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悪役令嬢は夜告鳥をめざす  作者: さと
進むしかない5歩目
53/60

49 殿下の塩をいただいてます

結論から言えば。

エレノア嬢の涙は、それ以上流れることはなかった。

少し2人で話がしたい、との殿下のお達しにより、席を外してくださったのだ。

そんなわけで、殿下と2人、東屋の一角に並んで腰かけているのだが。


待てど暮らせど、話とやらを切り出される様子はなく、殿下は何やら難しい顔で黙り込んだままだ。

心当たりがあるとすれば、ファルス殿下のお怒りの原因だけど、その手の話題なら言い淀む必要なんてなさそうだしなあ。

王妃様に宣言したその舌の根も乾かないうちに、婚約解消に踏み切ろうとしたことかな……

うう、それ、すごくありそう……


「とても申し訳なく思っておりますわ。その、……勝手に殿下との婚約を解消しようとしたことと、……これまでたくさんご迷惑をおかけしていたことも……」

気づかないところで手を回してくださっていたり、築き上げた信頼を失うことになっていた経緯を知らずに、とんだ甘えっぷりを繰り返してしまった。

「いや、俺の方が……」

私の言葉に殿下は目をしばたかせ、思わずといった風に声をあげる。

「本当は、おまえを…………、……っ」

そこまで言うと、再び口を閉ざしてしまう。

えらく言い淀んでいるみたいだけど、殿下が謝ることなんてあったっけか?

首を傾げてはたと止まる。

……いや、あったわ。


ずいと差し出した私の掌を、殿下がまじまじと見やる。

「ポケットの中のものをお返しくださいませ」

「……は?」

何を、だなんて言わせないぞ。

あのハンカチだ。

だいたいなんで持ち歩いているんだ。

ここぞという時に私を脅すためじゃないだろうな。

もしそれが本当ならば訴訟も辞さないぞ。


「先ほどあの場で取り出そうとしたことでしたら、返していただければそれで構いませんわ」

「どんな理屈だ」

「もとは私のものですのよ。さきほど俺の方がと言いかけてみえたでしょう、悪いとお思いでしたら返せばよろしいのですわ」

「何の話だ……っ」

鼻先に突き出した指を捕まれ、ポケットへと伸ばした手も阻まれる。

なんと、ここにきてしらばっくれるつもりか。

互いの手をつかみあい、両者一歩も引かじの攻防を繰り広げていたが、慌ただしくこちらへと近づく足音に気がそれた。


「エレノア嬢、あちらをお借りできますか」

駆け寄る従騎士の背には、くたりと身を預ける騎士が見える。

何があったのかと足を向ければ、エレノア嬢は心得たとばかりに小さなペンダントのようなものを取り出した。

繊細な彫金が施されたそれは大変に可愛らしく、安定の女子力を思わせる。

その蓋がぱかりと開けられたとたん、つんと漂う異臭に思わず一歩後ずさった。

う……っ、なんだ、この体が拒絶する刺激臭は……!


「そ、……れは、何ですの?」

見た目のかわいらしさと醸し出す異臭とがミスマッチすぎる。

しかもヒロインたるエレノア嬢が、なんてものを持っているの?

最終兵器なの?


