42 いったん持ち帰るが吉
大きな揺れに目を開けると、ぼんやりとかすむ視界の中、馬車の内装とともに向かいの座面に預けた包みが映った。
左半身にぬくもりを感じて重い頭をゆっくりと持ち上げると、セドリック様が厳めしい顔でこちらを見ていた。
朝から気を張ってた分の疲れが出たのだろう、どうやら寝入っていたらしい。
思いっきりセドリック様にもたれる形で。
「ごめんなさい、重かったでしょう? どのくらい寝ていたかしら」
まだ眠い目を擦りつつ身を起こし、セドリック様越しの景色を見やる。
「別に。そう長くもないよ、あと少しで家には着くけど」
小さな車窓からは見慣れた看板が目についた。
病院からここまで距離があったはずだ。
それまで肩を貸してくれていたのか。
振り払われないなんて、珍しいこともあったものである。
それにしても私ってば、寝入る前に警戒心の話をしていたというのに。
これでは警戒心がないといわれても文句が言えないな。
「ええと、……寝顔見ました?」
「君だって見たじゃないか。あいこでしょ」
そういえばそんなこともあったなあ。
思わず遠い目になってしまうわ。
「ねえ。さっきの培地を使った検証だけど。企画書には僕の名前も印字されるの」
「そうですね、セドリック様との連名になるかと」
「それなら、先に固形培地の有用性について論じたものを医学誌に送っておいた方がいいね。その方がそっちの検証結果から消毒法にのみ注目されるでしょ。僕でよければ書いておくけど」
「助かりますわ。ああ、でも寒天培地を使うなら、エレノア嬢の許可も取らないといけませんね」
おそらくは寒天培地の方になるだろうし、今度お会いするときにでも話を通しておこう。
「あの子、また来るつもりのかな」
「……! きっと来られますわ!」
ため息交じりにぽそりと呟かれた言葉に、食い気味で返す。
セドリック様め、すました顔してずっと気になっていたとみえる。
初日でこのセドリック様を落とすとか、本当にエレノア嬢はんぱないな!
小さな恋のはじまりを目の当たりにした身としては、気がかりがひとつある。
セドリック様はエレノア嬢の婚約者のことを知っている風だった。
気にはならないのだろうか。
「エレノア嬢にはファルス殿下という婚約者がいらっしゃいますのよ?」
「はあ? そんなの僕には関係ないだろ」
えっ、情熱的……っ
あんた、そんなキャラだったの。
やはり攻略対象ということなんだな。
原作小説においての立ち位置はライバルだったし、ほかで恋愛している様子もなかったはずだから、恋するとどうなっちゃうのか私は知らないのだ。
「意外でしたわ、セドリック様は恋愛事に興味なさそうな印象でしたから」
「なに、もしかして君、玄関で……聞こえてたの……?」
ぎょっとしたように顔を上げたセドリック様が、途端に落ち着きがなくなる。
その反応、もしや初日から口説いてたのか?
手が早すぎだろ……っ
齢12歳にしてすでに情熱的な恋の片鱗見せていくとか。
「い、意外でしたわ……」
まじまじと見ていた私をどう取ったのか、ばつが悪そうに表情がゆがむ。
「なんだよ、悪い? 僕だってちょっとくらい……好ましく思っていたっていいだろ」
「いいえ、いいえ。良いと思いますわ」
「……君、こういうの苦手じゃなかったの」
「まあ、少しは。でも嫌いではありませんわ」
経験がなさすぎて相談相手にもなれないけど、コイバナは嫌いじゃない。
だてに恋愛小説読み漁ってたわけじゃないんだぞ。
自分が関わるものでさえなければ、のろけだろうが叶わぬ恋の吐露だろうがどんとこいだ。
「なにそれ。僕が手を伸ばしてもいいって風に聞こえるけど」
「もちろんよ、いいに決まってるわ!」
「……っ!」
驚きに見開かれた目が、戸惑うように揺れる。
なんだよなんだよ、背中押してほしかったのかよ!
現時点でエレノア嬢の好きな方はファルス殿下だけれど、心変わりする可能性だってないわけじゃないしね。
セドリック様が望むならば。
原作小説のような良きライバルにはなれなくとも、良き友人として!
2人きりになるお手伝いくらいなら、ひと肌もふた肌もぬいでやろうじゃん!
