られたくなかったのだろう。
セドリック様が私の胸元に顔をうずめたところで、ちょうど扉が開いた。
「ッ、セドリック……! なんてことを……」
蒼白になった奥様が、部屋の入り口で立ち尽くしている。
今の私たちの光景が他者からどう見えるのか、よく考えるべきだったのだ。
「セドリック! おまえは、なんてことをしたかわかっているのか!」
怒声とともに、骨を打つ乾いた音が部屋に響く。
あの温厚なヘネシー卿が手をあげたのだ。
セドリック様は殴られた頬に手を当てうなだれるばかりで、何か言う様子もない。
「あ、あの……」
「ああリーゼリット嬢、私がお招きしたばかりにこんなことに……まさか息子が、このような、……っ」
奥様は泣き崩れてるし、ヘネシー卿も涙をにじませ言葉を詰まらせているのだが。
残念なことに私だけ置いてきぼりをくっている。
いったいなんでこんな大事に?
胸倉つかまれただけだよ?
頭にはてなマークを飛ばしながらおろおろしている私の前に、ヘネシー卿が膝をつく。
「あなたはお小さいのでよくわかってみえないと思いますが、このことが公になれば婚姻にも影響を及ぼしましょう。私共は決して口外することはいたしません。ですが、あなたにどのように報いたらいいのか……」
ん? まさか……
これって、殴るとかじゃない方の意味で襲われたと思われてる……!?
「ち、違います、誤解です! 私がセドリック様を怒らせてしまって、これこのように掴まれただけですわ!」
自分で胸元を掴み再現しながら同意を求めて振り返るが、当のセドリック様はふいと視線を逸らせやがった。
何無視してくれちゃってんだこのバカ息子ぉ……
変に意地張るのは勝手だけどね、それじゃ私の傷物疑惑が深まっちゃうんだってば!
「……おまえはもう私の息子とは思わない。この家から出ていきなさい」
「えっ!」
うそでしょ?!
でもこの場で驚いているのは私だけで、言われた当の本人は何の抵抗もなく、眼鏡を拾って出ていこうとしている。
ちょっ、おいおいおいおい、なんでそこだけ素直なんだ。
わ、私のせいで勘当ざたとかほんと勘弁なんですけどぉお!
「お待ちください、本当に誤解なんです! どうか落ち着いて話し合いましょう」
「リーゼリット嬢、あれに情けをかけることはおやめください。もう、私共に話し合う気など……っ」
……だめだ、これ以上話していてもらちが明かない。
とりあえず今日はお暇いたしますわ、と言い置いて退室し、馬車にかけ乗る。
車窓から街中に目を走らせていると、その小さな背中はすぐに見つかった。
「なんで訂正しないの! 勘当を言い渡されたのよ」
駆け寄り問いかけた私には一瞥もくれず、セドリック様はただ下を向いて歩き続けている。
また無視かこの野郎、と拳を握りかけたところで、小さな声が耳に届いた。
「もともと父様も見切りをつけたがっていたんだ。いい理由ができてよかったんじゃない?」
自嘲気味に笑う無気力な様子に、ぷちんと何かが切れる音がしたのがわかった。
ぱあんと大きな音を立て両手でセドリック様の頬を掴むと、痛みのためだろう小さな声が上がる。
さっきよりは生気の戻った目を真正面からねめつけ、腹の底からどすを利かす。
「今からうちに来なさい。いいわね」
邸宅に着いた私は、とりあえずお茶でも飲んでなさい、と言い置いてナキアに一任すると、お父様の執務室へ向かった。
お父様に事の次第を伝え、状況が落ち着くまで空き部屋に間借りできるよう頼んだのだが。
人様のお家事情をかき乱すなんてお前って子は、とずいぶん嘆かれ、セドリック様にも挨拶にきてくれた。
うちのバカ娘がほんとすみませんみたいなことを思いっきり言って出ていかれたから、謙遜云々の話への信憑性を増すことには成功したと思う。
ちょっと……いや、かなり切ないけど。
お父様からヘネシー卿へ、落ち着くまでうちで預かる旨のお手紙も書いていただけることになったし、ひとまずは安心か。
悲しいかな、こういうことは子供が奮闘したところで何にもならないものなのだ。
なんて日だとばかりにソファに身を沈めると、隣に腰かけていたセドリック様が憮然とした表情でこちらを見やった。
「君だって巻き込まれたようなものだろ。怒らないの」
「まあ怒ってはいるわね。お互い何にも言わないで勝手にこうだって決めつけて、あげくこれだもの。……あなた、ヘネシー卿に言いたいことがあったんじゃないの?」
「別に何も」
……ちょっとくらいは優しく話を聞いたげようと思ったのに、この野郎。
「しゃべりたくないなら、何も聞かないであげる。そのかわり、あなたは明日私と図書館に行くのよ。今日借りれなかった分の本を借りに行くわ。語学は堪能みたいだし、私にわかるように教えなさい」
腰に手を当て、びしっと指をさした私に、君の素はそれか、と呆れた声が上がったのは言うまでもない。