「ヴィネグレットですわ。外で気を失ってしまった時のためにと、持たされておりますの」

その名の通りにヴィネグレットと、アンモニア、さらに何かが混ぜこまれ染み込ませてあるのだろう。

透かし彫りによる二重構造の奥には、小さな布切れが収まっている。

本来は倒れたご令嬢への気付け薬なのだが、鍛錬中に脳震盪を起こした騎士たちにも大活躍らしい。

そういえば、そこここで倒れては水をぶっかけられるという、ひと昔前の体育会系なノリが繰り広げられていたな。

水でダメなら気付け薬ってとこか。

鼻先にかざされた騎士が顔をしかめながら目を覚ますのを見て、ぼんやりと思う。

……まさか……エレノア嬢によるファルス殿下の救出プランはこれだったんじゃないだろうな……

呼吸が止まってたら意味ないぞ。


「エレノア嬢、こちらもお願いできますか」

目を覚まし鍛錬場へと戻る騎士と入れ替わるかのように、次なる気付け薬依頼者が運ばれてくる。

従騎士たちによって新たに担ぎ込まれたのは、黒い鎧に黒い軍衣。

クレイヴ様だ。

どうやらジョストの鍛錬で、対戦したランドール様に吹っ飛ばされて気を失ったらしい。

相手は攻略対象者候補の筆頭だもんなあ……

クレイヴ様には頑張ってほしいところだが、さすがに荷が重かろうて。


兜は外されており、こちらも上から水をかけられたのか、ぐっしょりと濡れている。

エレノア嬢がペンダントを近づけても、顔をしかめて手で払おうとはするものの、動作は緩慢で目を開ける様子はない。

「あまり効果はないようですわ」

「ひとまずここに寝かせておくか。気がついたら起き上がるだろう」

慣れた様子でベンチに横たえられ、従騎士たちはすぐに鍛錬場へ戻っていく。

エレノア嬢も殿下も、これ以上何か対処するつもりもないようだが、クレイヴ様のぐったりと力ない様子に胸がざわつく。

このまま放っておいて本当にいいのか?

落馬した際の打ちどころが悪かった、とかでないよね?

手足も動くようだから頸椎損傷はないようだけど。


「よくあることですの?」

「例年、誰かしら伸びているな。たいていはすぐに戻るが」

その先は口にされることはなかったが、すぐに戻らない場合もあるってことですよね?

ぞっとする思いで再びクレイヴ様に目をやると、こめかみを水滴が伝い、枕元にはもう小さな水たまりができている。


濡れているのは水をかけられたからだと思っていたけど……これは、それだけじゃないわ。

まだ夏本番ではなくとも、今日は日が射して暖かい。

熱のこもるフルメイル、激しい運動、ろくに取られていない水分補給。

かつての日本の気候とは異なるから失念していたが、条件は揃っている。

匂い刺激や水をちょっとぶっかけただけで鍛錬復帰とか、根本的な解決にならないどころか下手すりゃ致命傷だぞ。

適切な対処さえ行えば大事ないって言ったってねえ、点滴もないこの世界じゃ、重症化したら救えないんだからね?!


「クレイヴ様、目を開けてくださいまし」

匂い刺激で効果はなかったのだ、頬をぺしぺし叩きながら声をかける。

これでダメなら腕をつねってでもと思っていたが、クレイヴ様はむずかるように目を開けた。

「リーゼ、リット嬢……」

「頭痛や吐き気は。手足がしびれたりつるような症状はありますか」

「……頭痛が、少し。ふともものあたりがひくつきます」

目が回りでもするのか、すぐに瞼は下りてしまったが、問いかけにかすれた声が返ってくる。

ううう、やはりか。

意識はあるし受け答えも正常だけど、熱けいれんの症状に加えて、このぐったりとした様子ではおそらく熱疲労も伴っている。

熱中症の重症度分類のⅠからⅢ度のうち、中等度のⅡ度といったところか。

Ⅱ度といえば直ちに対処を要し、水分摂取が自力でできるかどうかが分水嶺になる。

今はまだない、点滴治療の。


「おい、待て待て」

突然クレイヴ様の鎧を外し始めた私に、殿下の静止が入る。

殿下が鍛錬場の方に視線を向けるのを見て思い至る。

……これもよろしくない行為か。

「殿下も手伝ってくださいまし」

手を止めることのない私からの求めに、小さなため息ののち殿下の手が横から伸びた。

器用にもするすると鎧が外されていく。


「リーゼリット様、もしや『意識のない状態』ですの?」

ああ、きっとエレノア嬢は先日の講義を思い出しているのだろう。

胸骨圧迫のために鎧を外そうとしていると思われたか。

でも申し訳ない、フローチャートのどれにもあてはまらないわ。

「そうですね。けれど、こちらは対処法が異なりますの。詳しくは後程」

そんでもって帰ったら追記版をヘネシー卿あてに送るとしよう。

今起こるならば、トーナメント本番でも起こりうるってことだもんね。

医者たちへの伝達内容に織り交ぜてもらわねば。


鎧も中衣も剥いたクレイヴ様の体へと、勢いよく水をかける。

傍に控えていた侍女へと、飲用に準備されていた氷を依頼し、布に包んで両脇と足の付け根に挟み込んだ。

ここは日陰だし風通しもいいから、移動の必要はなし。

あとは水分補給か。

幸いにもクレイヴ様はまだ意識がある。

今なら経口での摂取ができるけれど……

経口補水薬があれば……でも、作るにしても、配分なんて知るわけがないし。

とりあえず水に塩でも入れて飲んでもらうか……


…………いや、似たものならできるわ。

厳密な成分は知らずとも、前世で飲んだスポーツドリンクの味くらいは、この舌が覚えている。

「エレノア様、レモネードを前回の2倍に薄めたものをお願いできますか? そちらをひとまず2杯分いただきたいの」

「かしこまりましたわ」

すぐに用意されたそこへ、持参したアレを数粒ぶち込む。

そう、塩煎りナッツを挟んだデーツだ。

レモネードの材料はレモンにはちみつと砂糖だから、ここに塩を加えさえすればそれらしいものができるはず。


しっかり攪拌して味をみると──

う、うんまい!