「私、応援するから!」
「………………は?」
セドリック様のことだからこっちの心持ちなんておかまいなしに、君じゃ頼りにならないでしょ、とか返ってくるだろうと踏んでいたのに。
「……ああ、なるほど……、そういう…………」
なぜかセドリック様は項垂れ、顔を掌で覆うと深く重い溜息をついた。
「君、ほんっとひどいよね」
身に覚えのない言葉に瞠目していると、セドリック様は顔に当てた掌でむしるように眼鏡を外した。
眼鏡のつるを折りたたみ、座面の傍らへと下ろされるのを目で追う。
そこに置くと馬車の揺れで落ちてしまわないかと気がそがれたうちに、顔のすぐ横に手をつかれて我に返った。
目前に臨むセドリック様の目は完全に据わってるし、かつてないほど額に青筋が立っている。
……マジ怒りモードですか?
「自分でも呆れるよ。こんなのがいいとか、本当どうかしてる」
「あの、私、何か逆鱗に?」
「あたりまえでしょ。なんで今日会ったばかりのよく知りもしない相手に、僕が惹かれなきゃならないの」
え? でも、相手はヒロインだし。
そういうこともあるんじゃないの?
しかもすごいいい雰囲気だったじゃん。
ぱちぱちと瞬きするだけの私に、呆れたように息を吐いた。
空いた掌でぐしゃりと前髪を乱し、いらだちを含んだ声が続く。
「ペニシリン製造は惚れた相手のためだって言えば、君にも伝わる?」
…………へ?
「ゼラチン培地の案も、君との共同作業みたいで勝手に喜んでたって言ったら」
…………んんん……?
どういうことだ?
原作での私は、よきライバルの、はずでは……?
ライバルになれるはずないのはわかりきってるけどさ、同じ医療を志す仲間くらいにはなれてるんじゃないかなんて思ってはいたけどさ。
セドリック様の想い人が、私……?
手をぺんぺんはたかれている記憶か、憎まれ口叩かれているくらいしか記憶にないのに?
「でも、エレノア嬢と一緒にいるときのセドリック様、楽しそうでしたし……」
「君が妬いてくれたんじゃないかって思ったからだろ」
「帰りがけだって、口説いていたのでは」
「するはずないでしょ! 僕、君からどんな認識になってるの」
「……君のことバレバレで、ちょっとからかわれてただけ。あの子が、何のてらいもなく切り込んでくるからさ」
気まずそうに外された視線に、エレノア嬢の帰りがけの光景がリンクする。
初対面のご令嬢に指摘されてしどろもどろになっていたかもしれないセドリック様を想像して、ちょっときゅんとしてしまったのがよくなかったのか。
「その反応、少しは期待したっていいってこと?」
セドリック様の肘が折れ、顔の横についた掌が肘へと代わる。
それすなわち、一気に顔が近くなったわけで。
「えっ、ちょ、ま、まって」
慌てて両手を割り込ませてみるが、それで距離が変わるわけでなし。
セドリック様の上腕分しかない至近距離から、真剣なまなざしがこちらを射る。
いやうそでしょ、本当に、待たれよ。
さっきまでのお怒りモードはどこ行ったんだ。
なんでいきなり怪しい雰囲気になっているのか、誰か私に説明してくれ!
大混乱中の私を待ってくれているのか、セドリック様はその姿勢のまま動かない。
逆を返せば、なにか返事をしない限り腕の檻に閉じ込められたままってことだ。
何かって、何を言うの?
何を言うべきなの??
「……えっと、まったく思いもしなかったというか」
これ以上は小さくなれないってくらいに縮こまる私を追いかけ、俯いた顔を覗き込まれる。
「うん」
先を促す声が、これまでのセドリック様にない甘さで震える。
「そもそも私には婚約者が」
「さっきの君の話の流れだと、婚約者のいる女性に粉かけていいって意味に聞こえたけど?」
ひ、ひえええええ、その通りですぅ!
友人のためを思っての言葉が、まさか自分の首を絞めるなんて。
どうすんのこれ、どうしたらいい。
喪女の処理能力をはるかに超えている。
「嫌なの」
胸板にあてた手を取られ、掌を握りこまれる。
与えられる熱に思わずぎしりと固まってしまった指へと、唇が押し当てられる。
ふにりとした感触が1回、驚きに凝視する中、場所を変えてもう1回。
最後にちう、と吸い付いてからこちらを臨む碧色の瞳に。
私の顔が火を噴いた。
「こっ、こ、この件! いったん持ち帰らせていただいても?!」
ぐるぐるした頭で咄嗟にでてきたのはこの言葉である。
色気もへったくれもない、ヘネシー卿も愛用の、逃げの一手。
はあ? と聞き返すセドリック様の声が地の底に響くほど低くなったのは……うん、実に予想通りでしたわ!