レモネードに塩を足すことでレモンの酸っぱさが和らいで、塩辛いというよりも柔らかな甘みを感じるようになっている。

薄めた味も見立て通り、スポーツドリンクに近い。

経口補水液は恐ろしくまずかった覚えがあるけど、さすがにそっちの味は覚えてないし、今日のところはこれで十分。


「クレイヴ様、こちらを。ご自身で飲めますか」

熱中症で意識がもうろうとしている方にこちらから飲ませるのはNG。

自分で握れないような状態では、誤嚥のリスクがあるのだ。

身を起こすのを手伝い、本人にカップを握らせると、ゆっくりとカップを傾けていく。

私たちが見守る中、クレイヴ様は数口含むと吐息交じりに呟いた。

「ご迷惑を……ふがいないです」

表情こそ乏しくとも、落胆していることはわかる。

この国の気候では、熱中症なんてほとんど認識されていなさそうだものね。


「恥じ入る必要などございません。どれほど気力体力に溢れていても体格が立派でも、避けられるものではありませんわ。このように黒づくめの全身鎧では、このようにならない方が難しいくらいですもの」

そう、黒は熱を吸収しやすく、フルメイルでは熱の逃がしようがない。

かといって、あの衝撃を考えると、鎧の強度を変えることも兜を外すことも恐しすぎて進言できないしなあ。

体の大部分を覆うサーコートは日よけの意図もあるとのことだったが、せっかくの日よけが暗色では。

「兜のバイザーは必要時以外、極力上げていただくとして、サーコートを……たとえば、白黒反転といった工夫も難しいでしょうか」

「ベントレー家の代名詞だからな」

白っぽい生地に黒の刺繍であればと思ったが、そう簡単に変えれるものではないのか。

「とはいえ、このままでは……また繰り返しますわ」

形式に縛られるせいで解決策に至れないなんて、そんな歯がゆいことあってたまるか、と言いたいのに。

受け入れられる形でなければ、それが何であっても成立はしない。


「でしたら、私がおつくりするというのはいかがでしょうか。まだ正式な婚姻を結んでもおりませんのにおこがましいとは存じますが、殿下の認可の上で私が刺繍したサーコートであれば、皆も納得されるのではないでしょうか」

未来の正妃が騎士を救うため一指し一指し刺繍を……って、なにそれめっちゃ美談じゃん!

「良いと思いますわっ!」

「なるほどな。それならばベントレー公爵も何も言うまい」

よし、その案でいこう!

さすがだよ、エレノア嬢~っ!


「いけません……、殿下に叱られてしまいます」

「兄様はそのように心の狭い人ではない」

おーい、そこのブラコンさんよ。

つい今しがた、私はその兄様に殺意をもって脅されたばかりなんですがね。

まああの様子では、エレノア嬢へ怒りが向かうことはないか。

両殿下の名を貶めることにはならないもんね。


「ですが……殿下を差し置いて、私がいただくわけには……」

「それでしたら、ファルス殿下へ贈るハンカチへ、心を込めて刺繍いたしますわ」

「……エレノア嬢は王妃教育にお忙しいのでは。ご負担ではないですか」

「さすがに一人では。侍女にも手を借りますから、ご安心なさって」

心をほぐす、ふんわりとした笑み。

気遣いも完璧とは、まさにヒロインだわ。


なおも渋る様子を見せるクレイヴ様に、しびれを切らして横入りする。

「万全な状態で臨むためですわ。あなたには目標がおありでしょう」

陛下を唸らせる結果を出せば騎士に戻れるのだ。

この機をふいにするつもりかと意図を込めれば、クレイヴ様もとうとう押し黙った。

あの3人の攻略対象候補を退けてジョストで優勝するのは、雲を掴むようなものかもしれない。

それでも。

「私は、クレイヴ様が活躍なさるところを拝見したいわ」

そう告げると、黒い瞳が小さく瞬いた。

まるで瞳に気力が灯ったように感じ、知らず笑みが深くなる。


「さあ、もっとお飲みください。症状がなくなるまではお休みくださいますよう」

「よろしければ、リーゼリット様もご一緒に刺繍なさいませんか?」

「え……っ、わ、私ですか?」

突然のエレノア嬢の提案に、思わず声が裏返る。

「……私は…………」

かつての、家庭科の授業での残念過ぎる制作物が頭をよぎる。

洗練されたサーコートが、私の一指しで一部だけもっさい仕上がりになる予感がもりもりする。

「その、……お力になれそうもなく……」

たそがれてしまった表情から察してくださったのだろう、それ以上エレノア嬢からの追撃はなかった。


ふと視線を感じて顔を上げると、向かいでなんとも言えない表情をした殿下に行き当たった。

「殿下?」

「べっ、っつに、これといって何も、俺は思ってはいないからな」

……若干嬉しそうなそぶりが見え隠れしているところ申し訳ないが、刺繍への参加を断わったのは喜ばしいことでもないんだぞ。

刺繍もできず記憶力に難ありで社交にも期待できない。

婚約者としては致命的な部類の令嬢だってことなんだからね……

あえて言わないけど。



さて、クレイヴ様の対策はエレノア嬢にお願いするとして、ほかの騎士はどうだろうか。

通気性の悪そうなフルメイルはジョスト参加者のみだ。

キース様のサーコートは白地に青、ランドール様は赤地に黄色の刺繍。

コンラッド様はオレンジの生地に紫、もうひと方は黄色に深緑の刺繍となっている。

ジョスト参加者でサーコートが暗色なのはクレイヴ様だけのようだけど、ジョストに参加しない者でもリスクはあるか。

回復して鍛錬場へと戻っていったあの騎士だって、すでに軽度の症状が出ていた可能性だってあるしね。


「エレノア嬢、本日からレモネードを多めの水で割り、休憩のたびに配っていただきたいの。通常の状態であれば、塩煎りデーツはそのまま召し上がっていただいてかまいませんが、クレイヴ様のようなご様子では咀嚼は難しいかと思います。ですので……」

「かしこまりましたわ。十分な量が確保できるよう努めます。塩も別途用意しましょう」

エレノア嬢……っ、ときめきが溢れちゃう。


「殿下、こまめな水分補給ができるよう取り計らっていただけませんか。できましたら鍛錬中だけでなく、トーナメント本番も。すべての参加者が憂いなく競技に参加できるようにしたいのです。水分といってもこちらのように塩と砂糖の入ったものが望ましいのですが、その、難しいようでしたら……」

「なんだ、珍しく殊勝だな。その程度、気に病むことか。かけあってみてやる」

殿下側の背景やら甘えすぎを自覚しての依頼だったが、呆れた様子でさっくりと返ってくる。

そういうとこ、そういうとこだぞ!


私には何でもないことのように装っておいて、また知らないところで手を尽くすのだろう。

王妃やファルス殿下のことがなければ、生意気な、の一言で終わっちゃってたでしょうが。

そういう、不器用な甘やかしは良くないと思います……っ!

「……今度、お2人には何かお礼いたしますわ」

頬が熱くなるのが悔しくって、ついつい唇を尖らせてしまう。

あんまりまじまじと見ないで……っ



「リーゼリット様。ところで、なぜ塩を?」

「ナメクジに塩をまくと、水が出て縮むでしょう? その逆で、塩を摂ることで体内に水分を留めるのですわ」

正しくは腎臓の機能や細胞膜と浸透圧が絡んでくるのだけれど、ざっくりとした理解を促すならこの例えが一番なのだ。

「ナメクジ……。でしたら、小麦粉でもよいのかしら」

「えっ」

予想の斜め上の反応にぎょっとする。

こ、こむぎ、こ? ……なんでまた小麦粉??


「薬草畑のナメクジ駆除では、小麦粉を用いるものですから」

な、なるほどねー!

畑に塩撒いたら、塩害になっちゃうもんね。

ハーブが育たなくなったら嫌だもんね?


「今の例えは忘れてくださいませ。小麦粉はちょっとばかり効果が異なりますの」

他にいい例えは……や、野菜の塩もみ……ですかねええ……?

ヴィネグレットとは

ヴィクトリア朝時代に貴族の間で流行っていた、気付け薬を入れたジュエリーのこと。

コルセットできつく絞めつけられていたり、蝋燭の火の暑さと二酸化炭素による酸欠状態になったり、虚弱な体質が推奨されたこの時代、気を失うご令嬢が多かったのだとか。

そんなご令嬢を救うアイテムだったそうです。

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